70 出発1
†ネリエ†
そして、一夜が空けた。
出立の朝。
帝都の正門前では皇国守護軍の出陣式が行われた。
式典が街の外になったのはネリエの差配だ。
天上街で開けば、人間が顔を出せない。
ジンが総大将を務めることを人間に知ってもらうために、あえて出入り自由な場所とした。
式典には大勢が参加した。
ネリエは代表として演説を行い、集まった民の声援に答えた。
そうした表向きの政務とは別に、参謀としての仕事もある。
正門横の詰め所を借り切り、最終打ち合わせを行う。
各氏族の状況、兵站、旅程。
確認すべきことは山とある。
ティグレがやってきたのは、そんなときだった。
「この忙しいのに何の用事?」
重要な話だと言うので人払いもした。
書類仕事をしながら、片手間で話を聞く。
珍しいことに、ティグレは言いにくそうにもじもじしていた。
「実はそのぅ……」
「何? 着替えの手配ができてませんとか?」
「俺、守護軍についてくのやめようと思うっす」
間。
思わず、書類に筆を落とした。
「はぁああぁあぁああ!? ついてこない!?」
そんなの想像もしていなかった。
ティグレはマナロの元側近。
国の中でも最上位の戦闘力を誇る。
一人いるだけで戦況は随分と変わるだろう。
だから、戦力として数えていた。
というか、ついてくると勝手に思っていた。
まさか当日になって行かないと言い出すとは。
「いや、だって、俺は執事ですし? 戦争に行く義務はないっすよ?」
「それはそうだけど……!! あんた、それでも元大海賊なわけ!? 戦いへの意欲はないの!?」
「……海賊ってのは卑怯者がなるもんすからね?」
「なによそれ……」
憤りつつも強要はできない。
彼はあくまでマナロの命令でネリエの執事を務めているに過ぎない。
正しいのはティグレだ。
「本気なのね?」
「本気っす。あ、ちなみに着替えとかは侍女っぽい人に渡したんで大丈夫っす」
「……そう。だったらいいわ。下がりなさい」
「っす」
ティグレを追い出し、ため息をつく。
「…………はぁ。なんなのよ、あいつは……。肝心なときに役に立たないんだから。薄情者だし……!」
そんな風に怒ってみる。
しかし、心のどこかでは置いていきたいという気持ちもあった。
ティグレには世話になった。
褒美だって十分に出せていない今、死地にまで連れて行くことはない。
ついてこなくていいと言おうか迷っていたほどだ。
それも向こうから言い出したせいで台無しになったが……。
「……ネリエ皇女? 何か不都合でも?」
戻ってきた近衛にそう聞かれた。
「いえ、何でもございませんわ。私事ですので」
ネリエは皇女の仮面を被り直す。
ティグレのことは忘れよう。
あいつなど知らん。
けれど、腹が立つから、帰ってきたら、春画本を燃やしてやろう。
それでいい。
今は眼の前のことだけを考える。
書類に一通り目を通し、十二天将とも簡単に打ち合わせをした。
隊列も整え、いつでも出発できるようにした。
次に民の前に姿を出せば、それが出立の合図となる。
待たせるだけ無駄なので、もう行ってもよいだろう。
書類を片付け席を立つ。
近衛兵が慌ただしい様子でやって来たのは、そのときだった。
「ネリエ皇女、火急で目通り願いたいと申す者が」
「目通り……? どなたですか?」
「十二天将アンソグ・ディーヨスです」
意外な名前にネリエは目を丸くする。
……敗戦の将が今になって何の用か。
「いかがいたしますか? 出発間近ですが……」
「お会いいたします。通してください」
目論見は見えないが、彼は精霊との戦闘を経験した貴重な人材だ。
会うこと事態に損はないと判断した。
出発を遅らせることになるが、片道二十日の旅程だ。
数刻のずれは問題にならない。
ネリエは詰め所の応接室へと移動する。
検問を兼ねる都合上、詰め所には上流天上人が使える個室があった。
防諜対策も施され、会談するのに十分な場所だった。
「アンソグ様をお連れいたしました」
まもなくアンソグがやって来た。
傷は多少なりとも癒えたのか、以前ほど血生臭い感じがない。
対してネリエは二人の参謀役と共に相対した。
参謀役は御三家の力関係を整えるために、蛇龍と飛竜から一人ずつ派遣された役人だ。
名実ともにネリエの補佐を務める。
アンソグは入り口の近くに腰を下ろした。
「まずはお目通りをお許しいただいたこと感謝いたします」
アンソグは上流にありがちな長い挨拶を述べようとする。
ネリエはすかさず遮った。
「時間もありませんので、挨拶はなしといたしましょう。私に用事があるとのことでしたが?」
「……はい。折り入って願いがございます」
アンソグは驚きつつも丁寧な物腰で言った。
大敗を喫してからというもの不遜な態度は鳴りを潜め、随分と丸くなったようだ。
「願いとはどのような?」
「此度の戦に我らの手勢も加えていただきたいのです」
「……アンソグ様の手勢を?」
「はい。先日の戦で、我らは多く血族を失いました。犬氏族にとって氏族の仲間は皆、家族なのです。氏族長としてその仇を取らねばなりません。……どうか我らにその機会をお与えいただきたいのです」
名誉挽回の機会が欲しい。
アンソグの主張を要約すれば、そうなるのかもしれない。
どうしたものか……。
ネリエは考える。
アンソグを含め、先の鬼滅討伐軍の面々は重傷者ばかりだ。
万全の状態でなければ、足手まといになる可能性がある。
加えて、守護軍との連携にも不安がある。
同じ軍で長らく訓練を共にした獅子や虎は氏族間の軋轢を保留にしている。
そこに犬が加わっても同じように振る舞えるか。
かなり微妙な線だとネリエは思う。
「我は反対ですな」
「我もです」
ネリエが黙っていると、参謀役の二人が言った。
「理由をお聞きしても?」
「アンソグ様はネリエ様に敵対されておられた方だ。仲間として連れて行くのは危険すぎます」
「いかにも。信用に値する忠義もなければ義理もない。戦地に置いて忠義なき者は敵よりも危険です」
「なるほど。一理ありますね」
派閥という考え方をすれば、アンソグは敵だ。
さすがに守護軍の妨害をするとは思えないが、参謀役の言う通り、あえて信じる理由もない。
「お二方の言う通り俺には忠義がありませぬ! しかし、皇国が滅亡の淵に立たされた今、過去の怨讐に拘ろうとは思いませぬ! 必ずやお役に立ってみせます! 何卒!」
アンソグは畳に額をつける。
一度、喧嘩を売った相手に頭を下げる。
矜持を捨ててでも仇討ちを優先したいのだろう。
その意志を汲み取ってやりたくはある。
「……そこまでするのなら、考えなくもありません」
「皇女!」「ネリエ様!」
左右から声が上がるもネリエはこれを制する。
「では、加えていただけますか!」
「その前にアンソグ様の手勢についてお聞かせください。何名ほどを動員されるおつもりですか?」
「は。全員で二十名としております。数が多すぎても本軍の邪魔になりますので」
「それは殊勝な心得です」
一応、犬や虎に配慮した、ということでよいだろう。
「皇国守護軍はすでに各隊に役割を振っております。アンソグ様はどのように活躍されますか?」
「ネリエ様を含む本陣の警護。あるいは遊軍、斥候を主務とすべきかと」
この答えも完璧だった。
主役を張りたいと言い出したら断るつもりだったが、裏方に回る心づもりなら問題はない。
むしろネリエの近衛は現状、正規軍から借り受けている状態だ。
後方部隊には獅子も虎もいないため、比較的、犬が入りやすい。
アンソグ本人の戦力も魅力的だ。
左腕を失っていても霊術は健在。
物を操るという汎用性の高さは、他の十二天将には見られない能力だ。
……ティグレに頼もうとしていた近衛の穴は埋めたいと思っていた。
思ったより自身の立場もわきまえているし、案外、ちょうどよいのかもしれない。
「アンソグ様が功名心に走るのではなく、味方の弔いのために戦場へ赴きたいという気持ち、よくわかりました。本陣の警護として皇国守護軍に加わっていただきたく存じます。本陣の警護は、下手をすれば最後まで役目がないかもしれません。それでも最後まで私の指揮下に入ると誓えますか?」
「もちろんでございます! 必ずやご期待に沿ってみせます!」
アンソグは即答し、頭を下げた。
逆に不安になる潔さだ。
「……仇を討つ機会がない可能性を示唆したつもりなのですが、よいのですね?」
「無論にございます。まずもって参戦しなければ、仇を討つ機会も得られませぬ。かと言って、花形を寄越せなどと申せる立場でもございません。ただ、機会を信じ、待つのみです」
「……なるほど。心意気は理解しました。期待していますよ」
「はっ」
話は終わった。
ネリエが応接室を出ようとすると、左右から参謀役が顔を出し、文句を並べた。
「我は忠告いたしましたぞ」
「全くです。なぜあのような者をお加えになるのか?」
「……今は皇国が滅亡の淵に立たされているのです。少しでも多くの助力を必要としています」
「ですが、信の足らぬ者を自らの近くに置くとは非常識きわまりませぬ」
「そう思うのであれば、あなたがたにアンソグ様の指揮をお任せいたします。元より私の策には入っておりませんので」
参謀役にアンソグの監視役を命じる。
仮に二人の言うようにアンソグに思うところがあったとしても、これで問題はないだろう。
加えて、ネリエは本来の作戦に集中できる。
よいこと尽くめの提案に参謀役も渋々乗ってきた。
こうして、皇国守護軍に犬氏族二十名が加わったのだった。