32 経典5
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†マナロ†
ヤヤ―の報告は衝撃だった。
彼が言うには、悪しき精霊はすでにルーベ大陸を滅ぼしたのだという。
「……馬鹿な。四十年しか経っていないのだぞ!」
「ですが、確かにそのように申しておりました」
「一体、誰が!?」
「わかりませぬ、心の中に直接語りかけてきたのです……」
ヤヤーは啓示を受けたのだという。
何者かが心に語りかけ、ルーベ大陸の状況を伝えた。
信じられぬことだった。
だが、信じなければならなかった。
ここ数年、ショーグナ全土で田畑の実りが減じていたためだ。
天候不順も続いた。
夏に雪が降り、秋に桜が咲いた。
何か恐ろしいことが起こる前触れを俺自身が感じていた。
悪しき精霊がこの地に……。
戦争が得意だった兄たちを退けた者がここへ。
勝てる見込みなどなかった。
逃げるべきだ。
だが、どこへ?
ショーグナは東の果ての大陸だ。
そこより先に陸地はない。
ルーベ大陸やラーノ大陸へ戻るのか。
悪しき精霊に蹂躙された土地へ。
「この件、考える時間をくれないか。結論を急ぎたくない」
一人での判断は無理だと悟った俺はテダに相談することとした。
彼ならば、よい案を思いつくだろうと思ったのだ。
ところが、それは叶わなかった。
「……実はもう一つ、お伝えしなければならないことが」
ヤヤ―は重苦しい口調で語った。
そこで紡がれた言葉は、俺の一生を変えた。
彼がその言葉を俺ではなく、別の者に放ったのであれば、この先、俺のあり方は大きく変わっただろう。
彼はこう言った。
「青い龍の姿をした精霊より託宣がございました。明日の夜明けまでラバナ山頂にて、龍人王と十二名の武人を待つ、とのこと」
ヤヤーに託宣を与えたのは炎の精霊だった。
なぜ俺が選ばれたのか。
今に至っても、理由はわからない。
戦うことにおいて、俺は兄に大きく劣っていた。
精霊が選ぶのであれば、兄たちの方がふさわしかった。
もっと言えば、炎の精霊はルーベ大陸が滅ぶ前に現れるべきだった。
当時から幾度となく考えてきたことだ。
意味はないとわかっていた。
しかし、考えてしまうのだ。
精霊の御心を推し量ることなど不可能だというのに。
俺は迷った末に、託宣の通りに行動した。
十二名の武人を探し出し、ラバナ山へ向かったのだった。
武人たちは様々な背景を持っていた。
俺と共に船に乗った者、ラーノ大陸から逃げてきた者。
種族も言語も違っていた。
共通点は、その日、十二人の武人が俺の町に滞在していたことだ。
彼らを説得し、山へ登らせるのは大変だった。
なんとなれば、元々敵国だった者同士が混じっていた。
隙を見れば争う彼らをなだめながら、俺たちは山を登った。
そして、山頂。
夜明け前の山には、見たこともない景色が広がっていた。
地平線が見えない。
世界の境界が曖昧だった。
靄のかかったような視界には、多くの光と、植物が溢れていた。
あるいはそれは精霊界の景色だったのかもしれない。
やがて炎の精霊が現れる。
それは大きな青い龍だった。
焦点を合わせようとすると途端にぼやけてしまい、姿を見ることがうまくできなかった。
精霊の名に恥じぬ重圧だけが満ちていた。
龍は無から盃を生み出した。
自らの爪で翼を傷つけると、鮮血を盃に注いだ。
盃を与えられたとき、俺には何をすべきかがわかっていた。
夢を見ているような心地のまま、盃に口をつける。
唇がしびれ、一口飲むほどに、腹の底が熱くなっていった。
自身が別のものに変質していくような感覚があった。
血を飲み干し、俺は龍を見上げた。
そして、脳裏に浮かび上がる様々な疑問をぶつけた。
なぜ血を分け与えるのか。
俺たちに何を望むのか。
なぜもっと早くに現れなかったのか。
悪しき精霊とは何か。
炎の精霊はすべての問に答えなかった。
悪しき精霊を倒すこと。
そのために血を与えること。
二点しか回答はなかった。
のちの時代で伝記が作られるなら、この部分をどう書くのか詩人は悩むだろう。
当時の俺はそんな皮肉を思い浮かべていた。
血を飲んで数日後、俺は霊術を会得した。
当時は霊術の行使に儀式や触媒が必要だったため、念じるだけで力が使えるのは画期的だった。
そのことに少なからず興奮を覚えたが、俺の血を飲んで同様に力に目覚めた十二人の武人に比べれば、微々たるものだっただろう。
繰り返すが、俺は戦争が嫌いだ。
炎の精霊の登場は別の効果をもたらした。
悪しき精霊のショーグナ襲来が確実なものとみなされたのだ。
海岸沿いの少国家たちと連携し、戦う方針で決まった。
俺はテダにも声をかけ、協力を仰いだ。
人間の科学力は戦争において何よりも強力な武器となるためだ。
テダは最初、託宣というものを信じなかった。
青い炎を見せ、精霊の存在を説明すると、やっと認めてくれた。
テダの参戦により、軍備は何倍もの力を得た。
非軍事用とは言え、アンドロイドは死を恐れぬ兵士だし、テダの召喚獣は強大だった。
問題は少国家群の方にあった。
集められた十二人の武人は自らの氏族を中心に軍を編成した。
ここで元来、敵同士だった者たちの衝突が相次いだのだ。
特にラーノ大陸から来た犬と獅子は隣り合う国家の出自だけに、顔を合わせれば険悪な空気を漂わせた。
共通の敵を前にしても団結ができない。
あまりの愚かさに俺は呆れてしまった。
彼らには人質を交換するように命じ、無理にでも共闘関係を取らせた。
この頃になると、俺は炎を多用するようになっていた。
強敵が間もなく上陸する。
そんな状況では、誰かのワガママや矜持を許すわけにはいかないからだ。
俺の意に従わぬ者がいると、そいつを炎で脅した。
好きでやっているわけではない。
しかし、時間がなかった。
ヤヤーは上陸の日付さえ予言していた。
その日に向け、俺たちは一つにならねばならなかった。
個人の不満を聞いてやる余裕はなかった。
力で押さえつけ、ようやく一つになる程度の軍隊だ。
炎の精霊がなぜこの十二種族を選んだのか、俺は理解に苦しんだ。
それでも、軍の練度を上げるべく、日々鍛錬を課した。
そして、運命の日がやってきた。
その日、悪しき精霊がショーグナに上陸したのだ。