58 一本の道6
いつしか日は傾き、夕暮れの時間帯となっていた。
薄暮の空に領主の剣はよく映えた。
光が空を切り、ついでにジンの立っていた空間も切る。
――――目をつむれ。それ以上見たら目が潰れてしまう。
頭の奥がじわじわと痛み、そんな命令を出してくる。
だが、眩しさに負ければ、そのときが最後だ。
剣を見続けなければ、避けることができなくなる。
一体、いつから戦っていたのか。
時間の感覚が曖昧だった。
迫りくる光の剣を捌き、また、捌き、ただ防戦に徹している。
戦況は拮抗していた。
呪いを受けた身でありながら、領主は着実にジンを追い詰めている。
一つ弾き飛ばすたびに、避けきれなかった刃に斬られる。
同時に領主は呪いの傷から血を流してもいた。
庭のあちこちに血の跡が点々としてる。
どちらが流した血なのかもわからない。
領主が手を休める様子はなかった。
まるで我慢比べのように攻撃を繰り出してくる。
領主の必死の形相には、恥も外聞もなかった。
ただ、覚悟と決意がある。
背負ったものの重さが剣に乗る。
しかし、呪いは着実に領主を蝕んでいた……。
一際大きな突きを放ったあと、領主が膝をついた。
胸の出血が激しくなり、鎧の隙間から恐ろしいほどの血が流れた。
決闘であったなら致命的な隙だった。
今なら確実に倒せた。
わかっていてジンは引いた。
「なぜ距離を取った、人間王!?」
「……」
「情けをかけられる覚えなどない! これは決闘だぞ!?」
「かけられたくなかったら、呪いを治してから出直してこい!」
「そんな時間はない! 今、どちらかが死なねばならんのだ!」
「知るか! 俺は手負いのお前とは戦いたくねぇ!!」
一度は覚悟を決めたはずだった。
短期決戦に持ち込み楽に死なせてやろうと。
そんなことを思った。
だが、炎を使うたびに迷いがよぎる。
誰かがやめろと言っている気がする。
……なんでこうなったのか
どんな意味があるのか。
いつまでも考えてしまう。
業を煮やした領主が、剣を鞘に収めた。
「人間王、一ついいことを教えてやろう」
「何だ?」
「始皇帝の炎は、”森羅万象あらゆる物を焼き尽くす”炎だ。意味をわかっているか?」
「……そんなのは初めて聞いた。何の話だ?」
「人間王が認識できるものなら、何であれ燃やせるのだ。それは物でなくてもいい。”感情”や”時間”のような概念も対象となる」
霊術をかき消す力があるのは知っていた。
他の力までは知らなかった。
何でも燃やせる。
……そういう力だったのか。
いや待て。
「なんで、それを教えるんだ?」
「情けをかけられた分を返すためだ。これで対等だ。戦わぬ理由はないな?」
「お前は……」
自分が死にそうだというのに、なぜ敵に助言をするのか。
借りを返すも何も、今のは自分が勝手に日和っただけなのに。
「それが天上人としての誇りだからだ」
誇り……。
天上人の誇り。
形は違えど、シヌガーリン親子にも矜持があった。
殺されることも、殺すことも恐れない。
それこそが天上人のあり方。
今、やっと理解した気がする。
「……お前、余計なことを教えたな。後悔するぞ?」
ジンは左手をかざす。
炎を細く伸ばし、握りつぶす。
一瞬で、領主との距離が零になる。
「……ぬぅ!? ”距離”を焼いたのか!?」
「なるほど、これは便利だな……!」
領主の鎧に拳を撃ち込む。
炎をまとった一撃だ。
その炎は霊術を弾き返す鎧を焼き、領主に直撃する。
「…………見事だ……」
領主が膝をつく。
鎧を貫通され、呪いの傷口を打ち抜いた。
よほどの運がなければ致命傷だ。
……無論、殺意があればの話だが。
ジンが焼いたのは領主の鎧ではない。
その奥にある別のものだ。
領主はしばらく庭に倒れていた。
しかし、異変に気づいて、傷口に手を伸ばす。
「こ、これは、」
「やっと気づいたか。何でも燃やせるってのは本当らしいな?」
「き、貴様……!」
「動きやすくなっただろ?」
「呪いを焼くとはどういう了見だ!?」
「どうもこうもあるかよ。これで対等だ。借りは返したぞ」
「…………食えぬ男め。どうせなら勅命も焼いてくれればいいものを」
「なんだそれは」
「何でもない。どうにもならぬ、呪いのようなものだ。天上人である以上、逆らえぬな」
領主は憎々しげに言う。
皇帝の命令……、それが戦いの理由だった。
だが、そんなものはどうにもならない。
人間のジンには覆しようがない。
「興が削がれたな。仕切り直しといこう」
領主が立ち上がる。
無言のまま距離を詰めてくる。
応じるようにジンも歩を進めた。
間合い刀一本分になり、二人は同時に動いた。
領主が振り上げた剣をジンは炎を使って弾こうとする。
これを読んだ領主は剣を手放し、無造作に左手を振るう。
獅子の爪はそれ自体が凶器だ。
まともに受ければ致命傷なのは間違いなく、ジンはかわすしかない。
しゃがんだところに真上から頭突きが落ちてくる。
違った。
牙だ。
ジンの頭があった場所で、ガチン、という音がする。
「お、お前、俺を食おうとしたな!?」
「獅子を相手に何を言うか。爪も牙も、すべてが武器だ」
領主は悠然と剣を拾う。
中段に構え、踏み込んでくる。
今までの動きが何だったのかと言うほどに速い。
ジンも巫霊ノ舞で追いすがる。
双方ともに距離を取らない。
もはやそんなものに意味はないからだ。
牽制とは名ばかりの必殺技を放ち続ける。
炎と光はそれぞれ大出力の技だ。
先に日和って、出力を落とした方が負ける。
……距離が零だからこそ、必殺の瞬間まで耐えるのだ。
「呪いを解いたのは失敗だったなッ! あぁ、体が軽いッ! 今なら何をも倒せそうだ!」
「そういうのは勝ってから言えッ!」
身体能力だけ見れば、領主が圧倒的だった。
猿真似の巫霊ノ舞では出力が足りない。
その分、ジンはカルに叩き込まれた武術で領主を翻弄する。
足を払い、顎に掌底を叩き込む。
人間なら一撃で脳震盪を起こすはずだが、領主の体はびくともしない。
天上人は根底からして、体が丈夫過ぎる。
切り返しの拳がジンの頭上をかすめていく。
炎を纏った左を狙うが、領主は本命だけを的確に捌く。
そして、包丁を振り回すような手軽さで光の剣を繰り出してくる。
再度の激突。
双方の放った一撃が爆豪となって庭を埋め尽くす。
爆煙を消すために、領主が風を起こす。
無残な前庭が姿を見せ、嘘のような静寂が訪れた。
二人の間には、必要のない距離が空いていた。
意味のない距離。
詰めようと思えばどうとでもなる距離。
だが、二人は間合いを詰めない。
互いに互いの顔を見て、……同じことを考えていた。
こいつはもう、ろくに動けないのだ、と。
猿真似巫霊ノ舞は体に負荷をかけ過ぎた。
ジンは気合いだけで立っている。
領主は昨晩の火傷と疲労が蓄積していた。
呪いがなくとも限界なのだ。
終わりが近い。
どちらもそう思っていた。
引き伸ばすだけ引き伸ばしたが……、その時間も終わりだ。
ここから先は武術ではない。
霊術で決着をつける。
一番強いのをぶつけて、立っていた方が勝ちだ。
……それが理解できるからこそ、ジンは迷う。
決着がつくということは、どちらかが死ぬということだ。
生き残るためには、領主を殺さねばならない。
「貴様と過ごした日々は実に充実していた! 感謝しよう!」
そんな状況なのに、領主はやはり笑っていた。
生まれてこの方、後悔などしたことがないのだろう。
晴れ晴れとした笑みだった。
……だから、嫌いになれないのだ。
「俺はお前に礼なんて言わねぇぞ! お前は最悪だった!」
「わはは、嫌われたな!」
でも、やらなくてはいけない。
自分の肩には人間の未来が乗っているのだから。
だから、生きていて欲しいと心から願っていても、……やらねばならない。
左手に力を込める。
領主もまた剣を鞘に収める。
そして、居合の構えを取った。
次の一撃が最後だ。
これで決着がつく。
人間が奴隷に戻るか。
国を取るか。
その命運も決まってしまう。
たかが決闘で何もかもが決まる。
視界の隅でヒヌカが祈っていた。
スグリの安らかな寝顔が見える。
どうせすべてを守れないなら、最低限の者は守りたかった。
特段の合図はなかった。
両者は同時に踏み込む。
炎と光が衝突する。
炎を正しく使ったのなら、こんなものは端から勝負にすらならない。
光ごと燃やせば領主は跡形もなく消し飛ぶだろう。
だが、それで勝っても決闘としては二流だ。
純粋な”炎”でねじ伏せにかかる……!
行き場のない力が爆発となって発散される。
まばゆい光がほとばしる。
数度の爆轟が庭を埋める。
その爆炎に混じり、なお力を失わない”力”があった。
……残ったのは、炎だ。
遮るものを奪った炎は龍となって領主を呑み込む……。
けれど、手は緩めない。
”距離”を焼いて、領主の懐に潜り込む。
そして、”目に見えるすべて”を燃やすつもりで、左手に炎を握り込む。
必殺の間合い。
領主にこれを避ける術はなかった。
腹に思い切り叩き込む。
勝利を確信すると同時に、視界が滲むのに気づいた。
涙も鼻水も止まらない。
「いいやづだった……!! ありがどう……!!」
涙で顔をべちゃべちゃにしながら、拳を振り抜く。
カルに習った拳法で。
領主の体が宙に舞い……、地面へと叩きつけられる。
「ふ、ふははは、素晴らしい一撃だった……! 人間王、貴様の勝ちだ!」
領主は倒れたまま笑った。
もう全身はボロボロで生きているのが不思議なくらいだった。
鎧も剣もすでにない。
維持するだけの力がないのだ。
「さぁ殺せ! それで終わりだ!」
「俺の勝ちなんだから、もういいだろ!? お前の負けだ!」
「それではケジメがつかん。俺は領主として責任を果たさねばならん」
「逃げたら、俺は追いかけないッ!」
「皇帝が命じたのだ。俺は死ぬか、殺すか、二つしかなかった……。悔いはない」
領主が目を閉じる。
覚悟を決めているのだろう。
ここまで来て迷うのは弱さだ。
殺さねばならない。
それがこの戦いの終わり方だった。
決まっていたことだから、仕方がない。
一つだけ自分に約束しよう。
領主を殺したら、……領主を嵌めた奴らを倒しに行く。
そうでなければ、怒りが収まりそうにない。
心を無にする。
そうでなければ、気持ちが萎えてしまう。
――――誰か止めてくれ。
そんな声が聞こえてくる。
幻聴だ。
心の弱さが生んだ、幻に過ぎない。
ジンは剣を抜き、領主の首にそっと添える。
さぁ、振り上げて、振り下ろせばおしまいだ。
一撃で決めてやろう。
なるべく苦しまないように。
――――違う道が欲しかった。こんな未来は違うんだ。
頭の声を振り払う。
涙は拭わない。
泣いていることを自覚したくないから。
剣を振り上げる。
――――誰か、助けて。
†カル†
戦軍の半分が立ち上がらなくなった。
ハービーの配下も半分が動かなくなった。
それでも、戦いは終わらなかった。
ハービーは霊術を酷使し、剣術で挑んでくる。
身体能力の強化は単純に強力だった。
だが、奇しくもカルも似たような術を使えた。
巫霊ノ舞は精霊界の視点でもって、体の限界を超える。
純粋な白兵戦において、カルは天上人に少しも劣らなかった。
戦軍もよく戦っている。
電磁砲を撃ちながら移動を続ける。
不可視の砲弾は天上人を釘付けにする。
素晴らしい練度だった。
しかし、日が暮れると同時に戦軍は力を失う。
電力がなければ電磁砲は撃てない。
そして、太陽は山の端にかかっていた。
この辺りが限界だろう。
一人、また一人と戦軍が倒れていく。
数の差がついた時点で、趨勢は決した。
最後に残ったのは戦将の小隊だ。
状況が不利と見るや、電磁砲を捨て、刀を抜いて天上人に斬りかかる。
その勇ましさには神々しさすら感じる。
だから、今が頃合いなのだ。
カルは戦将と斬り結んでいた天上人を背後から倒す。
そして、戦将を背中で押した。
「何のつもりだ、近衛隊長ッ!?」
「天上人を相手によくやった! 君たちは零の名に恥じない戦いをした! そのことを誇っていい! ……だから、逃げ延びてこのことを里の皆に!」
「あんただけが死ぬつもりかッ!?」
「それしか生き残る道はないんだよッ!!」
「……またなのかよ…………。俺たちはまた、天上人から逃げるのかよ!?」
「生きるんだッ! そうして、また立ち直ればいい!」
かつての零は、……五百年前の零は、王城を守れずに敗走した。
王子だけを連れ、逃げたのだ。
そうして国が滅び、……何百年もの時が過ぎ、…………再び天上人と闘っている。
しかし、今度の戦も人間の負けだ。
何度戦っても、天上人には勝てないのかもしれない。
それでも、生きて、逃げて、もう一度戦わなければいけない。
勝つまで戦うことが、零の使命だから。
五百年前のあの日、陰の者はそう命じられたのだから。
「どうか、ご無事でッ、隊長……!」
戦軍が撤退を始める。
生き残った何人かを、カルは背中で守る。
彼らの無事を祈る。
そして、眼前の敵を見据えた。
ハービーが立っていた。
「天上人を相手によく戦いました。バサ皇国建国以来、ここまで天上人を追い詰めた人間はいなかったでしょう。あなたたちは、そのことを誇って構いません」
「……」
「仲間を思い、命を懸ける姿も立派です。……正直、私は人間を誤解していました。領主は、人間を正しく評価していたのかもしれません」
「……だったら、今からでも停戦ってのはどうかな?」
「残念ながら、できません。戦士であるのなら、散り際も鮮やかであってください」
ハービーの目に光はなかった。
押し殺した殺意が、何の前触れもなく解放される。
ハービーの剣が避けようのない角度から迫っている。
カルは短刀で受けるしかなかった。
その隙をついて、他の天上人が戦軍を追った。
追わせてはいけない。
カルは短刀の一本を投げ、一人を止める。
だが、それだけだった。
二人目以降は止められない。
追いすがろうとする。
が、ハービーが許すはずもなかった。
「あなたの相手は私ですよ」
背後から濃密な殺気が降ってくる。
残った短刀で受けるが、刀を止めるには至らない。
短剣を真っ二つにされ、振り抜かれた刀はカルの右肩を斬った。
更にはカルの足元にあった、石も斬った。
身体強化は本物だった。
そして、これが終わりのときだった。
肩を斬られ、武器を失った。
立ち上がることも、戦うこともできない。
ハービーは容赦なく、刀を振り上げる。
「さようなら」
もうダメだった。
さすがに抵抗の気力もなかった。
心残りは無数にある。
……ごめん、と心の中でジンに謝る。
そのときだった。
――――キン、と甲高い金属音が響いた。
「だ、誰ですかあなたは!?」
次いでハービーの叫び声。
……恐る恐る目を開けると、誰かがカルの前に立っていた。
その人物はカルの刀を弾き飛ばし、更には喉元に刀を突きつけていた。
ハービーのものとは異なる色の鎧。
見覚えのない背中。
尻尾が見える以上、天上人には違いないが……。
「この戦、私に預からせてもらう」
男の声だった。
心なしか領主の声に似ている。
「……どういうつもりで、」
「問答無用」
どこからともなく騎馬の音がした。
五十を超える騎馬隊だった。
彼らはハービーの配下を次々と取り囲んでいく。
†ハービー†
「な、何者ですか、あなたは……。ここがベルリカ領主の直轄地と知っての狼藉ですか!?」
ハービーは闖入者を怒鳴りつけた。
内心では凄まじい焦りがあった。
直轄地にやって来た軍勢。
となれば、当然、人間と領主を処分しに来た、分家の手勢に違いなかった。
そんな思い込みから、なんとかして帰らせねば、という気持ちが先に出た。
威圧的な態度もそこから来ていた。
怒鳴られた闖入者たちは馬を引かせ道を作る。
後ろから現れたのは、金色の鎧に身を包む男だった。
そいつが長なのは人目でわかった。
体が大きく、兜からは長いたてがみがはみ出ている。
「先祖の生まれ故郷を間違えるなどありはせぬ」
長が兜を外す。
獅子の天上人だった。
見覚えこそないが、どこか領主を思わせるような男だ。
「我が名はトゥービ・タンゴール」
長が名乗った。
ただのそれだけで、ハービーは剣を取り落とした。
「……な、なぜ、あなたが」
タンゴール家の歴史は古い。
古の時代、獅子氏族と犬氏族は互いに憎み合っていた。
事態を重く見たマナロは、争いを鎮めるために、序列第二位の家同士を交換させた。
犬氏族からはシヌガーリンが。
獅子氏族からはタンゴールが。
それぞれ人質として差し出された。
はるか昔の序列第二位。
ベルリカ家に次ぐ権威を持っていた獅子の一族。
それが、タンゴールなのだった。
そして、眼前の人物トゥービは当代のタンゴール家当主。
更には、もう一つの顔を持ち合わせていた。
十二天将トゥービ。
バサ皇国に十二枠しか存在しない序列第二位の天上人。
「じゅ、十二天将がなぜここに……? 皇帝の直属のはずです!」
あちこちから困惑の声が上がる。
ハービーの配下も、戦軍も。
誰もが状況を飲み込めていなかった。
トゥービは右手を上げ、群衆を黙らせる。
「氏族の長が窮地に陥ったとの報を受け馳せ参じた、……と言いたいが、此度は盃の誓に従い、参上した次第」
「さ、盃の誓……」
それは、もはや伝承だった。
その昔、始皇帝と十人の従者が交わしたという誓い……。
まさか現代にまで残っているとは、ハービーも思わなかった。
……いいや、違う。
始皇帝が今まで生きていたから、誓いを意識することがなかったのだ。
皇帝が代替わりした今、現皇帝が権力を行使したに違いない。
「……皇帝は、一体、何のつもりで…………」
「勘違いしているようだが、これは皇帝の命ではない」
「バカな!? 十二天将は皇帝の直属でしょう……!?」
「我らは前皇帝の直属であった。だが、今の皇帝には仕えておらぬ」
「……い、今の皇帝には仕えていない?」
なら、誰に……?
十二天将は真紅の盃の下に忠誠を誓った。
だから、忠誠を誓う相手は真紅の盃を受け継いだ者だ。
その理屈でいけば……、現皇帝は真紅の盃を所有していないことになる……。
なぜ?
即位したのなら始皇帝の持ち物はすべて継承されたはず……。
そう言えば、風の噂で真紅の盃が失われたと聞いたことがある。
いいや、そうだとしても、マナロの血族は現皇帝一人だ……。
他の皇子は死んでしまったはず。
「……一体、誰があなたを?」
いるはずがないのだ。
現皇帝は即位の前に継承権保持者を皆殺しにした。
表向きは自殺や事故死だが、為政者の間では公然の事実だった。
皇位継承権保持者は一人として残っていない。
だが、トゥービはさも当然のように言う。
「盃を受け継ぎし者はおられる」
「一体、誰なのですか?」
「自分で考えることだな。答えは見えているはずだ」
……見えている。
何を馬鹿な……。
そうは思うが、ハービーの頭は考え始める。
そして、半刻と経たずに答えを見つけた。
……一人だけ暗殺を逃れた継承権保持者がいる。
正確には遺体の見つかっていない者がいる。
ネリエ第二皇女。
前皇帝の側近ティグレ・マタリーニが誘拐の末に殺害したという皇女。
そして、継承権保持者の中で、唯一、遺体が確認されていない皇女。
ハービーの顔から生気が抜け落ちる。
あり得ない話だ。
だが、信じざるを得なかった。
「…………生きていたんですか……?」
消息不明の皇女が生きていた。
正統後継者の証である盃を携えて戻ってきた。
お伽噺のような展開に笑うしかない。
けれど、わからない。
なぜ第二皇女は十二天将をこの場に派遣したのか。
問うと、トゥービは面白くなさそうにたてがみをいじった。
「小競り合いを仲裁しろと頼まれただけだ」
「ちゅ、仲裁……!?」
「仔細は知らぬ。――――ただ、仲間のため、とおっしゃられた」
その言葉で隣りにいたカルが目を見開いた。
……ハービーには全く見に覚えのない言葉だ。
だが、彼にはわかるようだった。
「……ありがとう、エリカ」
†
ジンは刀を振り下ろした。
いや、振り下ろしたつもりだった。
刃を誰かに握られていた。
エリカだった。
「お前……」
いや、そいつはエリカに見えて、エリカではなかった。
まず、頭に角がある。
ヤギとも牛とも違う二本の角だ。
それに手には長い爪があるし、背中には羽と尻尾まで生えていた。
スグリの耳と尻尾とは違い、随分とできがいい。
つい角に触ってしまう。
なめらかな質感とひんやりした感触。
「これ、本物か……?」
「もちろん」
エリカは笑う。
そして、言った。
「三人の中に天上人がいたのは、あなたも知ってたでしょう?」
「……なっ。じゃ、じゃあ、お前が……!」
「そう、あたしが天上人だったわけ」
エリカは悪びれる様子もなく言った。
唐突すぎて、言葉が出ない。
お前のせいでどれだけ頭を痛めたか。
文句は無数にあった。
あるが、何一つ言葉にならない。
「誰かいるのか?」
横になっていた領主が目を開けた。
そして、頭上に立つエリカを見て、
「な、な、な……」
口から泡を吹いていた。
「な、なぜ龍人がここに……」
満身創痍にもかかわらず領主は無理をして起き上がる。
そして、地面に平伏した。
領主をして、最大限の礼をとらねばならない相手だからだ。
「偉いのか……?」
「無論だ。この方は龍の天上人だ」
聞くと、領主はそう答えた。
龍。
物語に出てくる伝説の生物だ。
そして、天上人にも龍の種族が存在する。
龍氏族は御三家と始皇帝マナロの血筋しか存在しない。
つまり、バサ皇国において、最も皇帝に近しい種族なのだ。
「それが何で人間になってたんだ?」
「命を狙う者から隠れる必要がありました。今までは元に戻る方法もありませんでしたが、つい先程、解呪の手段がもたらされました」
エリカは語る。
普段とまるで違う口調だ。
それだけで別人のように見えてくる。
「何故、戻られたのですか?」
「あなた方の無益な戦いを止めるためです」
「そ、そんなことのために……。何と申し上げればよいのか……」
「そう思うのであれば、この場は私に免じて剣を納めてはいただけませんか?」
エリカはジンと領主を交互に見やる。
「龍がどれくらい偉いのかは知らないし、俺には関係ない。でも、やめろと言うのならやめてやる」
「あなたは相変わらずですね……。ベルリカ領主は?」
「……恐れながら此度の決闘は皇帝陛下の命によるもの。いかに御三家の方とは言え、止めることはかなわぬかと」
領主は歯を食いしばって言う。
皇帝の命令というのは、それだけ重いのだろう。
……エリカは偉いらしいが、止められるほどではない。
「私は御三家ではありませんよ」
「御三家ではない……?」
龍氏族には皇帝と御三家しかいない。
御三家でないなら……。
いや、それは変な話だ。
今の皇帝は別にいるはず。
じゃあ、目の前にいるのは……。
「私は元々、第二皇女です。そして、今でも第二皇女だと考えています」
領主は露骨に驚いていた。
顔色が青を通り越して白くなっていた。
「だ、第二皇女……。生きていらっしゃったのですか……」
第二皇女は政変で死んだ、と伝えられる。
生きていたことは驚きだ。
エリカがその皇女だったことも。
……だが、皇女では皇帝の命令は覆せない。
いや、それよりも。
「今もまだ第二皇女とおっしゃられるのは、一体……?」
「私はマナロより真紅の盃を託されています」
「な、なんですって!?」
真紅の盃。
以前に領主から話を聞いたことがある。
行方不明となっていたはずだ。
見つけようと考えていたが、エリカに託されていたのだ……。
「故にそれを託された私こそが、正当なる後継者なのですよ」
エリカは言う。
バサ皇国では、皇帝の命令は絶対の力を持つ。
それを覆せる者はない、と。
だが、皇帝という存在そのものが覆されてしまったらどうなるか?
その場に皇女が不在であったというだけで即位したドラコーンの皇位は偽りだ。
偽りの皇帝であるなら、言葉は法になどならない。
法となる言葉を放てるのは皇位を担う正当なる者のみ。
真紅の盃を継承した者だ。
「それこそが、この私なのです。ベルリカ領主がナグババ・ベルリカよ。――――それでも、まだ聞けぬと言うのですか?」
領主に逆らうという選択肢はなかった。
なぜなら、エリカの言葉こそが、真実に法となる言葉だからだ。
皇帝の命には呪いがあった。
それがある限り、ジンと領主は、どちらかが死ななければならなかった。
だが、その呪いは、たった今、解かれた。
エリカの手によって。
……本当の皇位継承者によって。
「こんな奇跡があろうとは……、これが精霊のお導きなのですね……」
皇帝の命令を覆せる者はない。
たった一つの例外が、真紅の盃を継承した第二皇女だった。
死んだとされた皇女が蘇り、失われたはずの真紅の盃を持つ。
そして、領主と人間王の戦いに心を痛める……。
そこまで揃わなければ、覆らなかった。
確かに、これは奇跡だった……。
「ネリエ第二皇女の命、謹んで拝命いたします」
領主は平伏する。
そして、宣戦布告を取り下げる旨を告げた。
断る理由はなかった。
それを受け入れ、正式に戦は終結を迎える。
ジンは手にしていた刀を捨てる。
それはもう必要のないものだから。
領主は重傷だが生きていた。
誰も死なずに終わった。
そのことが無性に嬉しかった。