19 看守3
ヒヌカが収容所から消え、七日が経った。
そんなある日。
看守が全員集合の触れを出した。
本来なら朝礼の時間で、咎人は縦穴近くの荒れ地に整列するはずだった。
ところが、この日、看守は縦穴の中で朝礼をやると言い出した。
しかも、整列はさせず、大きな円を描くように立てと言った。
看守の意図がわからない。
こんなことは収容所に来て初めてのことだった。
「何をする気だ?」
「さぁね。でも、看守の話がいい話だった試しなんてないよ」
また、誰かが殺されるのか。
誰かが囁くと、それは縦穴全体に伝播した。
「……あ、あれ見ろ! 女郎まで来たぞ!?」
そのとき、誰かが叫んだ。
昼の間は施錠されているはずの扉が開け放たれていた。
そして、ジンの知る限りでは収容所史上初めて、女郎が咎人たちの縦穴に足を踏み入れた……。
普段は表に顔を出さない、年老いた女郎も混じっていた。
彼女たちが円に加わると、総数は二百近くになった。
どよめきは留まるところを知らない。
誰もがこれから始まることが、よくないことだという予感を抱いている……。
事実、そうに違いなかった。
大規模な脱走が発生したときですら、看守は女郎までは呼ばなかった。
今回、起こったナニカはそれを超える出来事だということだ……。
…………収容所で脱走以上に罪になりそうなこと。
考えても、何一つ思い浮かばない……。
「人間ども、傾聴せよ! 今日は重大な発表がある!」
看守の大音声でどよめきが消えた。
静寂が降りてくる。
……看守はそれを確認し、言った。
「収容所の者が重大な罪を犯した! その罪は収容所の歴史の中で最も重いものであった!」
声はやまびこのように響いた。
余韻を残す間もなく、ざわめきが大きくなる……。
歴史上最も重い罪。
……一体何なのか、誰がそんなことをしたのか、推測が飛び交う。
「どのような罪が犯されたのであろうか!! おそらくは貴様らでは想像もできぬであろう! …………なんと、その者は人間の身分で人身売買を行ったのである!!」
…………ざわめきに困惑の色が混じる。
人身売買。
収容所の人間が……?
咎人に払われる給金は基本的に女郎宿でしか使い道がない。
なぜなら、外に出られないからだ。
人間を売り買いするような店に行けるはずもない。
だとすれば、犯人は女郎だ。
人気の女郎は金を持つと聞くし、金があったとしてもおかしくない。
……しかし、それでも疑問は残る。
そもそも人間を買ってどうするのか?
幽閉された人間が人間を買ったところで用途がない。
収容所に買った人間を置いたら収監されたも同然だ。
買う理由がない。
…………じゃあ、一体、誰が?
戸惑いが腹の底でとぐろを巻く……。
「罪人をここへ!」
看守が合図を出す、女郎たちがさっと道を開けた。
間もなく縛られた三人組が女郎に引っ張られてきた。
…………その三人には見覚えがあった。
一人は収容所の男なら誰もが知る女郎だった。
きらびやかな着物に身を包み、眠たげな顔をしているのはリマだ。
もう一人は、おそらく、ジンだけが知る男。
老け込んではいるが、頻繁に顔を合わせていただけに見間違えることはない。
あれはヒヌカの父だ。
そして、最後の一人………。
そこにいるのは、ヒヌカだった。
は? おい。なんでだ?
疑問が頭を巡る。
金さえあれば姉を取り戻せると聞いていた。
だったら、ヒヌカは姉を取り戻せていなければならない。
……なのにどうして縛られている?
話が違う。
「諸君らに今一度、人間が何であったかを問おう!! 人間とは何だ!? 人間とは天上人の奴隷だ!! 奴隷となるために神々が皇帝マナロに賜った下僕、それこそが人間だ!! 故に人間は自由であってはならぬ! いかなる権利も持ってはならぬのだ!! だと言うのに、人間はすぐに忘れる!! なんと愚鈍な!! 動物未満の種ではないか!!」
看守は無茶苦茶な演説をした。
言っている意味がわからない。
「神々はなぜこのような愚物を作られた!? 俺はこう考える! 天上人を思ってのことだと! 神々は案じておられるのだと!! 天上人が安寧に身を委ね過ぎれば、支配するための牙を忘れてしまうだろうと! 人間を使って鍛錬を積んでおけと!!」
言葉を切る。
看守はヒヌカの顎を持ち上げた。
「この人間は、人間の分際でありながら人間を金で買おうとした。恐ろしい罪だ。それを罪だと思っていない点も踏まえ、あまりにも重大な事件だった……。罪には反省がなくてはならない。さぁ、言ってみろ……。自分が何をしたのかを……」
つまり、なんだ。
看守はこう言っているのか。
人間が人間を買うのが罪、と。
ヒヌカが姉を買ったのは罪、と。
……そういう話だったか?
金さえあれば、身請けできると言っていたのは誰だ?
ヒヌカにそう言ったのは看守ではないのか?
話が急に見えなくなる。
何が起こってるんだ?
†ヒヌカ†
ヒヌカは看守に顎を掴まれていた。
罪状を言え。
何度も言われた。
だが、ヒヌカは口を開かなかった。
それが今の自分にできる最大限の抵抗だから。
今でも不自然な出来事だったと思う。
あの日、ヒヌカは罪人として捕らわれた。
姉を買い戻した帰り道に、別の天上人が現れたのだ。
その天上人はヒヌカを見つけると「人間が人間を買っているではないか! なんということだ!」と叫んだ。
人間による人間の売り買いは禁止。
そういう罪状で捕まった。
おそらくは看守の策だ。
万が一、ヒヌカが金を集めても、売買自体をなかったことにする算段だったのだ。
看守を責めても、看守は嘘はついていない、と言い張るのみ。
確かに嘘はついていない。
姉は確かに買い戻せた。
その後に不幸な事故に見舞われただけだから。
理不尽な話だった。
人身売買が罪なら、なぜ町にいる金貸しは捕まらないのか?
奴らはもう何百人と人間を売買している。
あっちの方がよほどの大罪ではないか。
つまるところ、天上人の都合だ。
金貸し屋は女郎宿に女を供給する。
天上人にとって都合のよい存在だから見逃される。
ヒヌカは売れ筋商品を奪おうとしたから許されなかった。
すべては天上人を中心に回る。
法律などあってないのと同じ……。
その場にいる天上人の気持ちがすべてだ。
町で待っていた父も連座によって同罪となった。
大罪人と呼ばれるくらいなのだから死罪だろう。
自分のせいで一家が皆殺しだ。
どうしてこんなことになったんだろう……?
……自分はただ家族を助けたかっただけ。
それだけだったのに……。
なぜ死ななければならないのか。
ジンにも迷惑をかけて、姉も困らせて。
挙げ句、何の罪もない父を巻き込んで……。
わたしがしたことは、一体、何だったのか。
ヒヌカは牢の中で何度も泣いた。
家族がずっと励ましてくれた。
父は町で聞いた他愛のない話をして、姉はおかしな咎人のことを教えてくれた。
「おかしいと言えば、ジンに会ったよ……。あっちは気づいてなかったみたいだけど」
「ジンって女郎宿に通ってるのかな……」
「さぁ? でも、カルって子が厳しく見てたからね、あたしのときが最初だったよ」
「……よかった」
「え? あんた、まさか、まだだったのかい……? 危うくジンの初めてをもらっちゃうところだったよ」
「お、お姉ちゃん……!!」
「あっはっはっ……!! お前たちは変わらんなぁ!」
姉の軽口で父が笑う。
少しだけ気分が楽になった。
こんな形であっても家族が一つに戻れたのだ。
牢の中でヒヌカはささやかな幸福を感じた。
そして、今日。
三人は裁きの場に連れ出された。
円状に並ぶ咎人が自分たちを見ていた。
晒し者にした上で殺すつもりなのだろう。
大罪人に相応しい末路と言えた。
……今更、抗おうとは思っていない。
自分にできることは全部したのだ。
その結果がこれなら受け入れるしかない。
欲を言えば、ジンと話がしたかった。
最後まで自分はジンを避けていた。
そうでなければいけないと思いこんでいた。
どうせ死ぬなら話をすればよかった。
……この中にいるかな?
だったら、大声でお礼を言おう……。
殺されるその瞬間に、…………今までのお礼を、全部。
「さて、大罪人をわざわざ連れ出したのには理由がある!」
看守の演説は続いた。
咎人も女郎も無言で耳を傾けていた。
「この中に共犯者がいるからだ! その者は大罪人に人身売買の資金を与えたとされる! れっきとした幇助であり同様の罪となる! これより大罪人から共犯者を聞き出し、この場で裁く!」
とんでもない話だった。
金を提供した人間も共犯者?
同様の罪になる?
この場で一緒に裁く?
…………じゃあ、まさか。
キン、という音がした。
足元の地面が硝子に変わっていた。
…………まるで硝子と体の境界が消滅したかのように、姉の足が指先から硝子に変わっていく……。
「さぁ、吐け、大罪人。貴様に金を出したのは誰だ……? 言わぬのなら、貴様の姉は死より苦しい目に遭うが……」
「…………ぅ」
姉の体が内側から硝子になる……。
それがどんな苦しみを伴うかをヒヌカはよく知っていた。
咎人の苦しむ様を誰よりも近くで見てきたからだ。
のたうち回り、よだれを垂らし、自分で自分の体をかきむしり、嘔吐し、痙攣し……。
……どんな拷問よりも恐ろしいに違いなかった。
なぜなら、拷問は所詮、体の表面を痛めつけているだけに過ぎないから。
体はどうしたって外からの衝撃には強い。
内側から食い破られる恐怖と痛みは、それとは比較にならないのだ……。
……だからこそ、そんな苦しみを姉に与えていいのかという迷いがある。
姉はもう、十分苦しんだ……。
結婚相手がいる身でありながら、他の男に体を供した。
心を蝕まれる日々だっただろう。
それでも正気を保っていられるのは、姉が強い人だったから。
いつだってヒヌカを励ましてくれたから。
だから、今だって、姉はこう言う。
「別にあたしは構わないよ?」
「…………あ?」
看守が首を傾げる。
言われたことが理解できないという顔だった。
「……よく聞こえなかったな? これより死ぬより苦しい痛みが貴様を襲う。それは戯言でもなく事実だぞ」
「だから、構わないって言ってるのさ」
「お、お姉ちゃん、そんなの……」
「ダメだって言うのかい? だったら、あんたは恩人を売るってのか? あたしはゴメンだね」
「…………!!」
「ここにいる誰かのおかげで、あたしら家族は一つに戻れた。大いに結構じゃないか。村が焼け落ちたとき、ほとんどの村人が死んだ。あたしだって家族には二度と会えないと思ったよ。なのに、こうして最後に顔を合わせることができてるんだ。――――あたしたちは幸せさ。あたしは胸を張ってそう言える。ヒヌカはそうじゃないのかい?」
…………それは、思ってもみなかった言葉だ。
姉には迷惑がられているんじゃないかと心のどこかで思っていた……。
……だが、姉は幸せだと言ってくれた。
その優しさがただ嬉しかった。
「私も、幸せだったよ……、お姉ちゃん」
「なら、胸を張りな。家族が揃うことが何よりの幸せさ。それが叶ったんだ。あたしにはもう、未練はないよ」
姉は縄に縛られたままヒヌカに寄り添う。
腕が自由に動くのなら力いっぱい抱きしめたかった。
だが、縛られている今は体を預けることしかできなかった……。
「役立たずめ……。ならば、そちらの男に聞く! 貴様は誰が金を出したのか心当たりはあるか!?」
思い通りの展開にならず、看守は不満げに鼻を鳴らす。
そして、今度はヒヌカの父に尋ねた。
父は即答した。
「…………は、教えるもんかよ」
「なん、だと……?」
「そいつはなぁ、娘の婚約者だったんだ! 娘が愛した男を守らんで何が父親か! 殺したければ殺せッ! 俺は死んでも吐くつもりはない……!」
父は一息に言った。
体中が震えていた。
当たり前だ。
天上人に向かって暴言を吐いたのだ。
このあとに待っているのは間違いなく死だ……。
恐ろしかったに違いない。
怖くないわけがない。
だが、ヒヌカの父は誇りをかけて天上人に喧嘩を売った……!
たとえ縄で縛られていようとも、その姿は圧倒的に大きく、父としての威厳を持っていた……。
そして、その言葉は確実に看守の逆鱗に触れていた…………。
「……貴様らは…………」
看守は低く重い声で言う……。
はちきれそうなナニカを押し殺すような声だった……。
しばしの間が空き、次の瞬間、爆発した。
「…………俺は、天上人だッ! 貴様らのような人間は、気安く言葉をかわすことも、拝顔することも、決して許されていない! それをこのような暴言の数々ッ! 何様のつもりだぁぁあッ!」
看守が腰の刀を抜いた。
馬も両断できそうな巨大な刀だ。
……それを三人の頭上に振りかぶる。
「殺すならあたしから殺しなよ! 可愛い妹の死に顔なんざ、見たくはないからね」
「馬鹿を言うな。家長が前に出るのが決まりだ。……殺すなら俺から殺せッ!!」
二人が前に出る……。
……背中でヒヌカを庇うように。
「……お父さん、……お姉ちゃん…………。ごめんなさい、わたしのせいで……」
「何も謝ることなどない。ヒヌカは精一杯やった! だったら、一緒に死んでやるのが父親ってもんだろう!」
「姉だってそうさ。今更、悔いなんかないよ」
「…………下らぬッ! まとめて殺してやる!!」
看守がヒヌカの手を掴み、吊り上げる。
そして、その体めがけて刀を振り下ろす……!!
ヒヌカは目をつぶり、そのときを待つ…………。
禍々しい輝きを放つ刃がヒヌカの首を、
「ヒヌカを放せぇえぇええぇえ!!」
ゴキリ、という鈍い音がした。
何かが看守の顔にぶち当たっていた。
看守は縦にも横にも長い。
並大抵のことでは揺るぎもしないが、その体が吹き飛んでいた。
投げ出された太刀が地面に転がる。
縦穴に沈黙が落ちてくる。
誰も何も言えず、看守ですら言葉を発しなかった。
「…………はぁ、はぁ、はぁ! 間に合ったッ!!」
懐かしい声がした。
看守がいた場所には人間が立っていた。
みすぼらしい服に身を包んだ男だった……。
拳を握りしめたまま、看守を睨み付けている。
ヒヌカはこの後ろ姿を知っている…………。
でも、こんなに都合よく助けてくれるなんて、あるはずがなかった……。
…………しかし、…………この背中は。
見間違えようもなくて…………。
「…………ジン!」
どうして……?
……飛び出したりなんかしたら、殺される。
そんなのは嫌だ……!
「どうして出てきたりしたの!? 殺されるんだよ!?」
「そんなのは関係ねぇッ!! 俺がヒヌカを助けたいから助けるんだッ!」
ジンはそう言い切った。
その背中は、あの夜とは、比べ物にならないほど大きい。
弱くてごめんと、ジンは言った。
でも、今は違うのだろう。
ジンはもう弱くはない。
だから、運命を変えられるのだ。
あぁ、やはり自分は幸せだった。
最後の最後でジンと言葉をかわすことができたから。
もう、何の悔いもない。
ただ、ジンに武運あれと祈るばかりだ。
†
「あ、あの男、て、天上人を殴りやがったぁぁぁぁああぁああ!?」
「殺されるぅうぅうぅ!! 俺たちは終わりだぁあああぁああ!」
周囲の反応は劇的だった。
咎人たちはことの大きさに泡を吹き、我先にと逃げ惑った。
中には精霊に祈る者がいたり、縦穴を抜け出すものがいたりと、大変な騒ぎになった。
「全く、ジンはなんてことをしてくれたんだ! 天上人を殴るなんて……、信じられないよ!!」
そんな中、群衆から抜け出してきたカルが、ヒヌカの縄を解いていく。
「付き合わせてすまん! 俺は今日死ぬかもしれねぇ!」
「…………本当にもう!! ジンは仕方ない奴なんだから!!」
ヒヌカが殺されそうになっていて、見逃す訳にはいかなかった。
気づいたら体が動いていた。
あとからカルもついてきて、散々に文句を言う。
しかし、言いながらもカルは笑っていた。
それでこそ俺の仲間だ、とジンは思う。
「にしても、なんだあいつら……。殴っただけなのに騒ぎすぎだろ」
「殴ったから大騒ぎなんだよ!! 文句を言っただけで鞭打ちや斬首なのに、顔を殴り飛ばしたんだよ!? 怒った看守が目についた人間を全員殺したとしても、全く何の不思議もない……!」
「だったら、倒せばいいだろ。いつまでも言いなりはごめんだ」
看守を殴った右手を確かめる。
三年前、熊の天上人を殴ったときは、まるで効いていなかった拳だ。
今は違う。
あの馬鹿でかい看守でも殴り飛ばせる。
天上人は勝てない相手ではない。
「んとにもう!! 言うことがめちゃくちゃだよ!! でも、まぁ、ここまで来たらやるしかないのかな」
カルが三人の縄を解き終える。
下がっているよう指示を出す。
リマだけは足が硝子になっていたため、ヒヌカと父親の二人が抱える。
縦穴の中央が無人となる。
「ウォオォオオオォオオオォオオオオ!!」
そのとき、遠吠えが聞こえた。
犬とは似ても似つかない化け物じみた声だった……。
……地面を震わせるほどの大音声に咎人たちは身を震わせる。
怒りに狂った看守の瞳がジンを見据えた。
「…………人間に殴られた天上人など、歴史上で俺が初であろう。あるまじき汚点だ……。あぁ、俺は天上人の歴史を穢してしまった……! 罪深い、実に罪深いッ!!」
看守が地を蹴った。
初動は目で追うこともできなかった。
たった数歩で距離がつまり、気づけば看守の拳が眼前にあった。
かろうじて腕を割り込ませ――――、
岩が落ちてきたような衝撃が走った。
体が鞠玉のように吹き飛ばされる。
嘘のように簡単に体が中に浮き、……その勢いで地面に激突する。
かろうじて受け身を取る。
衝撃を逃し、なんとか立ち上がろうとする。
――――そこに看守の巨体が突っ込んでくる。
再度の体当たりで十数トルメも地面を転がされる。
受け身がどうとかいう問題ではなかった。
人間の体は岩をぶつけても平気なようにはできていない。
看守の体当たりは岩が崖上から降ってくるのと同じだ。
一度でもまともに受ければ命はない……。
「あぁ、なんと人間は脆いのか! ほんの少し力を加えるだけで死ぬ! 戯れにもならん脆弱さだ!」
「誰が死んだんだよ、誰が……」
ジンは寝転がったまま看守を睨む。
体がまるで言うことを聞かない。
たった一度の攻防で血を吐かされた。
内臓のどこかが傷ついたのだ……。
「身の程をわきまえずに反抗するその愚かさ……!!実に、実に救いどころがない……!!」
看守が手を振ると、無から硝子の槍が生まれた。
幾本もの槍がジンに飛ぶ。
「いづっ!!」
そのすべてが腕と足を貫く。
移動手段を封じられた。
「見たか、人間……! これが霊術だ! 人間にはない天上人だけの力! これがある限り、貴様らがどれほど束になろうと天上人には敵わない! さぁ、貴様にはかつてない苦痛をくれてやろう!!」
看守がゆっくりと近づいてくる。
……あの手に触れられたら最後だ。
足から順番に硝子に変えられ、苦しみのうちに死ぬ…………。
これが天上人……!
確かに強い。
奢るだけの理由はある。
だが、決して無敵というわけではない。
「ほぅ……?」
看守は意外そうな顔をした。
両手両足を串刺しにされた状態でジンが起き上がっていたからだ。
無論、痛みはある。
すさまじい痛みだ。
けれど、不思議と体に力がみなぎっていた。
「…………その状態で立ち上がるとは、生命力だけは虫と同じだな」
「いつまでも余裕な顔してんじゃねぇ……」
「なに……?」
「お前の霊術は随分としょぼいんだな!!」
「――――貴様、」
「俺のを見せてやるよ――――」
左手に力を込める。
手のひらに熱が集まる。
青い炎が怒り狂うように吹き出してくる。
「気をつけろよ。俺だってここまで火力は出したことがねぇからな……!!」
なぜ自分が炎を手にしたのか。
なぜ精霊が力を与えたのか。
手にして三年が経ってもわからなかった。
穢魔との戦いでは役に立った。
命を救ってくれる局面もあった。
しかし、火力を使わねばならない状況は一度もなかった。
つまるところ、今日のために自分は炎を得たのだと思う。
顔を上げれば、犬づらの天上人が見える。
天上人だから人間を殺していい、天上人だから人間を奴隷にしてもいい。
最初っからわからない理屈ばかりだ。
…………人間にも誇りはある。
天上人だろうがなんだろうが、誇りを汚す奴は許せない……!!
「喰らえよ……!! これが俺の炎だ…………!!」
力を込めた炎は看守の数倍以上の大きさに膨れ上がっていた。
青い球体は小さな太陽にも見える。
「…………な、……なんだと……!? ……に、人間が霊術を…………!! あり得ぬ!! あってはならぬぅぅうう!!」
看守は眼前に硝子の盾を作り出す。
避けずに受ける。
天上人なら当たり前の選択だった。
人間の攻撃を避けるなど、この上ない恥だからだ……。
「うおぉおぉおおぉ……!!」
左手を振り下ろす。
極限まで膨れ上がった炎が地を焼き、空気を焼き、看守に迫る。
硝子の盾に正面からぶち当たり、硝子の盾が為す術もなく溶けていく……。
――――ひょっとしたら。
そのとき、その場にいた誰もが予感した。
あいつは天上人を打ち倒してしまうのではないか――――。
それは数百年の歴史でただの一度のも成し遂げられることはなく、これからも続いていく常識だったはずの壁。
それが今、壊されてしまうのではないか…………。
「あ、あぁあぁああぁああぁああ……!!」
轟音と共に火柱が上がる。
看守が青い炎に包まれる……。
転げるように逃げ、水に落ちる。
それでも、炎は看守を許さない。
水の中でも轟々と燃え続ける。
そして、看守の声が途切れる。
予感が確信に変わっていく。
その場にいた全員が歴史の傍観者となったことを――――。
幾ばくかの時間が過ぎる。
火柱のあった場所には黒ずんだ灰が残るばかりとなる。
「…………や、やりやがった」
誰かが言う。
それがきっかけで音が戻ってくる。
「あいつ、天上人をやりやがった……!! うあぁぁああぁあぁ!! やりやがったッ!!」
「俺は夢でも見てるのかよ…………、こんなこと、……こんな馬鹿な!!」
「夢じゃねぇッ!! 人間が天上人を倒したんだッ!! …………あいつはやったんだ!!」
「…………どうなってんだよ、あいつは一体、……なんなんだよッ!?」
咎人も女郎も一緒になって騒いだ。
喜べばいいのか、悲しめばいいのか、彼ら自身わかっていなかった。
支配する天上人が消えた。
……彼らにとって、それは生まれて初めての出来事だったからだ…………。
重く根深い呪縛があるのだ。
今こそ、自分が断ち切ろう。
ジンは、思い切り息を吸い、――――叫ぶ。
「俺たちは自由だッ!! 天上人は神でも精霊でもない!! その証拠に――――、俺が倒したッ!!! 倒そうと思えば倒せるんだッ!! …………俺たちは、……人間は奴隷なんかしなくてもいいッ!!」
脳裏に様々な場面が浮かんだ。
悪びれる様子もなく人間を殺していく天上人、
焼け落ちるバランガ、
奴隷以外の生き方を知らなかったシャム、
鎖で繋がれていた人間たち。
それら全部が、何もかもが気に入らなかった。
絶対に違うと思っていた。
だから、ジンはあえて言う。
「もうここに看守はいない! 好きな場所へ行って、好きなように暮せばいい!! 奴隷に戻る必要なんかない!! 忘れるな!! ――――お前たちも自由だッ!!」
「「「うぉおぉおおぉおぉおおぉおおおおお!!」」」
歓声が上がる。
あるいは勝ちどきの声が。
この日は、人間が天上人を打ち破った最初の日。
バサ皇国の建国以来、初めての出来事。
そして、未来永劫語り継がれる、始まりの一日だった…………。
†ヒヌカ†
「…………ジン、すごいよ……」
ヒヌカはほうけた様子でジンを眺める。
彼女は、この場にいる誰よりも今しがた起こった出来事を理解していた。
生まれたときから支配下にあった咎人たちには、支配のない状態が想像できない。
だから、人間が天上人を倒すことの意味を掴みきれていない。
…………倒せるということは、力があるということだ。
対等だということだ。
対等であるのなら、人間は抗ってもよいのだ。
ジンはそのことを皆に訴えている。
けれど、本当の意味でわかっている人間は少ないだろう。
それくらい、人間は支配に慣れている。
町に住んでいるヒヌカには、それが何よりつらかった。
…………でも、ジンはその空気を変えた。
人間の可能性を示した。
本当にすごい。
昔から何かやる人だとは思っていた。
まさかこんなところにまで来るとは思わなかった。
いつかもっと大きなことをするに違いない。
そんな風に思うが、ヒヌカにとって一番大切なことは、家族がみんな生きていたこと。
それから、ジンと再会することができたことだ。
もう自分たちを縛る存在はいない。
だから、一緒に過ごすことができるのだ。
バランガにいた頃と同じように、畑を耕すだけのささやかな毎日を…………。
このときのヒヌカはそう思っていた……。