最後の看板コンテスト
3年最後の『お祭り』は体育祭だった。
だれかの彼女が女友達を連れてきたのか・・・どこの生徒か知らないが女子高生が集団で見に来ていた。
正直、あの頃は特に彼女がほしいとか思ったことはなかったので女子が見ていようがいまいがどうでもよかった。
『結婚』なんて言葉ははるかかなたの将来のことだと思っていた。
実家で悠々と暮らしていた当時のボクにとって異性の存在が気になるほど寂しい毎日ではなかったのである。本当にまだ子供だったのだろう。
それと同時に体育祭を見に来ていた女の子たちはボクの好みでなかったということもあったのかもしれない。
ボクは昔から清楚でおとなしい感じの女の子が好きである。しかしあの時来ていた女の子たちはみんな髪の毛は茶髪でギャルっぽいメイクをした女の子ばかりだったのだ。
体育祭と言っても1年の頃にやった仮装行列はなかった。理由は覚えていないがなかったという記憶がある。だから体育祭それ自体はさほど面白くもなかった。
むしろ体育祭の準備の方が面白かった。
体育祭でも看板を描くという作業があった。
クラスの中には看板をボクに描かせるとろくなことにならないという意見があった。
阪上に描かせると『ヤダモン』を描かれる……というのだ。
否定できない事実だが、結果的にボクは無事に看板を描くメンバーに入ることができた。
『ろくなことにならない』という声に対してボクは描くものを考えた。
と言えば実にかっこいいがそういう声がなければ遠慮なく、大きな看板に魔法少女の絵を描くつもりでいたのだから実に性質が悪い。
『ヤダモンはダメだからな』
ボクと同じく絵が好きな茨木くんは看板のメンバーになっていたからそんなことを言ってきた。
確かにその意見は分かる。
ただ……分かるには分かるのだが、セーラームーンが好きな茨木くんにそんなことは言われたくない。
こんなことを書くと茨木くんからはその事実を否定されるかもしれない。ボクだって『ヤダモン』が好きだったという事実は黒歴史としてあまり人には言いたくない歴史なのだ。茨木くんのセーラームーンも同じことだろう。
大体、暑苦しい男子高校生が魔法少女だの美少女戦士だの……わいわい言っている姿を想像してほしい。
もう想像を絶するぐらい見苦しい風景がそこにあるのではないだろうか。
保田くんでなくても『うわ――』と言いたくもなるだろう。
ボクは自分と同類である茨木くんに言われては自分を抑えるしかなかった。
もちろん茨木くんは自分からそんなことを言ってきたのだから『セーラーヴィーナスが書きたい』などということは間違えても言わなかった。
茨木くんの言葉がなければ間違いなくボクは独りよがりの看板を描いていたに違いない。
もちろん自分の中では、ある程度みんなに納得してもらえるような絵であるとは思っているのだが、それこそ独りよがりであり、周りが見えていなかったのである。
描くものを選ぶときは茨木くんと一緒に選んだ。
ボクは当時、ジャンプで連載されていた『ラッキーマン』のキャラクターで『スーパースターマン』というキャラクターを書くことに決めた。これならそんなにみんなに嫌がられることはないだろうと思ったのだ。
人に見てもらいたいものを創作するときは独りよがりになってしまってはいけないということを、ボクはもしかしたらこの時から学び始めたような気がする。
小説にしても絵にしても、高校生の頃は自分が描きたいものをそのまま描いていた。
だから保田くんあたりに嫌な顔をされていたのである。
描きたいものを描く、というのは創作の基本のような気がするが、自己満足で終えるならそれでもいい。
しかし創作しているといずれ、自己満足だけでは納得できず、創作した作品を人に見せたくなる。
特に絵とか小説とかの自己表現の世界になればなるほど、人に見せて、尚且つ多くの人に評価してもらいたいと思うのだ。
つまり、創作に向いている人間というのは創作物から自己表現をし、それを多くの人に見てもらいたいと心から願う人間なのである。
ただ……残念なことに創作には才能がつきまとう。
もちろん才能のない人間には創作したものを多くの人に評価してもらう機会などない。
しかし才能はなくとも、たとえ『下手の横好き』であっても、多くの人……とまではいかないが友人数人ぐらいには自分が創作したものを見てもらいたいし評価してもらいたい。
どうすればよいか?
そう。
そのためには独りよがりと他者が喜ぶものの中間を考えるのである。
自己表現の世界であるからこそ、作り上げたものが独特な世界観となる場合がある。
つまり創作とは基本的に『独りよがり』な世界なのである。だから他人からの理解を得ようとしてはいけないのかもしれない。
偉大な芸術家は他人の理解を得ようとはしない。
ピカソにしても岡本太郎にしても立川談志にしても……彼らには自分だけの世界観があり、そういったものを他人に認めてもらえようがもらえまいが、『これがオレの世界観だ』と力強く表現している。
その表現方法は奇抜であり、また多くの人を引き付けるものであるからして彼らは天才なのである。
そんな天才は世の中に数人いるかいないかである。
多分、数少ない天才以外、すべての創作に携わる人間はその狭間で悩んでいると思う。
皮肉な話だが、プロになればなるほど、実は自分の描きたいものより世間が求めるものを考える方がうまいのかもしれない。
体育祭の看板も手分けしてみんなで描いた記憶がある。
下書きはボクが描いて、みんなで色をつけていった。みんなと言っても仲の良い数人だが、この時の思い出はもう楽しかった思い出しかない。
前述したとおりであるが、過去というものは記憶が薄れるにつれて楽しかったことはさらに楽しく、嫌だったことはさらに嫌に感じるものだから不思議なものである。多分、楽しかったあの頃に帰っても自分が思っているほどは楽しくないし、嫌だった頃に戻っても思っているほどひどくはないのだ。
記憶とはそういうものである。
みんなで描いた看板は看板コンテストで3位に輝いた。
実に嬉しかった思い出である。
3年の体育祭が終わったのは秋口。
卒業まではまだ数か月あったが体育祭が終わった日の夕方、下校するとき、なんだか夕日が寂しく思えたのを覚えてる。
できればあと数年、高校生でいたいと思った。
しかしそんなことを口にだせばバカにされるのは分かりきったことなので口には出さなかった。
保田くんはどう思っていたのだろうか?




