決戦11
†ジン†
視界が閉ざされた。
何か恐ろしいものが自分を取り巻いていた。
気づけば、そこは悪しき精霊の内側だった。
怒りと憎しみの精霊。
その名が示す通り、精霊は二つの感情から生まれていた。
生きとし生けるものが抱く怒りと憎しみ。
それが精霊の正体だった。
……これから自分はどうすべきか?
漠然と広がる霧が悪しき精霊なのだとしたら、倒す方法は何か?
核らしきものがあれば話は早いが、足元は普通の山だった。
空だろうか。
見上げると、雲と太陽があった。
太陽は動くことを止め、空は赤と黒でくすんでいた。
風は吹けども風景は変わらない。
まるで時間が止まったかのようだった。
やがて山頂に到達する。
社のような気の利いたものもない。
山頂を示す石碑があるばかりだった。
その前にはソテイラがいた。
「…………お前、その体は……」
変わり果てた姿だった。
首から下の胴体が赤と黒で染まっていた。
もはや天上人としてもアンドロイドとしても異常な色だ。
「……クソ、まさかここまで到達するとはな! なぜ邪魔をする!?」
ソテイラは憤怒の形相で睨みつけてくる。
ジンは少しだけ驚いた。
ジンの知っているソテイラは、感情を表に出すような奴ではなかった。
「……お前、怒ってるのか?」
「そうだ! 最悪の気分だ! 全く感情とは不便なものだ! 制御が効かぬ!」
「…………アンドロイドじゃなかったのか?」
「アンドロイドだったとも! だが、私は感情を手にしたのだ! 高次元生命体の力によってな! 感情を理解するアンドロイド! 私は完璧な存在となったのだ……!」
「その割には嬉しくはなさそうだな」
「当然だ! 私に与えられた感情は怒りと憎しみだけなのだから!」
ソテイラは頭を抱え、石碑の前を歩き始めた。
「あぁ、憎い! あぁ、悔しい! ここまで練り上げた作戦をまさか人間の手によって潰されるとは!」
練り上げた作戦。
使徒を動かしていたのはソテイラだったのか。
戦略的な動きも肯けた。
「これでミンダナは終わりだ! 亜人共をのさばらせることを許してしまった……! 王の末裔たる貴様が、なぜこのようなことを……!」
「なぜって言われてもな……。何度も言うけど、お前の言うミンダナなんて、俺は知らん」
「……なんと無責任な……!!」
ソテイラは空を仰ぎ、翼を広げた。
その色は光を吸い込むような黒だった。
白孔雀を模して作られたとはとても思えなかった。
「貴様には心底失望した……! 新たなる人間国ミンダナに貴様は不要だ……!」
ソテイラは唐突に踏み込んできた。
その瞬間、背中を舐められたような寒気を覚えた。
体が自動的に動き、ソテイラの拳を受け流す。
がら空きになった腹に左の拳を叩き込む。
不思議な感触だった。
機械を殴ったとは思えない。
まるで生身の人間を殴ったかのようだ……。
「…………今の何だ……? お前、その体は……」
「見ての通り、受肉したのだ! 私はもはやただのアンドロイドではないというわけだ!」
殴られたら痛いし、怪我をしたら動きも鈍る。
首から下という範囲に限れば、対等な殴り合いというわけだ。
「無論、生き物は機械に比べ弱い。……不利益もあるだろう、だが、理解できたことも多々あった! 私は貴様たちのすべてを理解した!
私だからできた! 私は生き物のあり方を解析した! そして、解いた! この世界の本質がいかなるものかを! 説明するには、たった二つの感情で十分だったのだ!」
「……それが怒りと憎しみだってのか?」
「その通りだ! 貴様にも備わっているその感情が本質なのだ……! 思い出せ……! 貴様は親を殺されたときどう思った!? それこそが生物の根底にある感情だ!」
親を殺されたらどう思うか。
当然、殺した相手を憎むだろう。
仕返しをしたいと思うだろう。
「そうして、復讐が成功したらどうなる!? 殺された側の親族が同じことをするのだ!」
つまり、感情が連鎖する。
終わらない復讐の始まりだ。
いや、そんなことにはならない。
どこかで止まるはずだ。
でなければ、永久に殺し合いが続いてしまう。
「事実、続いたのだ! そうして、ミンダナは滅んだ!」
ソテイラは言う。
世界は単純にはできていない、と。
自分が何かをされたから憎むわけではないのだ、と。
身近な誰かが殺されたから憎む。
同じ地域の人が、
同じ名前の人が、
同じ種族の人が殺されたから憎む。
自分が何かをされる。
これは、○○が何かをされるに拡張される。
○○には何を入れてもいい。
自己の帰属を感じられるあらゆる集団が入る。
故に自己は際限なく広がる。
広がって広がって、一つの大きな自己となる。
これが戦役における種族だった。
そして、自己は時を越える。
過去に受けた被害も怒りと憎しみの原料となる。
百年前に自分と関係ない誰かが殺されたとする。
人はそこに憎しみを抱くことができる。
全く関係のない他人でも、巨大化した自己の内側に入れば、それは身内だ。
他人という身内を殺された人は復讐の権利を正当化する。
一人が死ねば百人の憎しみとなり、百人が死ねば一万人が憎しみを持つ。
憎悪は発散するのだ。
だから、戦役は千年も続いた。
先祖の誰かがひどい仕打ちを受けたから、仇を討たねばならない。
責任を取らせなければならない。
そんな思考が当たり前のように根付いていた。
「怒りと憎しみの精霊は、そうした感情を依り代に顕現したのだ!
あれは人間が呼んだものではない! 特定の高次元生命体を呼ぶ技術は当時にもなかったのだ!
呼び出される高次元生命体は、この世界に強い縁を持つ何かでしかなかった!」
それが怒りと憎しみの精霊だった。
種族間の殺し合いが、高次元世界から”本質”を呼び寄せたのだ。
「故に! 二つの感情が世界の解なのだ!
怒り、憎しみ、殺し合い、滅ぶ!
貴様たちのあり方を突き詰めれば、そこに行き着く! この答えは変わらぬのだ!」
「滅ぶって、…………お前、人間国のために戦争をしてたんじゃなかったのかよ!?」
「そのつもりだった、と言おう。目的は戦争に勝つことだった。
……だが、人間国の勝利に人間は不要だとも思い始めた……。
私の使命は勝利へ導くこと。その先は知らぬ」
「無茶苦茶言いやがって……! お前は何なんだよ!?」
「私の意志など関係なかろう! 私は解いたと言った! どのような経緯であれ、行き着く先は同じだ……!」
「俺は認めねぇ!」
「どの口がほざく……! かつての貴様は怒りと憎しみに染まっていただろうが!」
「…………」
それもまた事実だ。
村を出たばかりの自分は、次々と殺される人間を見て、……天上人を憎んだ。
親を殺された、村を燃やされた。
そこまでは憎んでも仕方がなかった。
だが、見ず知らずの他人の死を憎しみに変えたのは、なぜだったのか?
自分と関係のない人間が死んでも、悲しかったし、悔しかった。
天上人そのものを憎んでいった。
人間の王だと言われたから?
王だから人間を代表しないといけないから?
それらはあと付けの理由だったように思う。
地位や使命に関係なく、気持ちは固まっていた。
天上人を倒す。
そのことだけを考えていた。
「でも、俺は憎むのを止めた! 天上人とは仲良くするって決めたんだ! 俺はもう天上人の敵じゃない!」
「なぜだッ!? 今、こうしている間にも、どこかで人間奴隷が殺されてるのだぞ!?」
「……それは知ってる。でも、いきなり全部を変えるのは無理だ。少しずつ変えないといけねぇんだ……!」
人間も天上人も万能ではない。
国中の人間にいきなり地位を与えても、解決にはならない。
見える範囲から進めるしかないのだ。
……憎むのを止めるというのは、自分の範囲を狭くすることだ。
「違う、違う、違う……!」
ソテイラは頭を抱えて後ずさりをする。
頬に爪を立て、叫んだ。
「なぜだッ!? なぜそのような解が出る!? 私の導いた答えと違うッ!! 貴様にはどのような入力があった!?」
「…………スグリが教えてくれたんだ」
スグリは天上人を恨まなかった。
村を焼いた天上人と目の前にいる天上人を区別していた。
何でもかんでも同じにして、恨む必要はない。
そのことを教えてくれた。
「誇りはどうなるッ!? 種への侮蔑を見過ごすのかッ!? 王として許されることではないぞ!?」
「誇りを持つことと復讐は違う」
前提がおかしいのだ。
なぜ誇りを持ったら復讐をしなければならないのか。
どこにもそんな決まりはない。
それは結局、自分の範囲を広げているだけだ。
他人のことを自分のこととして考える。
悪いことではない。
だが、他人の代わりに復讐をするのは間違いだ。
「俺の先祖は確かにマナロに殺された。でも、エリカを恨まないといけない決まりはない。先祖は先祖で、俺は俺だからだ」
「……わからぬ! 貴様の考えがわからぬッ!! 私は、……私はすべてを解いたはずなのにィイイィイ…………!」
「…………そりゃ、お前……、感情が二つしかないからだろ?」
「なにぃ……!?」
「人間と天上人は他にもいっぱい持ってるだろ。二つじゃ足りねぇんだよ」
「……うぅううぅ! あり得ぬ! 怒りも憎しみも否定するなど……! あってはならぬことなのに!
怒りは! 憎しみは! 根源なのだ! この世界の! 故に私は……、私はここへ! ……怒りを、憎しみを! 広めるために! 許さぬ……、許さぬぞ……! 下等なる者共め……!」
「……お、お前、」
ソテイラの体が溶けていた。
空間との境界が曖昧になり、霧の一部になろうとしていた。
「お前、悪しき精霊の一部になってたのか……」
「ならなんだ!? 私は身を捧げ高次元生命体を呼んだッ! 世界の本質となったのだ!」
「お前は本質じゃねぇ。ただの嘘つきだ」
「私を否定するなッ……!」
ソテイラの体が溶ける。
空と一つになろうとする。
阻止せねばならない。
理由はわからないがそう思った。
温存した力を使うなら今だ。
左手にありったけの力を集める。
立っているのも苦しくなるが、……まだだ。
もっと、……もっと集める。
飛びそうな意識を気合いでつなぎとめ、……そして、炎に変えた。
的が小さいために、これまで以上に炎を細くする。
「世界の本質は私でなければならない……!」
ソテイラが飛んだ。
溶けかけの羽で宙を目指す。
その動きに合わせて左手を空へ向ける。
大した速さではない。
イゾルバ・コロナ・ダルに比べれば、止まっているも同然だった。
「――――これで終わりだッ!」
炎を放つ。
怒りと憎しみを否定する。
青い炎はすべてを焼き尽す。
ソテイラを呑み込み、ラバナ山を覆っていた霧を貫き、止まっていた太陽に向かって走っていく。
「――――爆ぜろ」
一拍空いて、爆炎が空を染めた。
赤黒い霧を上塗りするような青が広がる。
怒りと憎しみの精霊はこの世界の本質などではない。
再度、念じる。
否定する。
「私を否定するなぁああぁあああ……!!!」
断末魔が聞こえる。
霧が蒸発すると同時にソテイラの姿も消えていく。
空が色を取り戻す。
視界一面に水色が広がった。
その一部が歪み、龍の姿が見えた気がした。
龍はソテイラの残滓を翼で包み込むと、天へと昇っていった。
嘘のような静けさが降りてきた。
山頂から見下ろす外界は一面の雲に覆われていた。