58 再出発3
†ネリエ†
皇城には第二の正門がある。
通称、南陽門。
正門の背後に作られ、皇城を守る最後の砦だ。
左右には長大な城壁が広がり、正門側の城壁との間は、かなりの広さを持っていた。
この広場は南陽門広場と呼ばれる。
平時は皇城御用達の商人が集まる場で、登城を許されぬ者が南陽門広場で役人とやり取りをする。
他にも用途があり、その一つが御目見得式だ。
広場には一万を超える天上人が集まっていた。
南陽門の上に演台が設けられ、その後ろに皇帝を中心とした皇族がずらりと並ぶ。
演台から見て左右には城壁間をつなぐ長大な渡り廊下がある。
そこにも椅子が並べられ、上流天上人の席となっていた。
これだけの人数が集まったというのに、ささやき声一つ聞こえてこない。
民は頭を垂れ、皇帝の言葉を待っていた。
通常、皇帝が民の前に姿を現すことはない。
御目見が特権の一種だからだ。
しかし、今のような非常事態においては、皇帝が直接、民に語りかけることがある。
それが御目見得式だった。
式は重役が開会を宣言するところから始まる。
次にネリエが帝政の対策方針を語り、最後にドラコーンが一言述べて終わる。
表向きの趣旨は皇帝の御目見得となっているが、実際はネリエから民へ向けた取り組みの説明が主眼だ。
演説を通して、どれだけ民の協力を得られるか。
そして、どれだけ不安を和らげられるか。
皇女としての役目は二つだ。
押しかけた民は不安の色を滲ませている。
ジンには人間に注意を呼びかけるよう依頼したが、その効果が天上人にも波及したのかもしれない。
その点では効果があったと言えるが、その期待は想像を越える質量を持っていた。
期待の重さが、目に見える。
マナロと話したとき以上に、空気が重い。
演説では人間にも触れるつもりだ。
批判は覚悟の上だが、民のすがるような姿を見るにつけ、正しい選択だったのか自信がなくなる。
彼らが求めるのは力強い指導者であって、奴隷に言及する皇女ではない。
――――落ち着かないと。
深呼吸をしようと思う。
息を吸って、吸って、吸って……。
ふと気づく。
息を吐くのってどうやるんだっけ?
あれ?
あれあれあれ?
息が、苦し、
「ガレンに赤い雪が降ったそうだな」
不意に隣りにいたドラコーンが言った。
ベルリカ領都ガレンに――――。
意識が全部そちらに持っていかれた。
「領主は無事なの!?」
思わず素で聞き返すが、ドラコーンは表情を変えない。
「領主より報せがあったのだ、無事ではあろう。民を連れ、さまよっていると聞く」
「ガレンは大きな街よ。全員を帝都では受け入れられない」
「では、この季節に屋外へ放り出されたわけだ。手を打たねば、この先も増えるな。余には関係のない話だが」
「あたしには関係ある。これ以上の被害は出させない」
なすべきことを思い出す。
滅ぶか滅ぼされるかという瀬戸際にある今、手段を選ぶ指標は一つだ。
国を守れるかどうか。
人間を主軸とした作戦に批判が出ようと、ネリエは毅然としていればいい。
民におもねる必要はない。
民が人間を受け入れられぬのなら、諭せばよい。
亡国の危機という大義は、天上人と人間を結びつける建前としては最上だ。
一時とは言え、民も受け入れねばならないだろう。
そこから始めればいいのだ。
天上人と人間の物語を。
手を握る。
息を吸って、……吐けた。
もう一度、繰り返す。
緊張が溶けると、ネリエはドラコーンが話を振ってきた意図に気づく。
つい先日まで低俗な思考に支配された
いつの間にこんな大人びた顔ができるようになったのか。
最初からこいつが大人だったなら、と思わずにはいられない。
「出番だ。行け」
何かを言おうと思ったが、今ではないとも思った。
ドラコーンに促され、ネリエは立ち上がる。
行こう。
自分の役目を果たすために。
演台に立つと、聴衆がよく見えた。
広場には天上人がぎっしりと詰まり、ネリエの言葉を待っていた。
眼前に拡声の呪具があった。
手にとって、民に向けて第一声を発する。
「最初に、この場に集まっていただいた皆さんに感謝の言葉を送らせてください。ありがとう。そして、どうか顔を上げてください」
民は戸惑いながらも顔を上げる。
皇族が丁寧な言葉を使ったことに、誰もが意外そうな顔をしていた。
おそらく、背後の皇族たちも同様だろう。
だが、目的は人々の不安を取り除き、協力を仰ぐことだ。
威圧的に振る舞う必要はない。
「私はネリエ。ネリエ・ワーラ・アングハリ。皇国第二皇女にして皇国軍最高議長を務めます。私がここへ立ったのは、皆さんに皇国に迫る危機についてお話するためです。
すでに帝都では様々な噂が流れていると聞き及んでいます。皆さんもさぞかし不安に思われていたことでしょう。ご存知の通り、今、皇国には危機が迫っています。
悪しき精霊の復活を目論む者がいたのです。
その者がなぜ悪しき精霊を蘇らせようとしているのか、事情はわかっていません。
しかし、マナロ戦記にも記される通り悪しき精霊は、私たちバサの民にとっては倒すべき敵です」
少しだけ嘘を混ぜ、ソテイラの話は伏せた。
「私たちは今、手を取り合って戦わなければなりません。
派閥の垣根を越え、手を取り合い、同じ目的のために行動を起こすべきなのです。
身分の高低も、氏族も、職業も。
今だけは不問とし、皆が一丸とならなければなりません。
そこにはもちろん、人間の皆さんも含まれます」
ざわり、と初めて場に動きがあった。
渡り廊下にいる上流天上人の一部が立ち上がる様子が見て取れた。
背後にいる皇族からも全く同じ気配を感じる。
人間への言及は予め提出した原稿には含まれていなかったためだろう。
「私たち天上人は、長らく人間を奴隷として使い、下等な種族として扱ってきました。
その歴史は長く天上人の皆さんは当然のことだと思っていることでしょう。
けれど、本当は天上人も人間も一つの種族でしかないのです。
かつては天上人と人間が対等に暮らしていた時代もあったといいます」
ざわめきは混乱につながる。
背後で皇族の何人かが立ち上がる。
本気で取り押さえるつもりかもしれない。
無理もない。
ネリエは今、それだけのことを言った。
帝政にとって、マナロ戦記に書かれることが正史だ。
皇族の、それもマナロの実子が、マナロ戦記を否定するなどあってはならない。
「あいつを黙らせろ! 皇女でも許されんぞ!」「皇族は何を考えているんだ!」「もはやバサを任せることなどできぬぞ!」
上流天上人から野次が飛んだ。
次第に声が大きくなり、罵倒に変わっていく。
一人が叫べば、感化された隣の者も叫べ始める。
やがて収拾がつかないほどの怒号となった。
ネリエはそのすべてを受け止める。
耳を澄ませ、内容を聞き取り、そして、反論する。
「人間を悪し様に語る声が聞こえますが、残念ながらあなた方は重要な事実を知らないのでしょう。
ここで話す予定はありませんでしたが、お伝えいたします。
我が父マナロは、炎の後継者に人間をお選びになりました。
今、青い炎は人間の手にあるのです」
「何を馬鹿な!! あの女、何を狂ったことを!!」
皇族の一人が衛兵を呼んだ。
すぐさまネリエを引きずり下ろすように命令する。
「無粋な真似はするな。余が許したのだ」
それをドラコーンが制した。
「ドラコーン様!? なぜ!?」
「余も父上は好いておらんかった。嘘がバレるのならば、小気味良い」
「そ、そんな理由で……!」
「座れ。見苦しいぞ」
この場において、最も力を持つのは皇帝たるドラコーンだ。
彼が命じた以上、誰もネリエを止めることはできない。
だから、ネリエは思う存分、言いたいことを口にする。
「人間が力を貸してくれぬ限り、もはや皇国に炎の加護はないのです。
数百年の統治で鼻高々となった者たちよ、身の程を知りなさい。
あなたたちは人間に守ってもらわなければ、もはや国を守ることもできないのです。
人間に守られることを厭う者は立ち上がりなさい。
そして、その足でラバナ山へ向かいなさい。
悪しき精霊があなた方を出迎えるでしょう。
あなた方が悪しき精霊の復活を阻止できたのなら、私は頭を垂れてその功績を讃えましょう」
だったらやってやる。
そんな声が聞こえた。
同調する声も多い。
上流天上人が続々と席を立ち、退場していく。
一方、下に集まった中流以下の天上人に動きはなかった。
いかに荒唐無稽なことを言ってもネリエは皇族だ。
逆らうだけの勇気がないのだろう。
「厳しい言葉を使いましたが、私はただ人間と天上人が共にあることを願うだけです。
今日まで私は人間と共に長くの時間を過ごしてきました。
その時間は私にとってとても貴重なものでした。
その時間があったからこそ、今の私があるのだと思います。
どうか私の言葉に賛同をしてくれるのなら、共に戦いましょう。
私はあなた方の協力を待っています」
そこでしばらくの間を空けた。
あるのは静寂。
熱狂に包まれる声も、ネリエを称える声もなかった。
戸惑い。
中途半端な感情が場を支配し、人々から声を奪っていた。
時期が早すぎた自覚はある。
だが、天上人が人間に慣れるのを待つ時間もなかった。
人間は彼らの思うような下等な種族ではない。
共に歩ける友人なのだ。
どうしたら伝えられるだろう。
どうしたら彼らは理解するのだろう。
言葉は無力だ。
それでも、語らねばならない。
皇女として。
「最後にお世話になった方々へのお礼を述べさせてください。
人間王ジン、カル、ヒヌカ、スグリ、セイジ、ミキ、そして、多くの奴隷たち。
あなた方に感謝を。
皇女としての私を支えてくれた、カナン様、ドラコーン様には最大限の敬意を。
そして、私の友人として派閥を切り盛りしてくれたマーカ様、メリリ様には親愛の情を。
皇国に精霊の導きと加護があらんことを。ネリエ・ワーラ・アングハリ」
言うべきことはすべて言った。
振り返ると、つまらなそうなドラコーンが目に入った。
その背後には、御三家の留守居が並ぶ。
顔を見るだけで心中が推し量れた。
散々に皇族の権威を貶めたのだ。
ネリエ廃嫡論ならまだマシで、拷問の末に死刑という話も出そうだ。
実際、彼らはそれくらいの顔をしていた。
今はドラコーンがいるから襲いかかってこないだけで。
幸いカナンの姿はなかった。
が、長々と説教されるのは間違いないだろう。
あるいは、今度こそ見放されるか。
すべて覚悟はできていた。
自分はやれることをやった。
今回の作戦にジンの力は必須だ。
なくてはならない存在なのだ。
それを疎むような者は仲間になれない。
ひょっとしたら救われる価値もない。
皇女にあるまじき思考だが、それがネリエの選んだ道だ。
滅ぶのが嫌なら人間の手を取るしかない。
そういうふうに道をしぼった。
皇国は今、試されているのだ。
人間と手を取り合えるか。
それとも、滅ぶのか。
はたまた無関心や敵前逃亡、革命という手立てもある。
第三の道を選ぶ愚者ばかりでないと信じたい。
もし皇国がそうだったのなら、そのときは諦めよう。
けれど、民は必ず変わるはずだ。
ネリエはそう信じた。
信じたから、民にすべてを話した。
だから、ネリエは少しも後悔していなかった。