25 皇帝
†ドラコーン†
その日、ドラコーンの姿は中庭にあった。
春になれば花が咲き、夏になれば緑が繁茂し、秋になれば紅葉が目に眩しい。
冬であっても降り積もった雪が輝く。
四季の美しさを表現された庭だが、ドラコーンはもっぱら耽美的な用途に使っていた。
「ドラコーン様……?」
上裸にされた女がドラコーンの顔を覗き込む。
寒空の下、外でやりたいと言い出したのはドラコーンだ。
脱がされた方も放置されるとは思わず、困惑していた。
「もうよい。下がれ」
「え……、かしこまりました……」
女は半泣きで身繕いをし、城へ戻った。
不興を買ったと勘違いしたわけだが、……ドラコーンに気遣う余裕はなかった。
「何だあれは……。まるで違うではないか」
あの女は美しい。
そう思っていた。
……しかし、ネリエと比べると精彩を欠く。
踊り子として現れたネリエは別格だった。
大きく張り出した胸、恐ろしいほどにくびれた腰。
布から覗く太もも……。
最初こそ欲に呑まれたが……、あとから湧いた感情は驚愕だった。
人の体とはかくも美しくなるものか。
ドラコーンの側室はいずれも貴族として育った女たちだ。
太り肥えた者しかいないのだから、そこに疑問を持つ余地はなかった。
だが、鍛えられた体を見てしまったら、満足はできない。
ネリエを抱きたい。
服従させたい。
泣きながら許しを請うまで……。
そんな妄想を幾日も続けた。
まるで満たされない日々だった。
そして、今日、ネリエはドラコーンを蔑んだ。
あの目は、……かつてマナロに向けられた目と同じ。
お前になど期待はしない、という意思表示だった。
思い返すだけで腹が立つ。
ネリエを無茶苦茶にしてやりたくなる。
しかし、ドラコーンは実行に移せずにいた。
ネリエの言葉が母に似ていたからだ。
ドラコーンは女に叱られた経験が人生で一度だけある。
十歳の頃、初めて女から口移しで酒を呑まされた。
マンダに進められた女酒だが、母はそれを叱った。
人の上に立つ者のすることではない、と。
穢らわしい、と。
今でもよく覚えている。
病弱な母は常にドラコーンの味方だった。
厳しい言葉を向けられたのは、あの一度だけだ。
母はその半年後に亡くなり、真意は聞けずじまいだった。
マンダは羨ましかったのでしょう、とはぐらかした。
当時は納得していたが、……今になって思う。
あれは愛の裏返しだったのではないか。
ドラコーンが道を誤ったから、母は正そうとしたのではないか。
”叱る”とは、そのような行為ではないのか。
ネリエの言葉で、それに気づいた。
あれは美しいだけの女ではない。
父にも母にも似た存在。
故にドラコーンはどう向き合うべきか迷っていた。
当然、マンダには相談した。
だが、彼は気の迷いだ、殺せばいいのだ、と言うばかり。
真剣に話を聞いてくれない。
マンダはいつもそうだ。
一度だって真面目だったことはない。
ドラコーンから都合のよい命令を引き出そうと甘い言葉を並べるばかりだ。
……どう対処すべきか。
ドラコーンは初めて宰相に頼らず、考え始めた。
そうだ。自分で考えるべきだ。
ネリエにできて、……自分にできぬはずがないのだ。
「人間をですか?」
「そうだ。連れてこい。マンダには秘密でな」
「……かしこまりました」
仔細は問わず、御庭番は部屋を辞した。
彼らは蛇龍より派遣されたドラコーンの護衛だ。
唯一、マンダの息がかからない手勢である。
彼らを使い、ドラコーンは人間を呼ぶことにした。
ネリエがあれ程に庇う存在とは何か?
会ったこともないくせに、と誹謗するのなら会えばいいのだ。
穢れと言われてはいるが、ネリエは人間と関与しても美しさを失っていない。
なら、皇帝たる自分も同様に無事なはず……。
……と自分に言い聞かせるが、恐れが無いわけではなかった。
人間は醜悪で、無知で、汚らしい命。
視界に入ってしまえば、穢れが移る。
そう聞かされて育った。
逆に人間が皇帝を直視してしまうと、神々しさのあまり蒸発するとも言われていた。
悶々とした日を過ごし、ある日、御庭番が人間を連れてきた。
ヒヌカという名の女だ。
ネリエがカナンの屋敷に連れ込んだという人間。
どうせ会うならそれがいいと御庭番に探させていた。
てっきり担ぎ込まれるのかと思ったが、人間は自らの足で部屋へ入った。
一応、暴れたときのために両手を縛られているが、それだけだ。
「ほぅ……、美しいな」
初見の感想はそれだ。
愛らしい瞳に白磁のような肌。
ネリエを美しいと表現するなら、この人間は可愛らしいと言える。
外見だけなら側室に入れてもいい。
何をどう思えば、これを穢れと呼べるのか。
「縄を解け」
「はっ」
御庭番が人間の縄を解く。
彼女は縛られた手を痛そうにさすっていた。
「人間、服を脱いでみろ」
ドラコーンは命じる。
厚手の着物越しでは体が見えない。
見るには脱がせるしかない。
しかし、人間はこれを断った。
「どのような用件で連れてこられたのかもわからないのに、いきなり脱げとは不躾ではありませんか?」
「……」
毅然とした態度に気圧される。
断られた。
奴隷に。
命令を。
さすがに頭が混乱した。
「あなたはどなたなのですか?」
「……」
名を問われた。
自分を知らない者が存在する。
それもまた大きな衝撃だった。
「無知で穢れた存在とは聞いていたが…………。余を知らぬとは呆れたな、人間」
ドラコーンが口を開くと、人間は驚いたように視線を上げ、
「その言い方……。まさか皇帝、ですか?」
「いかにも。皇帝ドラコーンとは余のことだ」
「ネリエさんからお話は聞いています」
「ふむ、どのように申しておった」
「弟だと。それ以外はあまり……」
マンダなら百の世辞を述べるところだが、人間は言葉を濁す。
「質問してもよろしいですか?」
「許す」
人間は疑問を口にした。
「なぜわたしをここに連れてきたのですか?」
「そうだな……」
強いて言えば、人間を観察するのが目的だった。
観察して、どうするかは決めていない。
ネリエに言われ、勢いで実行しただけだ。
「聞いていたものとは違うとわかった」
「どのように異なるかお聞きしても?」
「ふむ……」
人間を改めて見つめる。
外見は思った以上に美しい。
無知ではあるが、そこそこの作法を身に着けている。
「総じてよい印象を持った」
「それは嬉しいお言葉です」
人間は微笑む。
悪意のない笑みだった。
その点もドラコーンには好ましかった。
ドラコーンの周りにいる者は、こんな笑みを浮かべはしない。
皇帝に近づく者など誰しも腹に作為を抱えているからだ。
「人間、余は貴様を気に入ったぞ。その笑み、実によい」
「あはは、嬉しいです」
「うむ、余の妾にてやろう」
報奨のつもりで言った。
なぜなら、皇帝の側室は女が得うる最上の栄誉だからだ。
「申し訳ありませんが、夫がいますので」
しかし、人間はこれを断った。
想定外だった。
「こ、断るのか……!? 余の申し出を!?」
「わたしは人間王のものですから」
「に、人間王……。なんだそれは!?」
「ご存じないのですか?」
聞いたことはある。
マンダより報告は受けていた。
地方領主の管理の甘さ故に人間がのさばった、と。
暴虐の限りを尽くす獣だ、と。
「少しお話させてください」
人間は語った。
人間王と呼ばれる者が何をしたか。
何を思ったか。
……そして、天上人が人間に何をしてきたか。
人間王は青い炎を手にして、次々と悪者を倒していった。
国を作り、敵を退け、炎の加護を与えた。
語られる英雄譚にドラコーンは耳を傾ける。
耳に心地よくはあるが、……登場する悪役はいずれも天上人だった。
はたと気づき、気分が悪くなる。
しかも、人間王は青い炎を持つという。
マナロの炎は即位してもドラコーンに宿らなかった。
人間に宿るなど、度し難い。
「その炎は余の者ぞ。返してもらう」
半ば意地悪のつもりで言った。
人間は慌てる様子もなく淡々と答えた。
「霊術のやり取りはできないと聞いていますけれど……」
「知らぬ。なんとかせよ」
「わたしに命じても、何もできませんよ」
「貴様……」
またしても命令を拒む。
人間の分際で皇帝に逆らう。
あってはならないことだった。
しかし、無礼であること以上に、”願いが聞き遂げられないこと”への怒りが募った。
ドラコーンに叶えられぬ望みはなかった。
口にすれば、誰かが気を利かせる。
それが当たり前だったのだ。
願いが叶えられない状況に心が拒否を示す。
怒りばかりが先行する。
「ネリエといい人間といい……、なぜ言うことを聞かぬ!? 余が皇帝ぞ!」
「皇帝であっても、違う国の者には命令はできないんですよ。お願いという形で話してください。わたしたちは、あなたと対等に話したいんです」
「もうよい! おい、こやつを元の場所へ戻してこい! 不愉快だ!」
御庭番に命じて、人間を退出させる。
「クソっ!」
あの人間はなんなのか。
生意気で、言うことを聞かない。
自分を誰だと思っているのか。
皇帝だぞ。
「……ネリエも、人間も、今に後悔させてやる!」
ドラコーンは感情を持て余し、……畳を踏みつける。
思い通りにならぬ他者はマナロ以来だ。
ただ気に入らない。
『あたしは人間を救うために皇位が欲しい。あんたは?』
『わたしたちは、あなたと対等に話したいんです』
なのに、二人の言葉が頭から離れない。
それがまた悔しくて、とにかく嫌な思いをさせてやりたい。
そんな気持ちで満たされるのだった……。