63 鬼滅討伐軍2
†ネリエ†
離宮に緊急を告げる使者がやって来た。
「皇城に向かわれますようお願いします」
使者は詳細も告げずに走り去る。
着物を引きずるために、裾が泥にまみれていた。
走ることを想定しない文官の衣装だ。
従者を使う余裕もなく自らが走り回るほどに一大事ということだ。
ネリエは着物を整えると、すぐさま皇城へ向かった。
通されたのは重役審議に使われる間だった。
重役とカナンの他には、正規軍を率いる将軍の姿もあった。
逆にドラコーンの姿はない。
部屋にいる最上位はネリエなので、ネリエが謁見される立場となった。
蛇龍出身の将軍が何か言うかと思ったが、彼は黙したままだった。
皇族にして将軍位の彼が、政務に顔を出すのは珍事だ。
そう思うと、事態の深刻さがわかる。
身構えていると、将軍の隣にいた文官が口を開いた。
「率直に申し上げます。アンソグ様率いる鬼霊討伐軍が全滅したとの報がありました」
耳を疑う。
思うように言葉が出てこない。
「……全滅とはどういうことですか? 出立してから三十日も経っていないではないですか」
帝都からラバナ山まで片道二十日だ。
三十日なら陣地を築き戦に備える頃合いだ。
「重装であればそうでしょう。しかし、アンソグ様は軽装にて速度を重視された模様。十日でラバナ山に到着されたようです」
「……十日で。その後、すぐに戦端を開いたのですか?」
「そのようです」
そして、一夜の戦闘を経て全滅したという。
……経った一晩。
アンソグは傲慢だが、愚かではなかった。
犬氏族はローボーがそうだったように、戦を好み、普段から狩りに霊術を使う。
アンソグもそれなりに経験があり、判断する力もあったはずだ。
「生存した者は?」
「およそ千名」
「……当初の規模が四千とすれば、上出来でしょう。よく生き残ってくれました」
「いいえ、どうやら帝都を出てから各領主の援軍と合流していたようです。最終的な規模は五万だったとか」
――――五万も!?
思わず声が出そうになる。
五万と言えば、正規軍の十倍近い規模だ。
個人でそれだけを集めるのは尋常ではない。
そして、それだけの軍勢が一夜で千にまで減らされてしまうとは……。
「撤退はできなかったのですか……?」
「仔細は本人の口から語らせましょう」
文官が指示を出すと、襖が開けられた。
姿を見せたのは、アンソグ・ディーヨスだった。
平伏したままでも異様さがひと目でわかった。
左腕がない。
着物の裾が不自然に凹んでいた。
「入れ、ディーヨス。仔細を話せ」
「はっ」
将軍カラ・ハタンが命じると、アンソグは顔を上げ部屋へ入った。
左目の眼帯に目がいった。
頬にも治っていない傷がある。
左側を執拗に攻撃されたかのようだった。
虚無に取り憑かれたような顔のまま、アンソグは語る。
彼が戦場で見てきたものを。
†アンソグ・ディーヨス†
アンソグは儀式場を破壊したあと、全軍でラバナ山を攻めようとした。
遠距離から攻撃を加え、十分に敵が弱ってから登坂する手はずだった。
しかし、二手にわけた軍の片方が統率を失った。
近づくなという命令が間に合わなかったのか。
あるいは副将軍では力不足だったのか。
犬氏族以外が先走った。
軍の一部がラバナ山への登坂。
中腹まで駆け上がった。
最初は何事もなく進軍できていた。
が、異変は突如として起こった。
空中に巨大な二枚貝が現れたのだ。
見上げるほどの大きさ、煌めくような純白。
時折、表面が七色に輝き、宝石のようにも見えた。
二枚目はアンソグにも見えていた。
奇怪なことに、山を挟み撃ちにしたにもかかわらず、貝は両軍の前に立ちはだかった。
奇妙な敵に双方から攻撃が加えられる。
しかし、貝には霊術が効かなかった。
度重なる総攻撃にも耐えてみせた。
無視して通り抜けようにも見えない力で押し戻される。
貝を倒さぬ限り山頂にはたどり着けないようだった。
この時点でアンソグは退くことを考えた。
敵の巨大さもある。
それ以上に、無から湧き出した敵に違和感を覚えていた。
元より山頂は遠方から攻撃するつもりだった。
全軍に下がるよう指示を出したが――――。
一部の者は下がりようのない場所まで進んでいた。
犬氏族以外の連中だった。
彼らは異形に取り囲まれていた。
アンソグが駆けつけたとき、空中に数体の影が浮いていた。
形を持たぬが周囲の空気ごと潰せば姿を消す。
しかし、時間が経つと再び影が集まり、元の姿となる。
影を倒すことは不可能だった。
そして、影は強かった。
影は意志と霊術を持っていた。
明確な殺意を持ってアンソグに対峙し、霊術を行使してきた。
影は赤い雪に力を与えた。
雪の色が赤から黒へ変わる。
そして、雪そのものが意志を持ち、命あるものに襲いかかった。
それは触れたものに分け隔てなく死を与えた。
防ぐことはできなかった。
雪には”殺す”力があった。
腕に触れれば腐り落ち、頭に当たれば即死だった。
多くの者がこの雪で死んだ。
それでもアンソグは軍をまとめ抵抗を試みようとした。
だが、どうしても軍はまとまらなかった。
元より犬氏族でないものは援軍でしかない。
将が別におり、そちらがアンソグとは異なる指示を出していた。
加えて兵は戦場慣れしていなかった。
士気を保つことは不可能だった。
一度、死の危険が迫ると、我先にと背を向けて逃げ始めた。
その中には、いてはならない奴が混じっていた。
撤退中の兵が殺し合いを始めたのだ。
前を走る者を霊術で焼き殺す。
気が狂ったのかと問われると、兵は言った。
自分は生きたい、生きるためには前を走る奴が邪魔だった、自分が正しい。
お前たちが間違っている、と。
逃げる兵の一部が使徒の攻撃を受けていた。
精神を乗っ取られ、正義の呪いを撒き散らした。
呪いは新たな呪いを呼び、瞬く間に兵に広がった。
アンソグにこれを防ぐすべはなかった。
ついには副将軍の攻撃で左腕と左目を失った。
絶体絶命だった。
そのとき、助けに来る者たちがあった。
第二次調査団と共に行動していた忍びたちだ。
百名弱という小規模ながら、彼らは戦場に突っ込んだ。
そして、正気の兵を誘導し、退路を作った。
巨体であるアンソグを抱えて逃げたのも人間だった。
人間たちは使徒を誘導し、時間を稼いだ。
勇猛に戦い、ある者は死に、ある者は傷ついた。
それでも、傷ついた兵を見捨てなかった。
だから、アンソグはこうして生きている。
†ネリエ†
話は以上だ。
語り終えた彼は神妙な面持ちで続けた。
「これまでの行いを恥じようとは思いません。人間は神々から授けられた奴隷であり、天上人には人間を自由に使い、活かし、殺す権利がある。今でもそのように考えております。――――しかし、あの状況下で前に出る人間の勇気に、この心が震えたのもまた事実でした」
アンソグは言った。
真っ直ぐとネリエを見て。
そして、深々と頭を下げた。
ネリエはその後頭部を呆然と見つめていた。
信じられないことが多すぎた。
一つは鬼滅討伐軍が大敗したこと。
もう一つはアンソグが頭を下げたこと。
最後の一つは、彼が人間を褒め称えたこと。
偏見かもしれないが、この手の男は死んでも信念を変えないと思っていた。
正しいか間違いかは関係ない。
貫くことに意義を見出しているのだ。
そんな男が人間の勇気に感動したと言った。
聞き間違いではない。
確かに言った。
……今がそれどころではないとはわかっている。
大敗した戦の分析。
そして、次に繋げることがネリエの職務だ。
それでも、アンソグの言葉が胸に響く。
「賭けはあなたの勝ちだ。いかのような罰でも願いでも申し付けるとよいでしょう」
「……懸け?」
言われて、賭けをしたことを思い出す。
勝った方が負けた方の言うことを聞くだったか。
詳細は忘れてしまった。
「死ねと仰せならこの場で腹も切りましょう」
「戯言を。あなたには責務があるでしょう。死ぬことなど許しません。謝意を人間へ伝えなさい。共に歩める者と思えるのなら、その手を取りなさい。以上を賭けの命令とします」
「……はっ。御慈悲に感謝いたします」
罰を与えるつもりはなかった。
死地から帰ってきたばかりなのだ。
死んだ兵の弔い、敗戦の責任、彼にはまだやることがある。
「それでよろしいのですかな?」
事情を察したように重役が言った。
ネリエは肯く。
「構いません。彼にはなすべきことがあり、そして、それを理解していると信じております」
アンソグは複雑な表情を浮かべ、再度、頭を下げた。
恐縮される言われはない。
自分が正しいと思うことをしただけだ。
アンソグは変わった。
昨日までとは明確に価値観が違う。
人間との距離感もきっと考え直してくれるだろう。
だから、罰は与えない。
何をすべきか、彼はわかっているはずだから。
†
それから間もなくラバナ山頂の雲が晴れたという報告が入った。
分厚い雲の下に隠れていたのは、赤黒い霧。
いかなる理由かは不明だが、調査団はそれが”感情”であると理解した。
見ているだけで吐き気をもよおすような憎悪と憤怒の塊。
悪しき精霊の一柱。
マナロ戦記に記された名は怒りと憎しみの精霊。
世界に不浄をもたらす抗い得ぬ存在。
――――やはり蘇った。
帝政は混乱に包まれた。
上流天上人の多くが脱出の準備を始めた。
火付けや強盗が相次いだ。
正規軍が治安維持に駆り出された。
そんな中、ネリエだけが落ち着いていた。
復活は予言されていたからだ。
そして、予言によれば、まだ戦いのときではない。
風の精霊は言った。
雪が溶けるまで、アレは動かない、と。
残された時間は短い。
間もなく冬が終わるだろう。
春先の、神々や精霊の戯れによってもたらされる暖かい日が訪れたなら、そのときが決戦の日だ。