28 隠里4
†カル†
ジンが里に来て一月が経った。
この一ヶ月、カルは世話役として暮らしていた。
食事を作り、洗濯をし、ジンのために知者を紹介し、書物を当たった。
我ながらよくできた臣下だと思う。
相変わらずジンはカルを女として見ないが、それはそれで居心地がよかった。
男とか女とかを意識すると面倒なことも多い。
その点、男同士と考えると気楽だ。
里長からは、さっさと押し倒して子供を作れ、とせっつかれるが、のらりくらりとかわしている。
以前の自分だったら、命令だから聞かなくちゃ、とジンに眠り薬でも盛ったと思う。
けれど、今はジンの臣下だ。
主の望まないことは死んででもしない。
里長が刀を持ち出してもカルは戦う心構えだ。
さておき、最近はそれどころではなくなっていた。
ジンが家に籠もって出てこないのだ。
どう考えても変だった。
ジンはじっとしているのが大嫌いな人種だ。
読書よりも剣術の方が好きなはずで、間違っても歴史の勉強などする人ではなかった。
なのに、ジンはもう十日近く外に出ていない。
一日中、部屋の中で考え事をしている。
たまに思い出したように勉強がしたいと言い出して、カルを呼び出す。
それ以外はずっと畳で横になっている。
業を煮やして、何を考えているのか聞いてみた。
すると、ジンは「考え事」とだけ答えた。
何をそんなに考えているのか。
王のことを真剣に考えているのか。
そうだったら嬉しい。
だが、ジンに限って、それはないと思う。
面倒くさいことが嫌いで、食うことと寝ることが好きで、女と忍法なら忍法が好きだと言う人なのだ。
真面目に考えるなんて、ない。
絶対にない。
だからこそ、心配でならないのだった。
ジンが部屋を出ないことは、里長の耳にも入っていた。
里長は政務や祭事でジンを連れ出しているが、その席でもジンは上の空だった。
なんとかしろ、と命令が飛ぶのは目に見えていた。
そんなある日、ジンはふらっと家を出たかと思うと、晴れ晴れした顔で帰ってきた。
そして、
「俺、王やるよ」
「え――――――――――――――――――――――!?」
なんで?
あれだけ面倒くさがっていたのに?
「やってって頼まれちゃって」
「それで!?」
王って、頼まれたからやるものだっけ!?
そんなに軽くていいんだっけ!?
というか、王の意味、わかってる!?
疑問が頭の中に並ぶ。
ありすぎて、どれから聞けばいいかわからない。
「ジン、王って大変な仕事だよ? わかってる?」
「わかってる、わかってる」
絶対わかってない「わかってる」だった。
これはダメだ。
何かよくないことが起こる。
何がよくないって、ジンが王を理解していないことだ。
王を水やり当番か何かと勘違いしている。
しかし、王については、里長もカルも言葉を尽くした。
これ以上、言うことはないと思う。
どうすればいいんだろう……。
今度はカルが思い悩む版だった。
そんな折に、密偵が報告書を持って帰郷した。
ズイレンに駐在する密偵は各地方から上がる報告をまとめ、半年に一度、里に報告書として持ち帰る。
この日は報告読み上げの日であり、これは零の集いを相手に行われる。
今回は重要政務にはジンを参加させるという方針により、ジンとカルも参加した。
カルは入り口近くの壁際に、ジンは里長の横に座る。
ジンの前には、六人の長老と三人の将が座るため、二人の距離は遠い。
一応、ジンの世話役としての参加だったが、形だけなのだろう。
「それでは、私めから報告をいたします」
町人の格好をした男が膝をついたまま入ってきた。
男は顔を伏せたまま、朗々と書を読み上げる。
「ここ数年の異変は留まるところを知らず、イサン地方では新たに四つの農村が廃村となりました。いずれも飢餓または疫病が原因となっております。……農村部の瓦解により、町にも食料が行き渡りづらくなり、小規模の町では飢餓が始まっている模様です。特に天上人付きの奴隷以外は略奪の対象となりやすく、ズイレンのような大きな町でも人間同士の殺し合いに発展しています……」
天候不順と穢魔の出現は以前から知られていたが、それにしても救いのない話だった。
不作になれば真っ先に人間が割りを食い、生きるために必要な食糧まで年貢で取られる。
貧すれば人は容易に蛮行に走ってしまう。
「それに対して、魔の一族はどのような対応を?」
里長が尋ねると、聞く側にいた忍将が答えた。
「知行政ローボー・シヌガーリンは、税率を上げ、蔵米量の維持を図っているようです。豊作不作によらず、自身の実入りは削りたくないという方針のようです」
「それでは、ますます農村が飢え、収穫が減るではないか」
「然り。だが、彼奴らはそこまで考えてはいません。人から絞り尽くせば、次は自分たちの番だと知らぬようです」
「愚かな……」
里長はため息をつく。
不作のときに税率を上げれば、百姓の生活が成り立たない。
全滅した村もいくつかあると言うから、死者数は相当だろう。
働き手が減ることを危惧するかとも思われたが、結局、飢饉が起ころうと天上人の考え方は変わらなかったわけだ。
各地方の報告も似たような内容が続いた。
大筋はイサン地方と同じで、どこも苦しい状況だった。
報告が終わると、里長が全体を統括し、密偵に労いの言葉をかける。
「これからも厳重に監視を続けよ。報告ご苦労であった」
「はっ、誠心誠意努力いたします」
密偵が頭を下げて退出する。
報告会は以上だ。
明るい話題がなかったことに誰もが諦めの顔をしている。
里長は、疑義のある者は、と呼びかけるが、誰も反応しない。
これも形だけなのだろう。
ろくに時間を開けずに、里長は閉会を宣言した。
……いや、しようとして、できなかった。
手が挙がっていたからだ。
里長の右隣。
手を挙げているのはジンだった。
…………このとき、カルは額に汗を伝うのを感じた。
何だろう、この汗は……。
自分でもよくわからない。
わからないが…………、このあとに起こることを本能が恐怖しているのはわかった……。
なにせ一ヶ月近く沈黙を守ってきたジンが発言をしようとしているのだ。
ろくなことになるはずがない。
……とても、とても嫌な予感がする……。
「……なんでしょうか、殿下」
里長が訝しみつつも声をかける。
「王ってのは何でも言うことを聞かせられるんだよな?」
報告会と関係のない質問が飛んだ。
里長は顔をひきつらせながらも、
「……左様にございます。王の発した勅令は、何人たりとも覆すことは叶いません。それは法に等しい力を持つ言霊なのです」
「そうか」
ジンは満足気に肯く。
その笑顔がカルには怖かった。
絶対、……絶対、変なことを言う気だ……!!
耳をふさぐ。目をつぶる。
…………それなのに、隙間からジンの声が忍び込んでくる。
「じゃ、俺は王になるぞ!」
「…………」
粘りつくような間が空いた。
今度は里長も即答できなかった。
長老たちが顔色一つ変えずにジンを見ているのが恐ろしい……。
「俺が王になっていいんだよな?」
ジンが重ねて問うと、里長は額の汗を拭って、
「も、もちろんでございます。王家の血を引くのは殿下しかいらっしゃいませんので。……しかし、急にどのようなお心変わりでしょうか? 殿下は王になるのを嫌がっておいでだったと記憶しておりますが……」
「あぁ、ずっとなりたくなかった。でも、気が変わった。約束したんだ」
「約束……、お聞きしても?」
「あぁ、人間が楽しく暮らせるような立派で豊かな国を作って欲しいって頼まれた」
ものすごく真っ当な響きだ。
王を志す動機としては満点に違いない。
…………なのに、どうしてか素直に喜べない。
何かが起こる気がしてならない。
「それは素晴らしいお志です。王になられるという決意も含め、このコアンは賛成いたしますぞ」
「本当か!? だったら、頼みがあるんだ!」
「えぇ、なんなりとおっしゃってください。零は王の矛であり盾。どのような望みも聞き入れましょう!」
「じゃあ、今すぐ兵を集めてくれ! 俺はこれから天上人を倒しに行くぞ!」
「「「………………」」」
今度こそ無言が場を支配した。
ジン以外の人間は氷漬けにされたかのように動かない。
誰も、何も、言わない。
視線が里長に集まる。
里長は咳払いをして、
「殿下、何故、いきなり魔の一族を倒すなどと……?」
「豊かな国を作るためだろ。豊かにするには何をすればいいか、ずっと考えてたんだ。畑を耕すか? 田んぼを増やすか? 違うだろ。邪魔なモノをなくすのが最初だ!」
その発言で、カルはようやくジンの真意に気づく。
……邪魔なモノ。
人間から全部を奪ってる邪魔なモノ……!
まさか、それは……。
「天上人だ。奴らがいなければ人間は普通に暮らせる! だったら、どうする? 天上人をぶっ倒すしかないだろうが!」
言っていることの筋は通る。
確かに豊かさを損なう根本原因はそれだ。
だが、今の今まで誰もそれに触れる者はなかった。
「……お、恐れながら殿下、魔の一族を倒すとおっしゃられても、…………この里の人間が全員で戦っても勝てるかどうか……。勝てるようであれば、我らも数百年という時間を隠れて過ごす必要はありませんでした。……ここは一つ慎重なお考えをしてはいかがでしょうか?」
「なんでだ?」
「なんで、とおっしゃられましても……」
里長がものすごく困った顔をする。
対してジンはとても自慢げな顔だった。
予感が確信に変わる。
…………言う気だ。
アレのことを言う気に違いない……!
「そっか、お前たちはそう考えてるんだな」
ジンはもったいぶったような口調で言って、立ち上がる。
そして、全員を見下ろしながら、
「俺は天上人を倒したことがあるぞ」
「「「――――は?」」」
「収容所を脱出するときに、看守をぶっ倒したんだ。あいつ、すっごい嫌な奴だったけど、俺とカルの二人で戦って、勝ったんだ」
「お、お戯れを…………。人間が魔の一族を倒すなど……」
「俺は真面目な話をしてる」
視線がカルに集まる。
里長から質問が飛ぶ。
「今の話はどういうことだ?」
声の響きに怒りが見え隠れしている。
生半可な説明では納得してくれないだろう。
むしろカルが必死に嘘を作ったとしても、ジンはその意図を汲み取らないに違いない。
――――言ったはずだよね!? 里の人はマナロ戦記とか、青い炎とか大嫌いだから、言っちゃダメだって!!
内心ではそう思う。
ぐっとこらえ、カルは言った。
「……真の話にございます。ジン様は人間収容所を脱走するために看守の天上人を討ち倒しました」
「――――っ。………………馬鹿な、あり得ぬ。人間が魔の一族を倒すなど聞いたこともない……!! なぜ報告を怠った!?」
「あえて報告から省きました」
「なぜだ!? なぜそのようなことを!?」
「………………殿下の左手に紋章があるからでございます」
「紋章……?」
再びジンに注目が集まる。
そうして、皆が今更のように、ジンの左手に巻かれた包帯に気づいた……。
ジンは待ってましたとばかりに封印を解く。
そして、紋章を掲げる。
「――――そ、それは、魔皇帝マナロの紋章ッ!?」
里長の叫びで、ついに場が騒然とした。
「ななな、なぜそれが殿下の御手にッ!?」
「どうなっているんだッ!? 殿下は人間のはずだ!!」
「穢れだッ!! 里に穢れが持ち込まれた!!」
「殿下は魔の者との混血だったのかッ!?」
「そんな馬鹿なッ!? 王家が魔の者と交わったと言うのかッ!?」
「不敬に過ぎるッ!! その者をひっ捕らえよッ!!」
長老たちが取り乱す。
暴言が飛び交う。
ジンだけは慌てた様子もなく、
「これはマナロの紋章だったのか。だったら、いろいろ納得だ」
「何が納得なのでございますか!? 戯れで彫られたにしても度が過ぎておりますぞ!! 邪教崇拝は殿下と言えど、見逃されることではありませぬぞ!!」
里長が片膝を立ててジンに迫る。
三人将も明確に殺気を放っていた。
外にいた従者がなぜか雨戸を閉め始める…………。
それは見られてはいけないことをするぞ、という意思表示だ。
カルの額を汗が伝う。
粘ついた嫌な汗だった。
すでに殿下だからで許される段階にはない……。
だというのに、ジンはまるで怯えた様子がなかった。
よく見てろとばかりに左手を振り、炎を生み出した。
「うぉぉぉぉおぉお……!?」
「魔術ッ!! この神聖なる集いの席で魔術がッ!!」
「このような侮蔑は里始まって以来の大罪ですぞッ!!」
そこかしこから怒号が飛んだ。
長老の一人がジンに飛びかかろうとして忍将に取り押さえられる。
別の一人が泡を吹いて意識を失う。
そんな中、里長が涙を流しながら、腰の刀に手をかけ、
「神はなんと酷いことを……。長らく王族を待ち望んでいた我らにこんな仕打ちをしようとはッ!! 人間の希望は今日、ここで途絶えたッ!! 我らに未来はないッ!! この日をもって、人間は滅ぶのだッ!! うぅううぅ…………!!」
呆気なく刀を抜き放ち、振りかざす。
誰がどう見ても真っ当な精神状態ではなかった。
――――あの人はヤバい!!
カルは腰を浮かせ、里長との距離を詰めようとする。
しかし、距離的にどうあっても間に合わない。
里長はすでに刀を振りかぶっており、それをジンに向かって……、
「ごちゃごちゃうるせぇな、静かにしろッ!!」
ジンの一括で里長が腰を抜かした。
……いや、正確にはジンの放った炎でだ。
里長は恐ろしいものを見上げるような目でジンを見上げ、逆にジンは意にも介さず部屋全体を睨んでいた……。
「確かにこの炎はマナロと同じ炎かもしれない!! だけど、それがなんだってんだ!? マナロ戦記に本当のことが書いてあったってだけのことだろうが!! 俺には何が悪いのかわからねぇ!」
「何という暴言を……! マナロ戦記は、憎き魔の一族が編纂した偽りの歴史なのですぞ!? それを真実などと、王の直系たる殿下が口になさるとは……! 我ら一族にとってこれほど悲しく、辛いことはありませぬ!! 偽りを広めぬよう、我らは信じることを禁じ、時に血を流してまでその規律を守ってきたというのに……!! それを殿下が自ら破り、あろうことか真実だったとまで! なんて取り返しの付かないことを!!」
「そんなのはお前たちの勝手だろうがッ!! 俺の村でも精霊が見守ってくれていると考えていた! 血が大切だと教わった!! 精霊を信じてねぇ人間は、お前たちだけなんだよ!! どの町に行っても人間は精霊を信じてた!! お前たちが古いだけだ!!」
「……な、何てことだ!!」
「王の子孫が邪教を擁護している……!! こんなことが許されるのか!?」
「何をしている! そいつは、もう殿下でも何でもねぇ! ただの異教徒だ!! 殺してしまえ!!」
長老たちが猛反発する。
つまるところ、里長の発言が里の総意であるのだ。
里の人間は歴史を守るために、多くの労力を費やしてきた……。
……それだけ、自分たちの歴史に誇りがあるのだ。
「そうかよ、わかったよ! お前たちは使えない臣下だ! 俺はそんなのはいらない! すぐに新しい奴らを用意しろ!」
「言うに事欠いて、あなたという人は!! ふざけるのもいい加減になさってください!!」
「俺は王の血を引いた人間だッ!! お前たちは言ったぞ!! 俺は望めば何でもできるって!!」
「あなたはもはや殿下でも何でもない!! カル、貴様はなぜこんなまがい物を連れてきたのか!?」
話がカルにまで飛び火する。
正直、罰がどうという段階にはなかった……。
……口をつぐんでも話しても打首は避けられない。
本音を言えば凄まじく怖い。
だからこそ、ありったけの勇気を振り絞り、慎重に言葉を練った。
「恐れながら、殿下がこうだとおっしゃっていることを、偽りの歴史と非難するのは、あまりに出すぎた真似ではございませんか?」
「な、なんだとッ!?」
「殿下が白だとおっしゃっているのです。陰の者のどこに、それを黒だと主張する権利があるのですか?」
「…………そ、それはッ」
「陰の者が歴史を講釈するとは、随分、偉くなられたのですね」
「もうよい、こやつも斬り捨てろッ!」
里長の命令で忍将が立ち上がる。
カルは目をつぶってその時を待ち構える…………。
今度はジンが割って入った。
「カルを殺したら、俺がお前を殺す。……俺はお前よりずっと強いぞ?」
ジンは左手に炎を灯す。
部屋の隅にいても熱が伝わるほどに温度が高い。
一番近くにいる里長などは、着物の裾が焦げ始めている……。
無言が部屋を満たしていた……。
……次にどちらかが口を開けば、今度こそ誰かの命が散る瞬間に違いなかった。
じりじりとした時間が過ぎ、唐突に、場違いな拍手が聞こえた。
部屋の入口に老婆が立っていた。
「婆は賛成ですぞ。国を豊かにして欲しいという婆の願い、この上ない形で叶えようとしてくださった。しかし、そこまで大きな夢を持たれるとは。この婆も驚きました」
もちろん、ただの老婆ではない。
その人は、
「は、母上……! なぜこの場に参られた!? いかに先代里長とて、零の集いに、部外者の立ち入りは許されませぬぞ!」
里長の母にして、先代里長。
発言の内容でカルは察する。
……ジンに変なことを吹き込んだのは、この人か。
「では、王よ。許可を。婆はここにいてよいですかな?」
「いいぞ」
「なっ!?」
里長は絶句する……。
零の集いは部外者立入禁止。
数百年続いたしきたりが一瞬で破壊された。
「コアン、これで文句はないでしょう?」
「……」
里長は再度、黙り込む。
先代は、堂々と座布団に座った。
「さてさて、話を聞いておったが、ここの坊やたちは殿下に文句を言っているようですね。王に相応しい者の資質は、婆が昔教えたはずですがな。もう忘れましたかな?」
「……王の資質ですと? そんなものは王の仕事ができる者に決まっているでしょう!」
先代が語りかけると、里長が答えた。
なってないとばかりに先代は首を振る。
「本気で言っているのだとしたら、コアンは解任した方がよいでしょうな」
「先代の身分で何を……!」
先代と現役。
両里長がにらみ合う。
場が再び無言になる。
そのとき、無言だった戦将が手を叩いた。
「俺も賛成だね。敵を倒し人を救う! 大いに結構じゃねぇか! 王に相応しい資質は何か。婆様は”理想”だって言いたいんだろ? だったら殿下は王としての理想を語った! 十分だろ? 俺の目には、自分たちの決まりごとで王を批判する爺様たちの方が愚かに見えるね」
降って湧いたような正論だった。
場の熱が急速に奪われる。
その様子を見て、長老の一人が難しい顔をした。
「…………しかし、殿下は今すぐに派兵といおっしゃるのじゃろう? ワシの見積もりでは準備だけに十年以上はかかる見込みじゃぞ……」
「俺はそんなに待たないぞ! 十年あったら何人死ぬと思ってるんだ!」
「それは密偵の報告を聞いております故、我らも承知おりますが……」
「いえ、承知しているとは言い難いのではないでしょうか」
ジンと長老のやりとりに、カルが口を挟んだ。
「……報告にもあった通り、三年でいくつもの村がなくなりました。本来、村は米を生産する大切な場所。このまま減り続ければ、町に住む人間に行き渡る食糧は来年にもなくなるでしょう。……十年あったら、人間は絶滅するかもしれません!」
絶滅……!
その単語に場がざわついてくる。
冷めた熱が違う形で蘇り、老人たちが好き勝手に議論を始めた。
「ええい、黙れ、黙れ!! 絶滅など根拠のない妄言だ! その忍びはワシらを騙そうとしている!!」
「騙してるかどうかはヨンカのじっちゃんに聞けばわかるだろうが?」
反論する長老に戦将は悠然と答える。
矛先を向けられた密将は気まずそうに咳払いをして、
「十年後のことを予測するなど、できますまい。私に言えるのは絶滅の可能性は否定できぬということくらいでしょうな」
「そらみろ、それなら十分な根拠だ。戦将の立場から言わせてもらうと、こういうのはやるなら早い方がいい。あとになればなるほど資源が消える。追い詰められてから立ち上がったって、手遅れだぜ?」
「………………、むぅ」
戦将の後押しに、里長の顔がしわだらけになった。
そこに婆とジンが最後の一押しを入れる。
「皆の衆、もう一度、よく考えなされ。王が示した道が間違っているかどうかを。そして、外の世界を思い出しなさい。外で人間がどんな目に遭っているかを」
「婆さんの言う通りだ。俺も見てきたぞ! 奴隷になった奴は、自分が人間だってことも忘れるんだ。毎日、毎日働いて、いらなくなったら殺される! それが当たり前だと思ってる奴を俺は何人も見てきた!! そんなのはおかしいだろッ!? 王とか何とかは正直知らねぇ! だけど、皆が手伝ってくれるなら俺は天上人を倒しに行きたい!」
「…………」
里長の手から刀が滑り落ち、喚いていた長老たちも憑き物が落ちたようにおとなしくなった。
答える者は一人もなかった。
ただ、それはジンを否定することと同義ではなかった。
彼らは思い返しているのだ。
ここにいる人間は誰もが一線で活躍した経験がある。
彼らの中では風化した記憶に違いない。
……それを、今、ゆっくりと呼び戻している。
外で見たことを。
何があったのかを。
そのとき、自分がどんな思いに駆られたのかを……。
「私は若君の話に乗ってもよいと思いますな。正直、若君は仕えるに値するお方なのか測りかねておりましたが、……今のお言葉は満点でした。何もかも理にかなっております。なぜ助けないのか。そう聞かれたら、答える言葉もありません」
密将が腕を組んだまま言った。
ついに三人将から二人目の同調者が現れた。
「ワシも賛成だ。……今の状況を考えたら、立ち上がるのは今しかない。戦将と密将が良しというならやるしかあるまい」
長老からも賛同の声があがる。
これで九人のうち、三人がジンの味方になった……。
里長はいよいよ複雑な顔になって、
「…………いや、しかし、仮に魔の一族を倒せたとしても、問題は残りますぞ。現状、我々の戦力で最大限に戦ったとしても、倒せる魔の一族は数人が限度……。当然、為政者を狙うこととなりましょうが、次の為政者が人間の扱いを変えるとは限りませぬぞ? 為政者は替えの利く存在なのです。一人を倒しても、次が人間思いになるとは限らない。むしろ天上人の様子を考えれば、そうなる確率の方が高いとも言える」
「……なるほど、確かに里長の言う通りですな。悪政を行う為政者が現れたら同じことの繰り返し。かといって、まさかすべての天上人を倒すわけにもいかない」
消極的だった長老たちが次の課題を投げかける。
……しかし、ジンはこれを鼻で笑った…………。
「さっき言ったこと、もう忘れたのかよ?」
「…………なんですと?」
「人間が楽しく暮らせるような立派で豊かな国を作るんだから、政治をするのは人間だろ? 次の天上人なんか知ったことかよ」
「…………? …………な、なにぃ!?」
最初は誰もジンの言葉を理解していなかった……。
……しかし、理解できてみると、恐ろしいことを言われたのだとわかる。
ジンは天上人の為政者を倒し、新しい為政者を据えようと言っているのではない。
天上人を排除し、人間だけの国を作ろうと言っているのだ。
それは、……里長がジンに向かって最初に言った言葉の通りだ。
零の隠里は人間の国を再興させるために今日まであったのだと。
……ジンはその通りのことをしようとしている。
「まずは町を一つずつ潰していって人間を解放する! 人間が増えたら、人間だけで生活をする! そして、そこを人間の国にする! 繰り返していけば人間の国はどんどん大きくなる! そういう話だろ?」
「つまり、殿下は……、天上人から領土を奪うとおっしゃっているのですか?」
「当たり前だ! それ以外に何を取り返すんだ!?」
そのために王になるのだ。
ジンの立ち姿が、それを雄弁に語っていた。
…………それは壮大な野望だ……。
里の人間だって二百年前は同じことを考えていたはずだ。
だが、現実を目の当たりにするうちに、その志は摩耗してしまった。
里長だって自分で口にしておきながら、人間の国が作れるなどとは思っていない。
誰もが忘れてしまっていた。
当たり前のように語ってみせたのは、この部屋でジンだけだった。
ジンは今、道を示した。
「はっはっはっ、期待通りですぞ。婆も鼻が高い」
一人、最初から理解していた婆だけが笑う。
里長以下長老連中は肩を落としていた。
「……覚悟がないのは我らの方であったか。……確かに、これは王の器だ」
里長がつぶやく。
その言葉に、長老の多くが肯いた。
誰もが納得する道ではないにせよ、ジンは王として相応しい道を示した。
その点に関しては、もはや誰も異論を唱えなかった。
歴史を遡れば、五百年前もそうだった。
当時の王は戦う意志を持っていた。
だからこそ、抗戦を選び民を生かすという英断ができた。
五百年の時をおいても、王族のあり方は変わらない。
王は戦う道を選ぶのだ。
民を守るために。
何より人間の誇りを守るために。
…………長い沈黙を破り、里長は確かめるように言った。
「殿下、今一度、お命じください。我ら陰の者、どのような命にも必ずやお答えいたしましょう」
その呼びかけに応じるように、ジンは部屋の隅へ移動し、全員を見下ろした。
そして、大音声で宣言する。
「天上人を倒すッ!!」
誰も何も言わない。
戦将は楽しげに笑い、忍将は無言のまま。
密将は配下の者に指示を耳打ちしていた。
長老たちは目に涙を浮かべている。
里長が右手を上げると、その不揃いな動きが一つにそろった。
九人は膝を付き、深々と頭を垂れる。
「――――御意に。すべては王の御心のままに」
偉いことになったとカルは思う。
ジンはとうとう里の長老たちに認めさせてしまった……。
…………里はもう隠れてはいられない。
その存在を知らしめ、天上人と戦う道を選んだのだ。
決して容易に勝てる戦ではないだろう。
むしろ、一方的に敗北する確率の方が高いだろう。
それでも、黙っていれば緩慢な死を迎えるのみだ……。
戦わずに死ぬよりも、戦って死ぬ方を選ぶ。
それこそが人間の誇りを示す道。
最後の人間王が選んだ道だ。
その道の先に何があろうとも、自分は死力を尽くそうと思う。
ジンのために。人間のために。
†
集会が終わると、長老たちは慌ただしく解散した。
準備があるためと言っていた。
今後は作戦だとか何だとかを練るそうだ。
突撃して殴ればいいのでは? とジンは思うが、大勢で戦うのは何かと大変らしかった。
「にしても、婆さんは里長の母ちゃんだったんだな」
「おや、話しておらなんだか?」
「忘れたフリすんなよ……」
「失敬、失敬。しかし、驚きましたな。天上人から土地を奪うとは」
「そうか?」
集会でも驚かれたが、そこまで変な話だっただろうか。
一度倒しているし、勝てない相手ではない。
むしろ、なぜ勝てないと思ってるのかが不思議だ。
そして、天上人を倒すのは自分なりに考えた結果だ。
人間が笑える国。
どうしたらできるかを真面目に考えたら、それしかなかった。
握り飯を盗んだだけで殴られたシャム。
収容所でこき使われた咎人。
飯も取り上げたれてしまった町。
全部、天上人が悪かった。
もちろん、エリカのように豊かに暮らす人間もいる。
全部の天上人が悪いわけではないだろう。
だが、それは天上人を倒さない理由にはならない。
「その発想が普通は出てこないのですよ。……人間は、負けることに慣れ過ぎたのかもしれませぬな」
「ふぅん。俺は負けたことないから知らね」
いや、何度かあったか。
バランガでは勝てないから逃げた。
収容所も最初は負けていた。
「勇ましいことで。いや、この婆ますます王が気に入りましたぞ」
「そ、そうか」
婆さんがすり寄ってくる。
ちょっと怖い。
「とにかく、王にはなったぞ。ちゃんと豊かな国とやらを作るから見てろよ?」
言うと、婆さんは目を丸くした。
「……まさかとは思いますが。本当に婆との約束だけで王になられたのですか?」
「それ以外に何があるんだよ?」
頼まれたから王になったのだ。
水やり当番みたいなものと聞いたし、いいだろうと思った。
答えると、婆は呆れたように首を振った。
「いやはや、不思議なお方だ……。口約束で王になる。けれど、掲げた夢は命を落とすかもしれぬもの。覚悟がなければ、天上人を倒すとは言えますまいに。何も考えていないのか、よほど肝が座っているのか……。わからぬお方だ」
「難しいことはわからん。けど、天上人を倒したいのは本当だ」
あのとき、力があったなら。
そう思う時が何度もあった。
泣いて、諦めて、悲しい結末を迎えた。
もう二度とあんな思いをしたくない。
できるなら他の人にもして欲しくない。
それだけだ。
そして、それは十分な理由だ、とジンは思う。
そう言うと、婆さんは嬉しそうな顔をした。
やはり目に狂いはないとか何とか。
つぶやいて、泣き出してしまうのだった。