魔女と鏡の精のお話
『魔女と鏡の精のお話』
一人の若い女性が、うきうきと荷造りをしていました。彼女は魔女でしたが、その美貌をこの国の王に見そめられて、王妃として迎えられる事が決まったのです。
魔女が荷造りするのを見ている人物が居ました。それは魔女が使う鏡に宿っている鏡の精。鏡の精は何度も鏡を叩いて魔女を呼んでいたのですが、その言葉は外には聞こえません。鏡の精の言葉が外に聞こえるのは、「質問に答える時」だけなのです。
それでも鏡の精は必死に魔女を呼び続けました。鏡の精は、魔女にどうしても伝えたい事があったのです。
――鏡の精は、全てを知っていました。
魔女が美しい娘を産むこと。王の寵愛はその娘に向けられてしまうこと。嫉妬した魔女が娘を殺そうとして失敗すること。そして――魔女が処刑されること。
鏡の精は全て知っていたのです。だから、もし魔女がこの結婚について「質問」してくれたなら、絶対に止めさせようとしたでしょう。けれど、魔女が鏡の精にした質問は……
「祝福してくれるでしょう?」
というただ一言。鏡の精は、泣きそうな顔を隠して頷くことしか出来ませんでした。
それでも鏡の精は内側から鏡を叩き続けます。自らの手から血が滲んで、鏡が紅く染まっても。
鏡の精は、魔女を呼び続けます。たとえその喉が裂けようとも。
* * *
魔女が王の元へ嫁いでから幾年もの歳月が流れました。彼女は王の寵愛を受けたい一心で、毎日のように鏡の精に尋ねました。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
鏡の精は、この先に待ち受ける運命を憂いながら、魔女の求める答えを出し続けました。
「それは貴女です、王妃様」
鏡の精がそう答える度、魔女はとても嬉しそうな顔をしました。鏡の精は、そんな彼女の顔を見る度に、胸が締め付けられて苦しくなりました。
そして魔女は、女の子を産みました。女の子は、雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪、薔薇色の頬をしたとても美しい娘でした。
魔女は娘を大切に育て、愛しました。時には鏡の精に子育てについて尋ね、その度に鏡の精は真摯に答えました。もしかしたらあんな恐ろしい運命は変わってしまったのではないか、そう鏡の精は思い始めました。けれど、ある朝魔女がいつもの質問をした時から、何かが始まってしまったのです。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
いつもと同じ答えを返そうとした鏡の精は、思わず口ごもりました。鏡の精は真実しか言えません。ですから、真実が変わってしまえば、答えも変えざるをえないのです。
「……それは貴女の娘です、王妃様」
その答えを聞いた時、ほんの一瞬魔女の顔に暗い影が差しました。けれどその時はまだ、魔女は娘を心の底から愛していました。ですから、その影はすぐに消え、鏡の精は胸を撫で下ろしました。
* * *
それから更に年月が経ちました。
娘が美しく成長し日の下で照らされるにつれて、魔女は陰に追いやられるようでした。王は滅多に魔女の部屋へ通わず、魔女はいつも寂しそうにしていました。
そんなある夜、一人寝の寂しさをまぎらわせるために城を散歩していた魔女は、娘の部屋の扉が薄く開いているのに気付きました。その隙間からうめき声のようなものが聞こえて、魔女は心配になり部屋を覗き込んで――気が付くと、自分の部屋に戻って床にへたりこんでいました。
甘えるような女の声。
寝台の軋む音。
雪のように白い肌。
見覚えのある背に回された細い腕。
――許されざる、行為。
魔女は寝台に顔を埋め、声を押し殺して泣きました。そんな魔女の姿を、鏡の精は悲しそうな目で見つめていました。
夜通し泣いて、泣いて、そして――泣き止んだ魔女の顔は、何かを決意したような表情をしていて。鏡を必死に叩く鏡の精に気付きませんでした。
それから魔女は変わりました。あんなに愛していた娘を、亡き者にしようと画策し始めたのです。深く深く愛していた分、それがどうしようもない憎しみに変わってしまったのでしょう。
狩人に命じて森で娘を殺させて、その心臓を持ち帰らせようとしました。
娘の暮らす小屋へ、持ち主を絞め殺すよう呪いをかけた飾り紐を売りに行きました。
また、それで髪を鋤くと皮膚から猛毒が染みる櫛を売りにも行きました。
更には、一口食べるだけで死に至る毒を仕込んだ林檎を食べさせました。
――全て、失敗しました。
魔女が狩人を呼び付けた時、飾り紐を編んでいる時、櫛を彫り出している時、毒林檎を作っている時、いつも鏡の精は鏡を叩いていました。必死で叫んでいました。鏡の精には、全て――わかっていたのですから。
* * *
「……もうすぐ異端審問官が来るわ」
魔女は鏡の前に立ち、すっかり紅く染まってしまった鏡面をそっと撫でました。
「皆が私を憎んでいる。
……もう、私を好いてくれる者など居ないのでしょうね」
「そんな事は無い!」
鏡の精は直ぐ様答えました。その言葉に、魔女は自嘲混じりの笑みを浮かべました。
「じゃあ、……鏡よ鏡、私を好いてくれている者は誰?」
「……それは俺だよ、魔女。貴女のことが好きなのは、俺だ」
鏡の精は質問に答えることしか出来ず、嘘をつくことが出来ません。ですから、その言葉は簡潔なものでしたが、心の底からの言葉でした。
「……ありがとう。誰にも好かれずに死ぬのではなくて、良かった」
嬉しそうに、けれども悲しげに笑みを浮かべた魔女に、鏡の精は頭を振りました。鏡の精は魔女に死んで欲しくなく、また、魔女が助かる方法も知っていたのです。
「……俺は鏡の精、君が訊いてくれるなら何だって答えられるのに」
鏡の精が呟いた言葉は、いつものように魔女には聞こえませんでしたが――ふと、魔女は顔を上げました。
「……鏡の精、貴方は……鏡から解放されたいと思う?」
その魔女の表情を見た鏡の精は、とても嫌な予感がしました。けれども鏡の精は確かに鏡から解放されたいと願っていて――そうすれば魔女を抱き締めることだって出来ます――、鏡の精は嘘をつくことが出来ません。
「ああ、思っているよ」
そう答えた鏡の精に向かって、魔女は微笑みました。そして、懐から短剣を取り出し、自分の喉に押し当てました。
「火炙りにされるぐらいなら、……今までありがとう、鏡の精。貴方は、幸せになってね」
そして鏡の精が止めるより前に、自分の喉を切り裂きました。吹き出した血潮が鏡を紅く染めました。
――鏡の精が鏡から解放されるには、主である魔女の血が必要なのです。けれどもそれはほんの少し、死に至る程の量が必要なわけではありません。
ゆっくりと床に崩れ落ちる魔女を、華奢な腕が抱きとめました。
そこには、鏡から解放された鏡の精がいました。愛しいひとを失って涙を溢す、ひとりの人間がいました。
「……ここから出られたら、君に言おうと思っていた言葉がある」
優しい手付きで魔女の頬に飛んだ血を拭いながら、鏡の精は呟きました。
「……愛してる」
その言葉は、魔女には聞こえませんでした。――もう鏡の精は鏡の中にいるわけではないのに、聞こえませんでした。
* * *
それは昔々のお話です。一夜の間に死の城と化した城がありました。馬番も兵士も大臣も、一人残らず死んだのです。
死んだ時間、場所は様々でしたが、皆に共通することがひとつだけありました。それは、「鏡の近くにいた」ということ。ある者は寝室で、ある者は台所で、ある者は硝子窓の前で――鋭い剣のようなもので切り裂かれて死んでいました。
一番無惨な死に方をしていたのは姫でした。母親譲りの美貌の持ち主だった姫は、その面影が残らないぐらいに顔をめちゃくちゃに切り裂かれていました。
そして、その城から死体が見付からなかった人間が二人。王と、王妃です。
異変に気付いた近隣の人間が城に入った時、死体だらけのその場所に、何故か王と王妃の死体だけがありませんでした。王の間と王妃の間には、血の跡だけが残されていました――
* * *
「……君の愛したひとだよ。一緒に眠れて幸せかい?」
その言葉に答える者はいない。
「ねぇ、……俺、幸せになんてなれないよ」
その言葉に答える者はいない。
「だって……君が、いない」
その言葉に答える者はいない。
「俺に話し掛けて。俺に訊いて、質問して……」
その言葉に答える者はいない。
「……君が、いないよ……」
その言葉に答える者は、いない――
《幕》