54 一本の道2
†ナグババ†
同刻。
ナグババの姿は温泉街にあった。
源泉を屋根で受ける旅館は、かつて宴会場として栄えた名残で大部屋がいくつもあった。
ナグババを含め、屋敷にいた全員と逃げてきた町人約三百名がその部屋にいた。
カルが障子の隙間から外を覗く。
階下には鍬や弓を持ちうろつく町人が何人もいた。
「……見つかってはないみたい」
「そうか」
ナグババは息をつく。
今は昼頃だろうか。
異常事態が始まって、すでに半日ほどが経っていた。
昨晩から眠っていないためか、頭がぼんやりとする。
ことの始まりは明け方だった。
町人が殺し合いを始めたという報告があった。
人間王は叩いても起きないため、ナグババとカルが現地に向かった。
そこには鬼の形相で殺し合う町人がいた。
ナグババは仲裁に入った。
すると、町人は武器をナグババに向けてきた。
その顔と言い分を聞いて、すぐに事情を察した。
同時に自身の心中に沸き起こる怒りに気づいた。
霊術には伝染性のものもある。
アレが使うのは、そういった呪いの類だったのだ。
ナグババは努めて冷静に振る舞った。
呪いを解く手段は人間王の炎以外にない。
町人を縛り上げ、ナグババは状況を沈静化させた。
カルに人間王を呼びに行かせることも考えた。
しかし、呪いは顔を見ることで伝染する。
伝染力はアレ本体に大きく劣るが、精霊の加護を受けていない人間にとって十分過ぎる威力だった。
天上人であれば、少し顔を見る程度は耐えられる。
だが、人間は一瞬で感染した。
目を開けて町を歩けば、無事では済まない。
被害を抑えるには感染した者の隔離が必要だった。
大人数を収容できる部屋として、真っ先に旅館を思いつく。
町の中枢から距離もあるため都合がよい。
ナグババは無事な人間を集め、目をつぶったまま移動することを考えた。
そこから情報が錯綜する。
屋敷から伝令が来たのだ。
一見してただの町人だった。
偶然、屋敷近くにおり、伝言を頼まれたという。
人間王は内侍を連れ、すでに屋敷を脱出した。
ナグババと同じ温泉街を目指している。
そう告げられた。
屋敷にはエリカがいた。
彼女の判断に違いない、とナグババは思った。
その言葉を信じ、ナグババは人間を移動させた。
……今にしてみれば、その町人はすでに感染していたのだろう。
効果に個人差があるのか、伝染してなお狡猾だった。
温泉地に人間王とスグリの姿はなかった。
エリカに聞くと、領主と共にいると聞かされた、と答えた。
双方の言い分が食い違っていた。
あの町人に騙されたと見て間違いなかった。
ナグババは自分の迂闊さを呪った。
人間王の伝令は忍びのはずだ。
ただの町人に頼むわけがない。
後悔しても遅かった。
二人が屋敷に残されたことに変わりはない。
人間王はともかく、スグリはか弱い存在だ。
すぐにでも助けに行きたかった。
ところが、そうもいかなかった。
旅館にたどり着く寸前に感染者の襲撃を受けたのだ。
何人かが目を開けて、感染した。
感染していない者も怪我を負った。
感染した者の中にはヒヌカが含まれていた。
ヒヌカは今、武器を持ち、他の町人と同様、旅館を囲んでいる。
ヒヌカを欠いた衝撃は、カルとエリカを蝕んだ。
かろうじて旅館に逃げ込んだものの、人間たちは不安に呑まれていた。
力ある者がそばに居てやる必要があった。
民が怯えているとき、領主たる自分が離れるべきか。
妻を助けに行くべきか。
人間王の妻を救えなかった自分が、自分の妻だけを救いに行くのか?
……それは違うはずだった。
この部屋にいる者をどう救うか。
領主の責務はそこにある。
あるのだが、……いつまで体が保つか。
目下、問題はそれだった。
「寝てた方がいいんじゃない?」
「いや、俺が寝たら皆が不安になる」
「呪い、ひどいんでしょ?」
隠したつもりではいたが、エリカには見抜かれていた。
シヌガーリンの謀略で受けた呪いは、今も完治していない。
少し動く分には痛む程度だったが……。
昨日から今日にかけて、体に負荷をかけすぎた。
傷口は完全に開き、血を流し続けている……。
ナグババは痛みを誤魔化すように言った。
「それより、状況を打開する策を考えてくれ」
「この絶望的な状況で? 戦軍を奪われたのが痛すぎるわ……」
戦軍は、人間王の連れてきた軍勢だ。
残念ながら、彼らは全員呪いに感染した。
そして、厄介なことに、呪いに呑まれても統率力と戦闘力を失わなかった。
電磁砲という兵器がある。
太陽が出ていて電力が供給される限り、霊術にも迫る破壊力を発揮する。
エリカが開発し、戦軍に支給されていた。
対天上人用を謳うだけあり、申し分ない威力だった。
それが今、旅館へと向けられている。
こちらが動けば、攻撃を開始するだろう。
今は警兵が守備についている。
警兵は中流天上人であり、それなりに強力な霊術を備える。
しかし、職務の性質上、全員が守りに特化していた。
打って出る人員はいない。
「……動くなら電力供給が途絶える夜間。けれど、蓄電池で一人数発までは撃てるわ」
人間王を迎えに行こうと思うなら、それをかいくぐらねばならない。
仮にかいくぐったとして、残された人間の安全は保証されない。
六名の警兵でどこまで耐えられるか……。
「あたしから言うべきではないとは思うけれど、あんたなら打開はできるんじゃない?」
「人間を殺せと言うのか」
「そうよ」
生かそうとするから話が難しくなる。
その条件を外せば、領主の移動を妨げる者はなくなる。
胸の出血は不安だが、光の剣を数度振るう程度なら大丈夫だろう。
一撃で戦軍を消し飛ばし、二撃目で旅館周辺の人間を一掃する。
それで終わりだ。
大手を振ってスグリを迎えに行ける。
「他に手段がないのだとしても、俺が選ぶわけにはいくまい」
「……そう」
エリカは憂うような表情で言った。
何か特別な感情を秘めているような顔だった。
「極限状態に陥っても、あなたは人間を殺すという選択を取らない。天上人にとって人間は奴隷のはず。いくら死のうが構わないのに。……けれど、あなたは自分の命を引き換えにしても選ばないのね」
「その程度のことができずしてどうする。当たり前だ」
「…………そうね。だからこそ、私はその考えを尊敬すると共に、理解を示します」
「エリカ……?」
急に話し方が変わった。
天上人のような気品ある物言いだった。
別人なのではないかという錯覚すら受けた。
が、次の瞬間には、元通りになっていた。
「何でもないわ。いずれにせよ、夜を待つしかないわ。幸い、旅館に食糧と水は残されている。一日だけならこの人数でも食べられる」
気品の面影は鳴りを潜めた。
今のは何だったのだろうか。
何かの見間違いだったのか。
考えようとして、すぐに窓の外に意識を戻した。
自分がすべきことは、それではない。
この部屋にいる人間を最後まで守ることだ。
夜までは長い。
果たしてこの体がいつまで保つか。
†
ジンは山を降り、町を探索した。
とにかく、仲間と合流する必要があった。
屋敷に人がいないのはわかっている。
町が恐ろしいことになったので逃げたのか。
あるいは巻き込まれて散り散りになったか。
離れにいた三人がいないのは変な話だ。
逃げるのなら声をかけてくれるはずで、ジンだけが取り残される状況はおかしい。
意図的に放置されたか、誰かがそうするように仕組んだか。
スグリが殺されたことに関係するのだろうか。
一人では何もわからない。
合流して、何があったかを聞くべきだ。
山際の人気のない通りを進む。
普段から往来のない場所は、異常事態でも人がいない。
逆に商店街の近くは、人が多い。
路地裏から覗いた感じだと、まともな人間は一人もいないようだった。
仕事のために行き来している様子がない。
誰もが何かを探してさまよっている。
呪いを受けた者同士は互いに興味がないらしい。
そう思った一方で、肩が触れ合っただけで猛烈に殴り合う男たちもいた。
町の中心部は全滅だ。
外縁部になら無事な人間もいるのだろうか。
探しに行きたいが、人目につかずに移動するのは不可能だ。
腹をくくって、商店街を歩くことにした。
姿を見せたら襲われる。
その覚悟はしていたが、拍子抜けするほど何も起こらない。
通行人はジンなど気にも留めない。
普通に営業している店もあった。
中を覗くと、店主が麺を作っていた。
「なぁ、聞きたいことがあるんだけど?」
「へい、なんでい」
「今日は外の様子がおかしくないか?」
「様子? そういや、外が騒がしかったな……。まぁ、俺は麺に集中してたんでな」
店主は他人事のように言う。
まさか無事な人間がいたとは。
朝から誰とも会わなければ、平気なわけか。
「ま、立ち話もなんだ。何か食ってきなよ」
店主に言われ、朝も昼も食べてないことに気づく。
出汁の匂いで腹が減った。
折角だからと思い、店に入る。
そこで気づいた。
店は半分以上が破壊されていた。
まるで強盗が入ったかのように、椅子やら台やら器やらが散らばっている。
「どうしたんでい?」
「い、いや、店が壊れてるなと思って」
「……店が? あぁ、それは俺がやったんだ」
「どうして?」
「麺がうまく打てなくてイライラしたんでね。……クソ、またうまくいかねぇ。許せねぇ……。あぁ、こんなのは間違ってる。道具がダメなんだ。間違った道具は捨ててしまわないと」
店主は麺棒を壁に投げつける。
打っていた麺も丸めて床に叩きつける。
その顔は他の町人と同じだ。
人とは思えない憤怒の形相。
……こいつもそうなのか。
さっきまで普通に話せていたのに……。
何かに取り憑かれたように人格が変わった。
店を飛び出す。
やはり町に無事な人間はいない。
常に怒っている者とそうでない者がいる。
一見して平気そうな奴でも何かのきっかけで爆発する。
面倒なのは個人差が大きく、怒らせるまで判別法がない点だ。
また、行動の起こし方にも違いがある。
賢い奴は許せない他人を疑われないように殺す。
理性を残して行動するのだ。
呪いを受けたからと言って、必ずしも凶行に走るわけではない。
うまく隠せる奴がいると大雑把には分類できない。
無事な人間とそうでない人間を区別することも難しくなる。
こんなときに領主はどこに行ったのか。
比較的まともそうな奴に行き先を聞いてみるべきか。
そう思い、近くにいた老婆に声を掛けるも、
「あんた、巫女様を殺した犯人にそっくりな着物を着てるね?」
「ひ、人違いだろ。俺じゃねぇぞ」
「本当かい? 嘘だったら、それは許せないねぇ。正さないといけないよ」
話の途中で逃げ出した。
噂が広まっているらしく、町人たちの視線が厳しい。
町をうろつくのは危険だ。
農村に足を伸ばすか、屋敷の近くにいるか。
……わからん。
エリカの知恵が欲しい。
変に動かない方がいい気がした。
何より腹が減った。
昨日の夜から何も食べていない。
†ヒヌカ†
その頃、ヒヌカは包丁を持って旅館の周辺を歩いていた。
なぜ包丁を持っているのか、自分でもわからない。
けれど、誰かを殺さねばならないという気がしていた。
憎むべきは天上人。
……そうだ、村を滅ぼした天上人だ。
なぜ忘れていたのか不思議なくらいだ。
自分は天上人を殺すことを生きがいにしていたのだ。
やっとそのことに思い至る。
そして、自分が天上人を燻り出す作戦中なのも思い出した。
旅館には天上人がいる。
周りにいる誰かに教えてもらった。
彼らもまた天上人を殺したがっていた。
目的を同じくした同志だ。
首長という偉い人が作戦を提示した。
兵糧攻めだ。
数日もすれば、奴らの方から出てくる。
待っていれば簡単に仕留められるそうだ。
正しい作戦だと感じた。
でも、三日待って出てこなかったら間違った作戦だ。
間違うことはいけない。
正さなければいけない。
そんな決意を込めて包丁を握りしめる。
それがいとも容易く取り上げられた。
「あーあー、物騒なものを持ってまぁ。転んで怪我したらどうするの?」
振り返ると、そこには虎の天上人が立っていた。
見たこともない相手なのに、なぜだか懐かしい感じがした。
手にした春画本もなんとなく覚えがある。
「お前は間違っているッ!!」
「その顔で呪いを移すんでしょ? でも、俺には効かない。だって、俺が本から目を離すことなんかあり得ないからね」
裸の女が描かれた本を見せつけられる。
何だこいつは。馬鹿なのか。
何でもいい、天上人だ、ぶっ殺す。
掴みかかろうとすると、あっさりとかわされた。
「たぶん、効果はあると思うんだよね」
虎の天上人は春画本を読みながら懐から何かを取り出す。
真紅の盃だった。
別段光っているわけでもないのに、眩しいと感じた。
……なんだ、あれは。
「はいどうぞ」
盃に注がれた水を、虎の天上人は頭からヒヌカにふりかけた。
何かが頭の内側で弾けた。
「痛っ…………」
猛烈な痛みが走って、目の奥に火花が散った。
痛みが酷くて目を開けるのにも数秒かかる。
チカチカした視界で周りを見回す。
「あ、あれ……? わたし……」
頭がぼんやりする。
何かをしないといけなかったような……。
そんな気がする。
「目、覚めた?」
改めて声をかけられる。
「ティ、ティグレさん!? どうしてこんな……! ダメじゃないですか! 昼間から出歩いたら、見つかっちゃいますよ!? この間だって、見つかりそうになったんですから!」
「はいはいはいはい、あのときは庇ってくれてありがとうね。さすがに領主に見つかると、俺もやばかったしね? でも、今はそれどころじゃないんだなぁ」
言われて思い出す。
自分がなぜ包丁など持ち出したか。
何をしようとしていたか。
……周りにいる人間が何を考えていたのか。
「天上人だ」「殺さねば」「間違った存在だ」「正さなくては」
どんどん人間が集まってくる。
顔を見るな、とティグレに言われた。
それで思い出す。
自分は、彼らの憤怒に歪んだ顔を見て、……何かに取り憑かれたように天上人が憎くなったのだ。
「呪いなんだろうね。放って置くと、どんどん広まりそうだ」
「そ、それより囲まれてますけれど……! まずくないですか!?」
二人の周りには人間が数十人と集まっていた。
手には武器を持っており、二重三重と人垣を作る。
そして、その輪が徐々に小さくなってくる。
「面倒くさいなー。あの人を助けに来ただけなんだけどなー」
「あ、あの人……?」
「旅館に今の主人がいてねぇ。さすがに助けないとまずいかなーと思って」
旅館にいる主人……。
領主のことだろうかと思う。
けれど、ティグレは領主に見つかったら大変だと言っていた。
一体、誰のことを言っているのだろうか?
疑問に思うが、今はそんな場合ではない。
人間たちは今にも飛びかかってきそうな勢いだ。
その状況で足元だけを見なければならないのは、相手の姿を正面から見るよりも怖い。
敵意を持つ者を視界から外す、というのは簡単なようで難しい。
「とりあえず、脱出しようか。しっかり掴まっててよ」
ティグレは片腕でヒヌカを抱えた。
せめて両手で抱いて欲しいと思う。
というより、左手の春画本を離してほし、
そう思う間もなく、ティグレは跳躍した。
またたく間に地面が遠くなる。
一息で人垣を飛び越えてしまった。
地面に着地すると同時に再度の跳躍。
群がってくる人間を尻目に、屋根から屋根へと飛び、旅館の上階を目指す。
「……! ……! ……!」
叫ぶことはできない。
口を開けたら舌を噛むからだ。
ヒヌカにできるのは、目を瞑って、恐怖に耐えることだけだった。