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うつろう花と宵のうた

作者: 新月

「如何に殿御よ。めづらしや。恨めしや御身と契りしその時は―…」

悦が謡う。

薄笑いと妙な調和をみせるうたはするりと開け放たれた障子から逃げてゆく。

まるで言葉が命をもって、闇夜の中何かを捜し求めにゆくかのようだ。

「あら恨めしや。捨てられて―…」

五徳を頂く女と、ともる炎がつとゆれる様が悦には見えるらしい。

目を閉じて、鬼の行方を案ずるかのようだ。

「捨てられた女はどういう気で鬼になったのだろうね」

廉が問う。

昼に観た能は捨てた夫と後妻に復讐せんと願懸けし、成就して鬼と化した女の話だった。

「どうって?」

うたうのをやめて向き直る。

「プライドが傷ついたから恨むのだろうか」

「それだけじゃあないでしょう」

何を観ていたのだ、と言いたげに悦。

「まだ、好きなのだろうか」

「とてもね。」

「想いはとめられないのだろうか」

「鬼になってしまうほどの想いだよ。」

「人を殺そうとするほどの想いか…じゃあ殺してしまったらもう二度と愛し合えないじゃないか」

「そうだね、だからきっと、想いを遂げて男を殺してしまったら、きっともう、女も生きてはられないね。」

「無益じゃないか、ねぇ」

殺してしまって、死んでしまうなんて。

廉がアルコールで唇を湿らせながら眉を軽く寄せる。

「益なんて、この話の対角線上に位置する。」

―つまり人間の情、それとは相容れぬもの。

「―…幸せじゃないじゃないか、それは」

言い換えて廉はやはり眉をよせる。

幼子が納得いかないものにぶつかった困惑に似たものを漂わせる様は、ひどく純粋にも見えた。

「人は、幸せになろうとするものだろう」

「そう。だけど幸せになろうとしてなれない時、あえて不幸を選ぶこともある。…いや、不幸な道を辿らずには心がおかないのさ」

心、この全く不条理なもの!

悦はそう囁く。

「人はね、しがらみでがんじがらめになって、情にも突き動かされて、どうにもし様のないとき、鬼にすらなる。よく言うようだけれど、人の心は理屈ではないよ。妻がいて、それでも後妻に走るのも心、最早冷えてしまった昔の愛にすがり付いてしまうのも心、前妻の恨みを恐ろしく思うもまた心。どれもこれもし様のない、傍目には滑稽にすら映るどうしようもない情の交錯さ。そんな様をお笑いあるか、人々よ、ってね…」

語る悦は本当にその心を自分のものとするかのようにしている。

夫の、妻の、後妻の、それぞれの心を自らのものと抱え込み、まるでそれらが自身の中でいきづいて、身を焦がすかのようにして語るのであった。

「京から貴船神社まで明かりもない中を歩いて、復讐を願いにいく。女の足で、毎晩毎晩だ。心細い事も恐ろしいこともその歩みを止めることは出来ない。それほどの情だ。怒りだろうか、悲しみだろうか、そんな言葉では足らない怨念のような情。恐ろしいもの。」

悦は舞台を思い出しているのか、目を遠くにしている。

柱に背を預けて闇夜を探る鉄輪女の手を真似るかのように、右手をすと前に出していた。

その様に何を感じ得たのか廉が口を開く。

「けれどね、悦。俺はお前の方が恐ろしいよ」

「え?」

「どうしてそこまで、その、おぞましい心に同調できるの」

不意打ちのような問いかけに悦は言葉に詰まる。

座す廉は悦の雪のような面を見上げ、特有の他人事めいた表情としかし相手をじっと見据える目で言う。

「俺はあの舞台でそこまで見ることが出来なかった。そしてまた、呪い殺そうとする心まで、頭ではわかっても同心にはなれない。それは心がお前より貧しいようだけれど、反面そこまでおそろしい心は持ち合わせていないということだ。…悦、お前はその胸に、どんな恐ろしいものを隠しているの」

人の痛みがわかるのは痛みを知っているから。

優しく出来るのは辛さを知っているから。

もしお前がその鉄輪女の心を知るというのなら、お前の心は一体何を通ってきたの。

「俺は、お前の、心が怖い」

時として鬼となるのは、お前の方ではないか。

それは近くにいて感じることがないでもなかった。

ひやりと光る刃物のような、それでいて井戸のような深い枯れる事のない情動。そんなものを悦はその下がりがちの、優しげな目元に隠し持っている。そう廉は感じていた。

障子から夜風が入り込む。

命を持って行った言葉たちを押し返すかのように。

迫られて、ふふ、ははは、と悦は笑い出した。

差し出していた右手を額に当てて、まるでその目を隠すように。

隠したのは、はて何か。

「おかしな事を言う兄さんだ。弟の心が怖いだなんて」

「おかしいかな、俺は」

「そう、おかしい。本当に」

悦は微笑んだ。何かをくるむように。

廉は笑わない。

じっと、見つめている。

するりと悦は廉の向かいに座り込む。

その目は優しく、穏やかだった。

「いい夜だね。風があって。風鈴がいい声を出す」

「ああそういえば、風鈴か。」

廉は今気づいたように応えた。

「時に遅れたあじさいがかわいそうだね。乾いてしまって、あわれなもの」

庭にはあせたあじさいが過ぎ去ってしまった梅雨の再来を待つかのように、天を仰いでいる。

それは失われた愛に翻弄される女の姿にも見られた。

ふと目を伏せる悦はその花を見るに耐えないらしい。

そんな弟と花を見比べて、廉は無表情に杯を干すのであった。

「不便なものだな、心とは」

「あなたは随分生きやすい心をお持ちだね。けれど羨ましくはないね」

「そうかね」

「そうさ」

夜は更けてゆく。

燃え上がる朱夏を予感させる中、初夏の月は西に傾くのであった。




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