36 経典9
†
頁をめくる。
†マナロ†
俺はこの記録をテダの墓前で書いている。
この墓が誰のものであるか、知る者はもはやいない。
バサ皇国を興して二百年が経っていた。
俺には未だ寿命が訪れない。
我が子が先に老衰する。
その様を見るのにも慣れた。
俺はいつ死ねるのだろうか。
いつまで空虚な世界で生きていけばよいのか。
退屈な日々に飽きると、俺はこうしてテダの墓を訪ねる。
酒を墓に注ぎ、記憶の中のテダと語らう。
科学を制御できなかった人間は確かに悪だった。
だが、悪を許したのは、ミンダナが自由すぎたためだと俺は思う。
優しさと自由は罪だ。
王が優しいからこそ、民が力をつけ、国が発展する。
発展などいらぬのだ。
霊術は科学に匹敵する力だ。
俺はこの力を制御すべきと考えた。
力を自由に使わせず、発展を阻害してきた。
治世としては正しかった。
だが、俺は次第に疑問を抱くようになっていた。
人間がいつになっても奴隷のままなのだ。
百年ほど前、テダの子孫と会った。
一目見て、それと知れた。
その者があまりにもテダに似ていたためだ。
どうやら彼の子孫は、密やかに生きていたようだ。
最後の王を手に掛けたのは俺だが、……実を言うと嬉しかった。
声をかけようかとも思った。
しかし、俺にはできなかった。
皇帝と奴隷はあまりにも地位がかけ離れていたためだ。
いつか酒を酌み交わす日がくればいい。
そう思った。
だが、それは都合のよい考えだった。
人間を奴隷に貶めたのは俺自身だ。
気持ちが変わったと言って、許されるはずがない。
後悔の念が突如として俺を苛んだ。
俺は何をしていたのか。
なぜ人間を守ってやらなかったのか。
科学だけを奪う方法は本当になかったのか。
テダや最後の王は諦めていた。
俺自身もミンダナとの戦いで疲弊していた。
だから、ろくに考えもせずに人間を滅ぼすしかないのだと思ってしまった。
俺は……、今でも戦争が嫌いだ。
戦争とは、つまり、他者を力で従わせることだ。
天上人と人間の関係がまさにそれだった。
奴隷という制度を始めておきながら、俺はこの制度に嫌気が差していた。
だが、今の俺には人間を救えなかった。
俺は皇帝だ。
役に縛られていた。
俺が何かを言えば、周囲の者は命令と捉える。
命令で人間が自由になったとして、どうして俺とまた酒が呑めるようになるだろう。
人間に自由を与えるには力のない者が努力し、そこにいる者を納得させるべきなのだ。
いつか俺を継ぐ者が現れる。
俺はそいつに期待することにした。
都合のよすぎる願いかも知れぬ。
しかし、俺にはそうすることしかできなかった。
この書を手にした者は、俺の子孫であるはずだ。
現状をどう思うか、気持ちを語り合ってみたい。
そして、もし俺に同情してくれるのであれば、どうか俺の願いを叶えて欲しい。
同時にそれがお前の夢であることを祈る。
無理を強いるつもりはない。
お前が俺の夢をついでくれるなら、俺は僥倖に思う。
それだけの話なのだ。
長らく書きすぎた。
この辺りで筆を置こう。
そして、俺は祈ることに専念しよう。
今の俺にできることは、それしかないのだから。
†ネリエ†
経典を読み終えて、ネリエは深く息を吐いた。
生前のマナロと話したことは数えるほどしかなかった。
いずれも恐ろしいという印象しかなかった。
でも、今は違う。
恐ろしいだけの存在から、苦悩する父の姿に変わっていた。
会って話をしたい。
叶わないと知っていても願ってしまう。
どんな気持ちでマナロが千年を生きたか。
未来をどうすべきか。
語りたいことは無数にあった。
忌まわしき記憶が形を変えていく。
離宮に閉じ込められ、人間の家庭教師をつけられた。
当時は泣きながら恨んだ。
今は感謝をしたい。
「ありがとう、お父様……」
経典を抱きしめる。
込められたマナロの意志を感じた。
自分が何のためにここにいるか、なぜこの書を手にとるべきだったか。
カナンの差配も感謝したい。
彼女はわかっていたのだ。
権力では何も変わらない、と。
マナロですら自身の立ち位置では難しいと諦めていた。
人間を本当に自由にしたいのなら権力に頼るべきではない、と。
ネリエはまだ、それが理解できる境地に達していない。
経験が足りないのだ。
故にどうすればよいか方法は思いつかない。
けれど、きっとなんとかしてみせる、という気概だけはあった。
気持ちを受け継いだのだから。
「……あとは私にお任せください」
薄っすらと滲んだ涙を拭う。
マナロの最後の言葉を反芻する。
『どうか俺の願いを叶えて欲しい。そして、それがお前の夢であることを祈る』
そして、違和感に気づく。
先程まで自分が読んでいた頁を開く。
……そこは最後の頁ではなかった。
まだ経典には続きがあった。
頁をめくる。
新たな一文が目に飛び込んでくる。
『獣人と人間の正しいあり方とはなにか?
あるとき俺はそうしたことを考えるようになった。
きっかけは皮肉にも吟遊詩人が作り上げたマナロ戦記だ。
獣人と人間。
それぞれはどういった歴史を歩んできたのか。
俺は唐突に気になり、歴史を紐解こうと決意した。
そして、一つの事実を発見した。
それをここに記そうと思う』