20 シグラスの花
看守を倒したあと、収容所は解散になった。
咎人は散り散りになって逃げ、女郎も町へ帰った。
一方、ジンはヒヌカの家に匿われた。
家と呼べるかは怪しい。
地面は土で壁も板を打ち付けただけ。
屋根に至っては大きな板を重ねただけだ。
即席の小屋と言ってもいい。
ろくな布団もなく、藁を積み重ねたものが寝床だ。
ジンはそこで数日ほど寝込んだ。
腕と足を硝子で射抜かれ、大量の血が出ていた。
収容所でなくとも、その怪我は命に関わる。
医者もなければ薬もない。
普通なら死ぬ。
だが、女郎が少しずつ金を出してくれた。
看守の家を襲った咎人も見つけた銀をわけてくれた。
そうして、貧民窟ではかかれないような医者に見てもらえた。
それでも、歩けるまでに二十日はかかった。
二十日間、ジンはヒヌカと様々な話をした。
昔話が大半だった。
収容所で再会してからの話は、つらいことの方が多い。
バランガの日々を思い出しながら、ずっと話していた。
その間、カルが町の情報を集めてくれた。
天上人も収容所の異変に気づいたらしかった。
行政の天上人が他所の町からやって来るという。
どんな対応が取られるかは現時点で不明だが、ひょっとしたら咎人の連れ戻しがあるかもしれない。
そんな内容だった。
可能な限り早く町を離れるべき。
それはジンもわかっていた。
寝込んでいた間は、それも忘れられた。
しかし、怪我も治り歩けるようになると、話は違ってくる。
そうして、旅立ちの日がやって来た。
ジンとカルは出発する側に。
ヒヌカとリマは残る側にいた。
「……お別れなんだね」
「少しの間だけだ」
リマは女郎名で本名はイマリという。
イマリの足は、看守に硝子に変えられた。
看守が倒れると同時に元に戻ったが、うまく動かないようだった。
ジンが向かうのはカルの里だ。
ここからずっと東に行ったところにあるため、過酷な旅となる。
イマリは早々に行くことを断念した。
必然的にイマリの世話をするためにヒヌカの父が残った。
ヒヌカだけ旅に出ればいい、と二人は言った。
けれど、ヒヌカはそれを断った。
家族のために体を売った姉。
命を懸けてヒヌカを守ろうとした父。
二人をおいて自分だけ旅に出る。
ヒヌカの性格的に、それは許せなかったに違いない。
悩んだ末、残ることを決意したようだ。
心残りはある。
折角、再会できたヒヌカと別れるのはつらい。
可能なら一緒に暮らしたかった。
だが、ジンにもカルとの約束があった。
本来なら二年も前に果たされていた約束だ。
引き伸ばして収容所に留まったのはジンの都合だし、しかも、カルは二年半分の給金をヒヌカに渡してくれた。
カルはいい奴だ。
そろそろカルの都合だけを考えるときが来てもいい。
ジンにもヒヌカにも理由があった。
恩人を見捨てれば、二人一緒にいられる。
しかし、双方とも、それは選ばなかった。
次に会うのは、互いの恩返しが終わってからだ。
「用事が住んだら会いに戻る」
「うん、元気でね」
「ヒヌカもな」
「目印をつけておくね。赤い布を家につけておくから」
「わかった」
抱きついてくるかな? と少しだけ期待した。
が、ヒヌカは少し離れたところで笑うだけだった。
少し残念だ。
正式な結婚をしたわけではないから、当然と言えば当然だ。
その距離感が物寂しい。
†ヒヌカ†
ジンはカルと共に旅立っていった。
大怪我をしたときは本当に心配した。
けれど、無事に治ってよかった。
治らなければずっと一緒にいられる……。
そんなことを少し思った。
思った自分が悔しい。
「わたし、風に当たってくるね」
ジンを見送り、ヒヌカは少し歩いた。
看守が倒されてから二十日が経っていた。
短い間だけど、ジンと過ごせてよかった。
足は自然と収容所に向いていた。
町からだと歩いて半刻(約十五分)。
結界を抜けても飛んでくる者はいない。
がらんどうの縦穴に晩夏の風が吹き抜ける。
収容所は今も無人だった。
掃除もされないため、水路に葉っぱが詰まっていた。
女郎宿も隠れ家のようにひっそりとした佇まいとなった。
トイエを始め、多くの人間が町を離れていた。
天上人が女郎の徴収を始めたと言うし、懸命な判断だった。
ヒヌカの家族は残る道を選んだが、いずれは場所を変えねばならないだろう。
女郎不足は深刻なようだし、ヒヌカも姉も一度は声をかけられた身だ。
天上人の目に留まれば、捕まってしまう。
水路沿いに進み、鉄の扉を開ける。
しばらく歩くと、小川が見えてきた。
下草が風に揺られ、時折、涼しい風が吹く。
夏も終わりだ。
シグラスも枯れかけていた。
「……ジン、行っちゃやだよ」
本音が漏れた。
仮面を被って見送っては見ても、結局はそれが本音だ。
ジンと一緒にいたい。
けれど、姉を置いていくわけにはいかない。
トゥレンのような町を歩くのに、姉一人では危険だ。
父が働きに出る間、誰かがついていなければならなかった。
自分はジンと一緒にはいけないのだ。
いつになったら会えるのだろう。
一年だろうか。二年だろうか。
とにかく、長い旅になると言っていた。
不思議な感覚だ。
バランガにいた頃は簡単に会うことができた。
少し歩けばジンの家があった。
熱を出して動けないときも家族に伝言を頼めた。
今はそのどちらもできない。
ただ、この空の下のどこかにジンがいて、……その無事を祈ることしかできない。
ヒヌカは今年最後のシグラスを摘む。
そして、川辺の切り株に乗せた。
あのとき、この切り株には確かに二輪のシグラスが乗っていた。
たとえ今が他人同士だったとしても、あの瞬間、自分たちは夫婦の誓いを交わしたのだ。
ほんの一瞬だったとしても、人生で一番幸せな瞬間だった。
目をつぶれば今でもありありと思い出せる……。
だから、自分は幸せなのだ。
今でもとても幸せなのだ。
…………もう二度とこの切り株にシグラスが二輪乗ることがないのだとしても。
ヒヌカは切り株の前に膝をつく。
溢れ出す涙が切り株に染みを作る。
「…………ありがとう、ジン。……ずっとずっと、…………好きだからね」