17 看守1
女郎の姿で崖下をさまよい、やっとのことで帰り着く。
見つからなければ最高だったが、洞窟の前に監視者が待機していた。
さすがに時間をかけ過ぎた。
咎人は戻るときにも人数を確認されるから、減っていたら一発でバレる。
リマは粘っただろうが、監視者に詰め寄られたら嘘はつけない。
「女郎に化けて外に出るとは、随分と考えたわね?」
「うるせぇ……、好きでこんな格好をしてるわけじゃねぇ」
「偉そうだこと……。自分たちの立場はわかってる?」
監視者は真っ先にジンの頭巾を外した。
どう見ても女装しているむくつけき男だ。
「あははは、これに騙された私も大概だわ。まさか本物の女郎を連れ出すとは思わなかった。……初めて来たくせにどうやって、抱え込んだの?」
「……どういうことだ?」
「こっちの子とどこで知り合ったかって聞いてるの」
「あのー、勘違いしてるみたいですけど、……僕も男です」
「え、そうなの? 本当に男?」
「男です……」
「こんなに可愛いのに? 男? ついてるの?」
監視者はカルにご執心だった。
引き剥がして、本題に移らせる。
「そうね。まずはこっちに来てくれる?」
着替えさせられ、別室へ連れて行かれた。
看守に突き出す前の事情聴取だろう。
「看守に報告されたら死刑だよ……」
カルが小声で言う。
硝子にされた咎人の顔が脳裏をよぎる。
けれど、通路には鍵をかけられた。
逃げ道はない。
「で、何のために女郎の真似事なんかしたのか説明してもらえる? 予め言っておくけど、ここで話した内容は看守に報告されるから、言葉は選ぶように」
監視者は個室に鍵をかけ、尋問を始めた。
改めて顔を見ると、ジンよりいくつか歳上だった。
名前はトイエというらしい。
「そんなの逃げるために決まってるだろ……。聞いてどうするんだ」
「それもそうか。じゃ、次の質問。あんた、ヒヌカの知り合い?」
「それ、関係ある話か?」
「もちろん。どうせヒヌカに確認すればわかるんだから、正直に話しなさい」
なぜそんなことを聞くのか。
理由はわからないが、黙っていても状況はよくならない。
ジンは細かに話してやった。
二人ともバランガという村の出身であること。
天上人の襲撃で村を追われたこと。
逃げる途中で離れ離れになったこと。
そして、収容所で再会したこと。
「なるほど……、あんたがいたからか……」
ひとしきり聞くと、トイエは切なげに肯いた。
この頃にはトイエの態度も随分と柔らかくなっていた。
水を飲ませてくれたり、座布団をくれたり、取り調べという雰囲気ではない。
ジンもカルも首を傾げる。
「こんなこと聞いて何するんだ? これも看守に報告するのか?」
「いや、半分以上は個人的な興味。確かめたいことがあっただけ。だけど、あんたには話した方がいいかもしれないわね」
「…………話す?」
「なぜヒヌカがここにいるか、よ」
そう前置きして、トイエは語り始めた。
トゥレンにヒヌカがやってきた頃のことを……。
†ヒヌカ†
ジンを刀の背で切ったあと、ヒヌカは刀を崖下に投げ捨てた。
殺すフリをしたのは、それしか手段がなかったからだ。
近くには看守ともう一人の監視者がいる。
見られたら終わりだ。
看守が緩慢な歩みでやって来る。
「急に刀など持ち出して何事だ?」
「女郎が話を盗み聞きしていたので殺しました」
淡々と報告する。
看守は疑いもしなかった。
信頼を勝ち取れている、とは思う。
看守の下を辞したヒヌカは洞窟を歩いて、女郎宿へ戻った。
町へ出たのは看守に定時報告をするためだ。
看守は時折、町に出る。
その場合、報告は監視者が町まで出向かなければならなかった。
片道一刻の洞窟だが、苦労は感じない。
それまでの生活に比べれば、何十倍も快適だからだ。
ヒヌカはバランガを出たあと、トゥレンに流れ着いた。
流された川が街の近くを流れていたのだ。
バランガを脱した者の多くが、ここに漂着していた。
何人かの知り合いとも会った。
ヒヌカの家族も同じだった。
ヒヌカは幸運にも家族と再会することができたのだ……。
無論、全員が無事というわけではなかった。
祖父母を含め九人家族のうち、五人がこの世を去っていた。
残ったのは父、母、姉、ヒヌカの四人だけだった。
一家は再会を喜んだ。
涙を流して抱き合い、互いが生きていることに感謝した。
だが、トゥレンでの生活は過酷を極めた。
特に流れ者にはまともな仕事が回ってこなかった。
トゥレンの人間は大きく三つの階層に大別される。
町の北に住む奴隷。
町の街道沿いに住む奴隷。
そして、町の南に住む奴隷になれなかった者たちだ。
町の北には位の高い天上人が宿泊する。
接客は天上人によって行われ、人間の仕事は裏方だ。
ときには料理や庭師といった技能を要する仕事もする。
町で最も裕福な部類で、自由にできる資産を持ち、嗜好品にすら手が届く。
街道沿いには位の低い天上人が宿泊する。
人間はその接客を任される。
無礼があれば斬り捨てられるが、給金はそこそこ。
食うに困らない生活ができる。
女郎が供されるのも、この位の天上人だ。
町の南には人間が宿泊する小屋がある。
世話をする人間こそいるが、彼らは特定の天上人に仕えない。
法によれば収容所送りとなるはずだが、荷運び人の世話をするため黙認されている。
南の人間は毎朝、桶を持って北へ向かう。
宿のゴミ捨て場で待つと、天上人の食べ残しが落ちてくる。
それをとにかく桶で受け止め、南で荷運び人に売る。
稼いだわずかな金で生活をする。
外から来た者は漏れなくこの層になっていた。
ヒヌカは初め、その生活が信じられなかった。
桶で受け止めた食料は何もかもがごちゃまぜで、食べ物には見えない。
食べることもそうだが、売ることにも嫌悪を覚えた。
だが、南の人間は当たり前のようにそれを繰り返す。
荷運び人たちも同じだ。
彼らの目は動物の目と同じだった。
混ぜ込まれた食べ残しを見るたびに、あそこまで堕ちたくないとヒヌカは思った。
村の料理番になる。
その夢を持ち続けていた。
誰かを支える料理を出したい。
ずっとそう思ってきた。
しかし、ゴミ捨て場で残飯を集めて売り歩くのもまた、『誰かを支える料理を出す』仕事と言えた。
そんな皮肉めいた運命を呪った。
本当の悲運はそのあとに起こった。
母が病気にかかったのだ。
移動の疲れが祟ったのだろう。
起き上がることもできなくなっていた。
町の南に医者はいない。
胡散臭い祈祷師や薬草師しかいなかった。
それでも頼るしかなく、父は借金をして、薬を買った。
ヒヌカもゴミ捨て場から滋養の得られそうな食べ物を集めてきた。
家族が皆で母の快癒を祈った。
……が、祈りは天まで届かなかった。
母は消えるように息を引き取った。
弔いなどしてやれず、無縁墓に葬られた。
あとには莫大な借金が残った。
人間相手の金貸しなどろくなものではない。
返せるはずのない利子を要求され、一家は窮した。
天上人の法は人間の金貸しを縛らない。
ただ、殺人と人身売買を禁じるのみだ。
金貸し屋から娘のどちらかを売れと言われたとき、父に断るすべはなかった。
こうして姉が女郎宿へ売られた。
人間による人間の売買は禁忌だ。
買った方も売った方も裁かれる。
犯罪の片棒を担がせることで金貸し屋は一家の口を封じたのだ。
あの日のことは決して忘れない。
借金のために売られる姉。
どうすることもできずに見送る父と自分。
家族が次々と離れていく。
そのことがどうしようもなく悲しかった……。
一時、父と二人で死のうかとも思った。
しかし、それでは売られた姉が浮かばれない。
あまりにも希望がなかった。
知らせが舞い込んできたのは、そんな折だった。
「――――女郎ってのは、金があれば身請けできるらしいよ」
話を持ってきたのはトイエだった。
彼女とはゴミ捨て場で知り合った。
姉と歳が近く元々は姉の友人だった。
姉が売られてからは何かとヒヌカを気にかけてくれた。
姉の身請け。つまりは買い戻し。
それがヒヌカの希望となった。
金さえあれば姉を助けられる。
ヒヌカは今まで以上に働いた。
しかし、人間の世話をしている限り、大きな金は手に入らない。
稼ぎたければ天上人に仕える必要があった。
基本的に南に住む人間にその機会はない。
天上人の奴隷は世襲であり、つけ入る隙がないためだ。
ところが、思わぬところから声がかかった。
看守がヒヌカを雇いに来たのだ。
聞けば、姉は天上人に覚えのよい女郎だという。
妹がいると聞いて見に来たらしい。
ヒヌカはその場で監視者の仕事を与えられた。
まさに奇跡だった。
姉が囚われたために仕事を得られたのだから素直には喜べないが、金さえ稼げばいずれは姉も自由になる。
看守は身請けのために働くのだと言っても嫌な顔をしなかった。
払えるのならば何でもよいと言ってくれた。
その日からヒヌカは監視者となった。
二年働けば姉を買い戻せるはずだった。
ただし、二年の間に脱走者が出れば、それまでの給金はすべて没収となる。
当然、姉も戻らないし、次の機会も与えられない。
ヒヌカはその場でクビとなり、女郎に堕ちる。
必ずや職務を全うしてやろう。
そんな決意を持って迎えた初日。
ヒヌカは収容所に囚われたジンを見つけたのだった。
……どう振る舞うのが正解だったのか。
ヒヌカは今でも迷っている。
監視者に徹する道を選んでは来た。
そうしなければ、姉を救えないし、ヒヌカ自身が危険だった。
監視者は監視者同士で見張り合う仕組みだ。
素行が怪しければ、すぐにでも報告され、クビにされる。
ジンに声をかける機会をうかがっていた。
けれど、そんな機会は一度として訪れなかった。
そうこうするうちに時間ばかりが過ぎていった。
女郎に変装したジンを見たとき、ヒヌカはとっさに手助けをした。
崖下は結界の外だ。
ジンは自由になれるだろう。
そして、ジンが逃げたなら、自分は女郎になる運命だ。
町には父が一人取り残され、ヒヌカと姉はここで咎人の慰み者となる。
……それがよかったのか、どうか。
ヒヌカにはわからない。
けれど、満足だった。
最後の最後でジンを助けることができたから。
ジンが自由に生きていけるのなら、自分はここで女郎になろう。
そして、いつまでもジンの幸せを祈っていよう、と思う。
†
トイエは知る限りのことを話してくれた。
彼女は監視者だが敵ではなかった。
こうして話す場を用意してくれたのも、ヒヌカのことを思えばだ。
得られたものは多い。
ヒヌカの置かれた状況もわかった。
今の時点ではどうすることもできないことも。
ジンが逃げれば、ヒヌカは女郎になる。
ヒヌカの姉も助からない。
二人が助かるには、二年間、監視者を全うするしかない。
だが、それはジンとカルが二年間、留まることを意味していた。
無理だ。
二年もあったら、さすがに死ぬ。
強いとか、弱いとかではない。
死はいつだって突然だからだ。
強い奴が運悪く枝に引っかかって失明するだとか。
変な病気にかかるだとか。
そんな話には事欠かない。
今まで自分たちが無事だったのも、運がよかったからだ。
そして、これからも無事である保証はない。
「ヒヌカと話したい。ヒヌカと会わせてくれ」
頼むとトイエは渋い顔をした。
「無理よ」
「どうしてだ!?」
「あたしは女郎の監視者だから」
だから、咎人の監視者とは縁がない、という。
そう言えば、トイエは二人組ではない。
女郎と監視者は手を組まないと想定されるためだ。
「監視者の力で何とかならないのか?」
「できないものはできないわ」
取り合ってもくれない。
それどころか、トイエはこう言った。
「悪いことは言わないから、ヒヌカに近づくのはやめなさい。あんたが姿を見せても、ヒヌカが動揺するだけ。バレたら元も子もないわよ」
「近づくなって……」
だったら、どうしろというのか。
二年間、黙ってろとでも?
それこそ、死ねと言うも同然だ。
……無理にでも話をしに行くか?
もう一人の監視者を黙らせて……。
そして、看守に報告されて殺されるのか。
……ダメだ。
何も思いつかない。
「この場はヒヌカに免じて見逃してあげる。けれど、次はないわ」
トイエに女郎宿を追い出される。
帰ろうとするも、縦穴をつなぐ通路が施錠されていた。
ため息。
行く宛もないので隠れ家へ向かった。
†
排水用の穴をくぐる間、ジンは無言だった。
カルもだ。
二人で難しい顔をしていた。
考えるのはヒヌカのことだ。
ジンとしてはなんとかしたいと思っていた。
だが、カルは……。
カルは違うだろう、と思う。
カルの目的にヒヌカは関係ないからだ。
さすがに二年も留まるのは許可しないだろう。
カルは説得をしてくるはずだ。
バレないように逃げようとか言って。
さすがにヒヌカを見捨てようとは言わないはずだ。
……たぶん。
「あれ……」
隠れ家に到着すると、カルが険しい顔をした。
「どうかしたか?」
「布が畳まれてる……。ジンじゃないよね?」
「布? あぁ尻に敷くやつか。地面に置きっぱなしにしてた」
「じゃあ、誰がこれを……」
見ると、布が畳まれ木の根元に置かれていた。
風で飛ばされたなら、こんな風にはならない。
「誰かがここに来たのか……?」
まさかとは思う。
この場所は誰にも知られていないはずだ。
「そうみたい。調べよう」
銀をしまっていた木の虚を見る。
元々、銀をしまっていた場所だが、触られた形跡はない。
……銀を戻しても安全に思える。
他に変わったところは……。
川辺を歩き回り、不審な点を探す。
そして、ジンはそれを見つけた。
切り株だった。
橋を作るために切り倒した木の名残だ。
切ったあと、手を加えた覚えはない。
だったら、この切り株に乗っているものは……。
いや、見間違えるはずがない。
切り株に乗っているのはシグラスの花だ。
愛を誓う花。
結婚式に男女が一輪ずつを切り株に乗せる花。
それを知る人間は外の世界にはいないはずだ。
バランガだけの風習だから。
この収容所にいるバランが出身の人間は、ジンとあと一人しかいない。
「……どうかしたの?」
カルが顔を覗き込んでくる。
ジンは大きく息を吸って、
「…………大丈夫だ、何でもない」
嘘だった。
何でもないはずがなかった。
シグラスを添えたのは、ヒヌカだ。
なぜ乗せたのか。
その意味を考えずにはいられない。
一つ、言えることがある。
ヒヌカは約束を覚えている。
あの日のままの、変わらないヒヌカなのだ。
……いや、そんなのはわかっていたはずだ。
わかっていて、悩んでいた。
トイエから話は聞いた。
けれど、ヒヌカの内面まではわからなかった。
何を思って監視者をしているのか。
それらはトイエの憶測で話された。
答えはわからないままだった。
それが、今、わかった。
切り株の誓いでは、自分の意志を花で示す。
結婚ならシグラスの花を。
シグラスを切り株に乗せれば、愛を誓ったことになる。
あの日かわした口約束はまだ生きている。
ヒヌカはそれを伝えようとしていた。
そして、ジンは今、それに気づいた。
可能であるのなら、応えたい。
シグラスの花を乗せたい。
――――でも、カルとの約束がある。
どうすべきか。
答えが出ない。
「カ、カル、……話があるんだ」
とりあえず、口を開く。
説得をしよう、とジンは思う。
うまくすればカルは認めてくれるかもしれない。
しかし、カルは人差し指でジンの口を押さえた。
「わかってる。二年、待っててあげるよ。死なないように見張ってるから」
そして、呆れたように言った。
理由すら聞かなかった。
その花の意味は何か、だとか。
どうしてそう思ったの、だとか。
聞きたいことはいくらでもあっただろう。
だが、カルは何も聞かずに、そう言ってくれた。
「ほ、本気か……?」
「本気だよ。それとも嘘の方がいい?」
「そんなことない! ありがとう!」
頭を下げる。
全力の土下座だ。
本当にいい仲間を持った。
この恩はいつか返したい。
ジンは川辺からシグラスを摘んで、切り株に置いた。
切り株の上にはシグラスが二輪。
その意味を知る者はジン以外にヒヌカしかいない。
これはヒヌカだけに向けられた言葉だ。
村が滅んだ夜。
ヒヌカと結婚の話をした。
半分冗談のような言い方だったが、ジンは本気だった。
いつかは結婚すると思っていた。
今、その誓いを成したのだ。
こんなところで、こんな境遇だが……。
それでもいい。
天上人が何と言おうと、気持ちだけは奪えないのだから。
その晩は、川から離れた場所で眠った。
朝になれば、連絡通路の鍵が開く。
朝食を運ぶ必要があるためだ。
そのときを狙って戻れば、脱走未遂はなかったことにできるはずだ。
†ヒヌカ†
夜が更けた頃、排水口の扉を開け、ヒヌカは縦穴の外へ出た。
当然、組となった監視者も一緒だ。
彼女は外へ出るのは初めてらしく、物珍しげに見回していた。
やがて川原にたどり着く。
以前に拾った布を広げ腰を下ろす。
「何をしているんですか?」
監視者に聞かれる。
「脱走する者がないか見張っています」
「……こんな場所に咎人がいるとは思えませんが?」
監視者は困惑した風に言う。
連れてこられた理由がわかっていないらしい。
それもそうだろう。
ヒヌカの目的は休憩だ。
ここに咎人が来るとは思っていない。
月が見えるし、川原の音が耳に心地よい。
初日に足を運んで以来、来たことはなかったが、ヒヌカはそこを気に入っていた。
一人で来られれば、なおよかったのだが……。
そう思うも、監視者の単独行動は罰則の対象だ。
そんなことで努力を不意にはしたくない。
「いつまでそうしているんですか?」
監視者に文句を言われた。
仕方なく、形ばかりの見回りをする。
川沿いに歩いて、対岸を見るふりをした。
やがて切り株に近づき、足を止めた。
「……何かありましたか?」
監視者が聞く。
返事はできなかった。
もう一度、尋ねられて、やっとのことで否定した。
何もない、と。
何でもない、と。
不審に思った監視者が近づいてくる。
そして、切り株に乗った二輪の花を見た。
「……花ですか?」
「そう、ですね」
「これがどうかしたのですか?」
「何でもありません。目にゴミが入っただけです」
監視者は首を傾げる。
花を見て、いきなり泣き始めた。
何かがある。
彼女はそう思っているに違いない。
だが、どれほど考えても、シグラスの意味はわかるまい。
わかるのはバランガの人間だけだから。
二輪のうち一輪はヒヌカが置いたもの。
もう一つを置いたのは、誰か。
収容所にいるバランガ出身者はヒヌカ、姉、そして、ジンだけだ。
姉が出歩くはずもない。
だとすれば、可能性は一つ。
……ジンが置いたのだ。
ずっと近くでジンを見ていた。
声をかけたいと思っていた。
けれど、監視者である自分にはできなかった。
近くにいるのに、話もできない。
悪人だと思われるような行動ばかりを取った。
嫌われて当然。
そんな風にも思っていた。
……けれど、ジンは約束を覚えていてくれた。
三年前のあの夜にかわした約束を。
話すことはできない。
触れることもできない。
でも、ジンは確かにここにいるのだ。
「もう行きますよ。早くしてください」
監視者が立ち去ろうとする。
ヒヌカも慌てて着いて行った。
晴れ晴れとした気分だった。
もう落ち込んでいたヒヌカはいない。
今日の夜、ジンは外へ逃げただろう。
けれど、自分はそれを受け入れよう。
姉には頭を下げて謝ろう。
ヒヌカはそう決意した。
……だが、夜が明けてもヒヌカは看守に呼ばれなかった。
不思議に思いながら朝礼に向かう。
すると、朝礼にはジンが何食わぬ顔で参加していた。
ジンは逃げなかった。
結界の外に出られたのに。
逃げることができたはずなのに。
――――俺は逃げない。
ヒヌカはジンの声を聞いた気がした。
もちろん、幻聴だ。
妄想と言ってもいい。
けれど、ジンの顔はそれを雄弁に語っていた。
もしかしてもしかすると、ジンは事情を知ったのかもしれない。
だとしたら、なぜジンは残ったのか……。
そのときのヒヌカには、まだわからなかった。