或る者の日常
『或る者の日常』
或る者の日常
この世は匂いで満ちている。
高層ビルの谷間を歩いていても、様々な匂いが私の鼻を刺激する。
人々は『最近の世界には匂いが無い』と言うけれど、私はそうは思わない。いい匂いもいやな匂いも、こんなに溢れているじゃあないか。
横断歩道を渡って来るのは、K氏だ。
彼はとある会社の営業マンで、顧客の心証を良くする為だろう、軽いオーデコロンを付けている事が多い。そして今日の香りは――タイム・サツレオイデス(Thymus satureioides)。タイム(Thymus vulgaris)の爽やかさに渋みと苦みを加えた、シャープな香りだ。無気力感を取り払う効果があり、……催淫効果も期待できる。きっと、今日の顧客は彼のタイプの女性なんだろう。
K氏は私に気付くと軽く片手を上げ、それから足早に立ち去った。彼の仕事がうまくゆくと良いのだけれど……きっと、無理だろう。
彼に合う香りは、タイム系よりもむしろ、ウッディなベチバー(Andropogon muricatus)やサンダルウッド(Santalum album)だ。特に今回ならサンダルウッド。ウッディでしっとりとした芳香は、官能的な気分を高める効果もある。
――私がこんな事を考えたところで、せんなき事ではあるけれど。
足取りは緩やかに、日傘をさして歩いて来るのはS嬢。
彼女は名家のお嬢さんで、いつもどこか甘い香りをまとっている。
私が近付くと、彼女は穏やかな笑みを浮かべ……その拍子、私の鼻先をクラリーセージの香りがかすめた。
……クラリーセージ(Salvia sclarea)。ナッツをイメージさせるまろやかでしっとりとした香りだ。気分を高めて陶酔感を与え、幸福感を運んでくる効果がある。
――事実、彼女はとても幸せそうな笑みを浮かべている。けれど。
クラリーセージのもう一つの効能は……ホルモン系のバランスを整える事。つまり、生理不順や生理痛などを改善するのだ。だから、『妊婦が使用してはいけない』。
S嬢の下腹部は緩やかに膨らんで、私の記憶が正しければ、今妊娠三ヵ月程だったと思うのだけれど。
まあ、私がこんな事を考えたところでせんなき事。子供が産まれると困る者がどこかに居るのだろう。あるいは、彼女自身か?
そして。 私の視界に飛び込んできたのは、愛しい愛しい『彼女』の姿。
私は彼女の名前も住んでいる場所も知らないけれど、彼女の匂いならばどれだけ離れていても嗅ぎ分けられる自信がある。イランイラン(Cananga odorata)もジャスミン(Jasminum officinale)もかなわない、官能的な匂い……
その匂いが鼻に届くだけで、私の胸は高鳴り、呼吸は荒くなる。
近付いて彼女の匂いを深く胸に吸い込むと、彼女も私の匂いを嗅いでくれた。互いの匂いを嗅ぎ合うと、気分が高揚し、思わず彼女に抱きつきそうになった。が――
彼女の首輪に繋がるリードが引かれ、彼女は名残惜しそうに私の前から立ち去った。
取り残された私は尻尾を下げて、一声ワンと鳴いてから、散歩を再開した。
《幕》
※作中の香りは実際に存在しますが、効能は個人的に調べた物であり信頼性は保証しません