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53 一本の道1


 ジンは左手の痛みで目が覚めた。


「いって………」


 鋭い痛みだった。

 包帯を解くと、紋章に血が滲んでいた。

 怪我をした記憶はない。

 勝手に血が吹き出したようだ。

 何が原因でこうなったのか。


 ふと、外が明るいことに気づく。

 昨晩、領主の治療をエリカに任せ、ジンは離れに戻っていた。

 治療が終わるのを待つつもりではいた。

 けれど、疲れのあまり眠ってしまった。

 そして、目を覚まして今だ。


 部屋には誰もいなかった。

 カルもエリカもヒヌカも先に起きたらしい。

 ……いつもなら気にならないが、今だけは困る。

 左手が痛くて、立ち上がるのもやっとだ。

 柱に掴まって、離れを出る。


 屋敷はしんとしていた。

 内侍の姿もなく、人の気配が欠落していた。


 本殿を抜けて領主の執務室へ向かう。

 そこもまた人の気配がなかった。

 火鉢も冷たくなっていた。

 昨晩から人の出入りはなかったのだろう。


 スグリに会おうと祈殿に足を運ぶ。

 そこも同様に冷え切っていた。

 人が存在していた気配がない。


 ……なんでだ。


 音のなさが気になってくる。

 まるで自分一人が別の世界に来たような錯覚を受ける。


 とにかく、人を探さなくては。

 誰でもいい。

 天上人でも人間でも話ができる奴に会いたかった。


 足を早め、本殿を探し回る。

 誰かいないかと声を上げるも、反応はなかった。

 本格的におかしい。


 全員で出かけたのだろうか。

 だとして、何のために。


 屋敷の外を見ようと思った。

 前庭に飛び出す。

 そして、それを見つけた。


 石畳の上で誰かが寝ていた。

 初めはそんなふうにも見えた。


 紅葉で彩られた庭園に彼女の衣装はよく似合っていた。

 人前に出るときは必須だと言っていた薄布が、今は顔の横に垂れている。


 ――――嘘だ。


 風に揺られもみじが散った。

 彼女の頬に朱を添える。

 巫女装束の赤と紅葉の朱。


 ――――そんなことがあるものかッ!!


 頭ではわかっていた。

 あの巫女装束は赤くなどなかった。

 花嫁のような白い着物だった。

 いつからあんなに綺麗な赤になったのか。


 ――――いい加減、現実を受け入れたらどうだ。


 頭の奥底で声がした。

 久しく聞いていなかった龍の声だった。

 現実を受け入れる。

 目の前のこれを……。

 ……これが現実?

 冗談が過ぎるだろうが。


「――――」


 叫んだのだと思う。

 獣のような声が出た。

 走ろうとしたら、足がもつれた。


 転びそうになりながらも駆け寄って、その体を抱き上げた。

 しっとりと濡れて重くなった衣装は、鉄の臭いを漂わせていた。


「どうして!? なんで、――――!!」


 その先を言葉にはできない。

 言葉にしたら真実になってしまう。

 ……が、頭の中の冷静な部分が告げていた。


 手のひらの温度は、すでに人間が生きている体温ではなく、

 失われた血の量も同様に生を終わらせるのに十分であり、

 何より人間は心臓に短剣を突き立てられて生きられるほど丈夫には作られていない。


「スグリ、お前、死んでるのか……?」


 言ってしまった。

 言ったからには、それは真実となった。

 ジンの腕の中にいるのは、スグリだ。

 見間違えるはずがない。


 ついこの間まで元気だった。

 結婚のことを話していた!


 とても嬉しそうで……、その笑顔は愛らしくて……。


 だから、天上人の嫁になるのかとジンは内心では不安で。

 領主を未だに名前で呼べないのはそのせいでもあって。


 次々と思い出が浮かんでくる。


 姉の結婚式で誰よりも張り切っていたスグリの姿が。

 村の中央広場を青い炎で彩るのだから、頑張れと言われた日が。

 姉よりも緊張した面持ちで座っていた横顔が。


 どうしてこんなことにッ……!!


「出てこい!! 誰がスグリを殺したッ!?」


 誰もいない庭園に向かって叫ぶ。

 呼んだそばから門扉に人影が現れた。

 どう見ても町人としか思えない男だった。

 三十過ぎのどこにでもいそうな男。


「お前かぁああぁああ!!」


 ジンが叫ぶのと同時に男も叫んだ。


「人殺しだぁああぁああぁああ!」


 男は転げるように逃げ出した。

 いきなり過ぎて理解できない。

 あいつがスグリを殺したのではないか!

 なぜ殺した方が逃げるのか!!


 ジンは男を追って屋敷を飛び出した。

 ……屋敷の外はいつもと様子が違っていた。


 普段なら往来する人々には規則があった。

 商店街に向かう者と出ていく者。

 道には二つの流れができるはずだ。


 今は道のそこかしこに人の集まりがあって、険悪な表情で何かを話し合っていた。

 そして、そいつらの隙間を男が走り抜ける。


「あ、あいつが巫女様を殺したんだぁぁああぁあ!」


 ジンを人殺しと喧伝しながら。

 必死に走るも左手のせいで距離が開く。


「ふ、ふざけるな!! お前が殺したんだろうが!! 誰かそいつを捕まえてくれ!」


 町人に依頼するも、彼らが動く気配はない。

 ゆっくりとジンの方に首を向ける。


 その瞬間、男のことが一瞬だけ頭から離れた。

 町人たちには表情がなかった……。

 二十人はいるだろう。


 そいつらが一斉に無表情を向けてくる。

 男も女も年寄りも子供も関係ない。

 あらゆる人間がジンを見ていた。


 怒りが恐怖に塗りつぶされる。

 いつの間にか左手の痛みも消えていた。


 紋章は危険を告げるときに痛みを伴う。

 その痛みがなくなったということは……、危険ではなくなったということなのか。

 あるいはその逆。

 もはや避けようがないところまでいってしまったからなのか。


 二十人の町人が一斉に怒りの表情を顕にした。


 これほど恐ろしいことはなかった。

 他人に向けられる怒気もある。

 いわれのない怒りもある。

 多人数を相手にしたこともあるかもしれない。


 だが、何よりも恐ろしいのは、人間があんな顔を作れることだ。

 人間の域を超えた怒りを宿したとき、人はあぁいうモノになるのかもしれない。


「お前、巫女様を殺したのか?」「殺す? 巫女様を?」「許されることか?」「正しいことか?」「いいや、間違っている」「間違ったことだ」「間違いを犯した男だ!」「お前は間違っている!」「なんて奴だ! 間違ってしまうなんて!」「間違いはどうする?」


「正さなければならない」


 二十人が一斉に襲いかかってきた。

 冷静な思考など不可能だった。

 逃げるしかなかったと思う。


    †


 逃げた先は山だった。

 屋敷の裏手。

 スグリが神聖だと言っていた霊山だ。


「はぁ、はぁ、はぁ……!!」


 適当な木陰に座る。

 息が上がっていた。

 震える右手を左手で殴りつける。


「逃げてる場合じゃないだろうが!」


 スグリの遺体を置いてきてしまった。

 あんな寒々しい場所に。

 弔ってやらなければならないのに。


 だが、そのためには町人が邪魔だった。

 なぜ自分が追われなければならないのか。

 犯人に間違われるようなことはしていないのに……!


 ――――だから、間違っているのは町人なのだ。


 間違っている。町人が?


 ――――そうだ、お前が正しいのだとしたら、間違っているのはあっちだ。簡単な話だ。


 確かにそうだ。

 しかし、間違っているとしてどうすればいいのか。


 ――――決まっている。間違いは正さなければならない。


「その通りだッ……!!」


 再度、右手を振り上げる。

 そのとき、首飾りの紐が切れた。

 からん、と軽い音を立て、翡翠の鏃が地面に落ちる。


 それは、母がジンに託した最後の品だ。

 スグリの話では、母は極めて冷静に生き延びていた。

 冷静にならなければ、生きられない。

 母に諌められた気がした。


 深呼吸をする。

 首飾りの紐を結びながら、考える。

 頭を冷やすことがなかなかできない。

 頭の中で、奴らは間違っている、という声が鳴り響いている。


「クソ、そういうことかよッ!」


 炎で自身を焼いた。

 途端に雑念が消えた。

 答えは見つかった。


 昨日のアレだ。

 アレは人の心を内側から攻撃する方法を持っていた。

 町人はその攻撃を受けたに違いなかった。


 ……だが、自分はいつ受けた?


 昨日の攻撃は炎で無効化したはず。

 朝、起きた時点でも特段異常はなかった。


 スグリを見つけたとき。

 ……そのときも怒りを感じたが、…………奴らは間違っているとは思わなかった。

 奴らに当たる存在など思いつきもしなかった。


 やはり森に入ってからだろう。

 ……その直前に起こったことと言えば、町人に睨まれたこと。

 そう言えば、町人のあの顔は……、昨日のアレによく似ていた。


 そうか。

 そういうことか……。


 伝染するのだ。

 怒りと憎しみが。

 間違った奴を正さなければならないという気持ちが。


 でも、アレは倒したはず……!

 違う。

 領主のことを思い出せ。

 領主の怒りはアレを倒してからも残っていた。

 倒しただけではダメだったのだ。


 ……一人でも感染した奴が残れば、…………いくらでも伝染するのだ。

 だとしたら……。

 あの町はもう……。


 背筋が凍った。

 頭が考えることを拒否していた。

 でも、考えなければならない。


 屋敷の周りにいた約二十人。

 連中は全員が感染していた。

 町全体が危ないだろう。

 いや、町どころか直轄地の全土に広がったかもしれない。

 早くしないと本当に大変なことになる。


 自分が逃げ延びられたのは大きい。

 あの攻撃を無効化できるのは、青い炎だけだからだ……。

 町を救えるかどうかは、炎次第だ。


 領主のような丈夫な奴なら鎧の上から焼けば済む。

 人間はそうもいかない。

 炎に包まれたらいともたやすく死んでしまう。


 方法を考えなければ……。

 ……こういうのはエリカの役目だ。


 あいつらは一体、どこで何をしているのか……。





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