精神の消滅
肉体的な死というものがあるでしょう。しかし、肉体的な死の恐怖よりも、生きている人間にとって恐ろしいのはむしろ精神的な死です。すなわち、自己存在の消滅ないし忘却です。
社会的に生きる、文化的に生きる、経済的に生きる。けれども死が訪れれば、何ものも無くなってしまいます。どうにかして自分を残してゆきたいと、芸術を生み出す方もいらっしゃる。しかし、それは自分自身ではありません。歴史に名を刻む人もいる。しかし、それさえも自分を残したことにはならないのです。ただ名前という文字と、自身が行った行動が抽象化されて、そこに刻まれるのです。それは自分なのだろうか、と聞かれれば、それは自分でも他人でも大した変わらぬ、ただの無味乾燥とした記号に過ぎないことに気づくのです。
だから、死というものが恐ろしいあまりに、表面的な快楽にふけり、楽しいという感情で精神を慰め続ける他、生きてゆく道がないように思います。そして、社会的に生きているとか、文化的に生きているという言葉の持つ、ひとつの幻覚作用で、さも死がないもののように錯覚せざるを得ないのです。
人間はただの自然の一部でしかありません。虫が刹那に死にゆくように、人間もただそれがちょっとばかり長いというだけで、本質は、やはり虫のように刹那に死にゆく、そして消えゆく存在なのです。
死後の世界はあるか、もしあるとしたら、死後も何かを求めて存在してゆくこともできましょう。でも、そんなことは人間が一生の内に確信の持てる話ではありません。死んだ後、どうなるのかなんて、どだい人間には分からないのです。だから、ただ一生という長いような短いようなものの中で、何か後悔なきよう、自己の価値観を生み出さなければどうしようもないのです。
多くの宗教がもたらしたのは、決して死後の問題ではなく、突き詰めてゆけば、死後の世界によって保証される、生前の世界の価値なのでしょう。死後の世界がなくては、何の為に生きているのか。それすら証明することができないのです。
死ということが転生ではなく、消滅を意味するのならば、何を生み出そうとしても結局は無価値、無意味に帰するのです。
それでも、やはり死後の世界があるのかは、生きている人間には分からぬ話なのです。
全ての人間が、目の前の価値観にすがって生きています。しかし、いつだって価値観は次の瞬間消えてなくなり、その都度、人間は狼狽するものです。環境の変化、時代の変化、そして社会のもつ普遍的な不確実性の、流動性に弄ばれて、人間は信じてきたものを毎年、毎月、毎日のように奪い去られていきます。
そして、その最も恐ろしい疑問は死の直前にそれが訪れるかどうかという問題です。一体、何の為に生きているのか、と言えば、せめて自分が死ぬ時には、自分自身で後悔はしたくないと思います。しかし、それもやはりその時になってみないことには分からないのです。
そもそもが、絶対に消滅するこの世界で存在を残すことに固執して生きてゆくことが最も無価値なのかもしれません。なぜならば、芸術とはいつだって作者の心は半分も映し出してくれぬ残酷なものなのです。そうして、それはいつだって、芸術を見ている人の心を映し出す灯明でしかないのです。だから、まったくここには作者の自己が死んでしまって、ただこれに変わる新しい生命がこれを生み出し続けていると言えるのです。
だから自己を残すのではなく、また、ただ生きているのでもなく、最も有意義に生きるとは、ただ無に帰るそのことを知りながら、さも死がないもののように偽ってひた向きに生きて、そして、何ものも残らぬそのことを悟り、悲しみに暮れて、自然に身を委ねて、そうして死んでゆく。その自然の悲しみ自体が最も有意義に思えるのです。