52 終幕
†スグリ†
その朝は異様な静けさに包まれていた。
スグリがいつものように霊泉へ祈りを捧げに向かい、普段より長めの祈りを終えると、滝の水量が目に見えて変化した。
霊泉に注ぎ込む滝は五本。
それぞれに木、火、金、水、土の属性があるとされた。
土と金だけが異様な流量となり、それ以外が枯れてしまった。
異常ともいえる光景に、いつもなら驚いただろう。
しかし、スグリは未来を見ていたため、来るべき時が来たのだ、と素直に受け入れられた。
もはや自分にできることはない。
霊泉に一礼を残し、スグリは屋敷へと戻った。
祈殿に籠り、祈りを捧げた。
やがて朝食が運ばれてくる時間になった。
今日に限って、内侍が現れない。
違和感を覚えつつも祈り続けた。
祈ることしかできなかった。
やがて太陽が南中しようかという頃、来訪者があった。
すり足で祈殿にやって来たのは、……町人だった。
年齢は三十を過ぎた頃。
地味な着物に前掛けを一枚。
料理人とも商人ともとれる格好だった。
特徴のない顔立ちは日に焼けていて、農民にも見えた。
「どなたですの?」
「私は町人です。そのように振舞うよう指示されています」
男の表情は変わらない。
薄い微笑みを称えてはいるが、感情らしきものが伝わってこない。
「では、町人ではないんですのね」
「えぇ」
男はあっさりと認める。
……人間ではない、人間に見える何か。
つい先日、エリカがそうだと正体を明かした。
だが、眼前にいる男は天上人にも思えない。
もっと違う、異質な雰囲気を醸している。
「天上人ですの?」
「いいえ」
「……じゃあ、何なんですの?」
「HMN300」
「え?」
「私の型番です」
型番……。
一体何のことを言っているのか、スグリには理解できない。
「同型の私は二十人体制で町に潜伏しておりました。そして、交代で天上人を殺害してきたのです」
「……あ、あなたが犯人だったんですの?」
「えぇ」
男は微笑んだま肯く。
その無感情な肯定に背筋が寒くなる。
なぜ、この男は、その話を自分にするのだろうか……?
犯人は今まで正体を隠しながら殺人を繰り返してきた。
自ら名乗り出る理由など、考えても思い至らない。
「わたくしに話して、何を要求するんですの?」
「死ぬ前に説明をして差し上げろ、と命じられたため、お話しているだけです」
町人はあっさりと言った。
表情一つ変えなかった。
「つまり、あなたは、……わたくしを殺しに来たんですのね?」
「えぇ」
男の笑みは変わらない。
まるで殺気など感じられない。
が、……いつの間にか右手には短剣が握られていた。
ついにこのときが訪れた。
何度占っても回避できなかった未来が……。
スグリは占いを外したことがない。
精霊の裏打ちされた力だからこそ、占いは絶対だった。
今ほどその力を恨めしく思ったことはない。
はずれろ、と願っても、はずれることは決してないのだから。
……それでも、あがくことをやめてはいけない。
スグリはゆっくりと壁際まで後退する。
懐から儀礼用の短剣を取り出し、町人に向ける。
「他に聞きたいことはありますか?」
町人は何一つ対応を変えない。
笑ったまま入り口をふさいでいる。
「なぜ、わたくしを殺すんですの?」
「その質問にはお答えできません。なぜなら、私は答えを聞いていないからです」
「誰がわたくしを……」
「ソテイラ・シャム・ヒンディ・ヒンディ・アーズィー様です」
その名には聞き覚えがあった。
ベルリカ領に滞在する霊公会の司教だ。
ジンと知行政が戦った際には、立会人も務めたと聞く。
「どうして霊公会の司教がわたくしを……」
「その質問にはお答えできません。なぜなら、私は答えを聞いていないからです。他に聞きたいことはありますか?」
町人は同じことを繰り返す。
問いかけをやめれば、そのときが最期だ。
スグリは考えを巡らせ、有効な質問をひねり出そうとする。
しかし、差し迫った自らの死が冷静さを奪っていく。
呼吸が早くなり、背中にはじっとりとした汗をかいていた。
結局、何一つ言えないまま、時間が過ぎる。
「時間が来ました。これ以降の質問は受け付けられません」
「……ちょ、お待ちなさい。まだ、聞かなければならないことが」
町人の動作は、速かった。
人間ではないと本人が言ったのだから、人間ではないものとして警戒すべきだった。
およそ人間的ではない動作で距離を詰められた。
踏み込むのに膝を曲げることも、勢いをつけることもなかった。
ただ、立ったままの姿勢でいきなり距離がなくなった。
そして、……町人の短剣は、スグリの胸に突き立てられていた。
「あ、が…………。ナグババさま…………、にい……さま……」
肋骨など無意味だった。
人間ではない出力は、骨ごと心臓を貫いた。
声もなくスグリは崩れ落ちる。
町人は表情一つ変えずにその体を抱き上げ、庭へと運んでいく。
……からん、とむなしい音が響く。
それはスグリの手から零れ落ちた、儀礼用の短剣だった。
最後の抵抗だったのか、先端は町人の腹に刺さっていた。
表皮を傷つけただけだが、刃に循環液が付着していた。
町人の循環液は人間とは異なる。
鉄ではなく銅を礎材とする。
故に、その液体は濃い緑色だ。
町人は記録を検索し、損傷した個体が循環液を残したために、拠点を発見された事例を発見した。
短剣を現場に残すことを断念する。
循環液を丁寧に拭き取り、懐にしまう。
短剣の柄にはお守り袋が括り付けられていたが、取り外さずにそれも回収する。
祈殿に静寂が戻ってくる。
本当に静かな朝だった。