文化祭で描いた看板
ボクが通った高校では体育祭と文化祭が1年ごとに交互に行われていた。
体育祭の折にはクラスごとに……文化祭の折には各部活動ごとに……自分たちをアピールするための看板を書く、看板コンテストなるものがあった。
体育祭でも文化祭でも高校3年間を通じて、ボクは看板を描くことに携わった。
こんなところで中学でいい加減にやっていた元美術部のスキルが生かされたのである。
イベントの度に学校の帰りが遅くなるのはボクにとっては実に楽しかったのを覚えている。
高校時代だけに限らず、人生において楽しい思い出と苦しい思い出とは常に隣り合わせである。記憶と言うのはあいまいで、なぜかどちらかに傾いた記憶が頭に残り、過去が美化されたり悪く映ったりする。
ボクにとって楽しかった過去だが、保田くんにとってはいい思い出ではないらしい。
ただ彼が高校の思い出を『楽しくない』と言っているのも、ボクが『楽しいことばかり』と言っているのも実のところはそのようなことであって、実際は楽しさ半分苦しさ半分だったのかもしれない。
そんなわけで看板コンテストのために遅くまで学校に残って、看板を書いてきたボクなのだが、特筆すべきは2年の時の文化祭で書いた看板と3年の時の体育祭で書いた看板である。
2年の時の文化祭の時は、クラスの出し物と部活動の出し物があって、準備期間中はどちらの準備してもよかった。それでボクは同じ鉄道研究部の保田くんや森くんと一緒に部室に行って、文化祭の準備をした。
後輩たちと森くんはNゲージの製作に取り掛かっていた。
ボクも保田くんも当初はそれを手伝う予定だった。
Nゲージがメインというのは確かなのだが、それだけではインパクトが少ないと言う話になったのを覚えている。断っておくがこれはボクが言い出したことではない。顧問の先生が言い出したことであり後輩たちも保田くんをはじめとするボクらもこぞって首を縦に振った事柄なのだ。
後輩の一人とボクは鉄道の利便性について考察したものを模造紙に書いてみてはどうかと言う話で盛り上がった。
『地下鉄が大船までのびたら便利だよね。』
『てゆうか大船と言わずにその先まで行ってくれたら面白くない?』
『神奈川県を縦断してくれるような路線があったら面白いよ。』
……たら……ればの妄想は話していて実に楽しい。それに出し物としても悪くない。
発表する出し物としては、若干『独りよがり』なものになりがちだが、そんなことを悩んでいる暇はあの時のボクらにはなかったし、何よりその企画は行けると思ってしまったから、どんどん進めてしまった。
ただ……出来上がりはさんざんなものだった。
『神奈川縦断地下鉄』と名付けた架空の路線は新横浜から戸塚を経由して大船、藤沢、辻堂、茅ケ崎と東海道線に乗り入れて湯河原まで行くというものである。正直、これなら戸塚で東海道線と乗り換えても変わらないではないか……と今になって思う。
当時、地下鉄は新横浜から戸塚までの路線しかなかったのでこういう発想になっているのだけど、どうせやるなら戸塚から泉区を経由して湘南台の先までつなげて、大和、海老名を経由し鉄道のなさそうな秦野あたりを走ってから最終的に箱根登山鉄道に乗り入れるということもできたな……と今になって思う。
やることはまだあった。
架空の路線だけでは大きな模造紙の紙面が埋まらなかったのだ。
それでボクは当時書いていた非常にくだらない鉄道ミステリーを書くことにした。
それについても反対意見はなかった。いつもは嫌な顔をする保田くんもその時ばかりは喝采の言葉をくれたのを覚えている。
このエッセイでは『下手の横好き』というタイトルで、ボクが当時書いていた恥ずかしい小説を多少紹介はしたので、模造紙に書いた鉄道ミステリーに関してはあえて公表はしない。今考えても実に稚拙な作品で、あんなものをよく堂々と張り出せたものだと今になっても顔から火がでるぐらい恥ずかしい。
さて、鉄道研究部としての出し物はNゲージの製作と架空の鉄道計画でなんとかまとまりつつあり、これでなんとか無事に終えることができるだろうと思っていた矢先の出来事だった。
『看板のためのベニヤ、持ってきたぞ――』
顧問の高山先生がけっこう大きなベニヤ板をもって部室に入ってきたときの衝撃をボクは未だに忘れることはできない。
『え? 看板??』
そこにいる部員の全員が同じことを思ったに違いない。
よく文化祭の注意書きを読んでいなかったボクらも悪いのだけど、そんなもん頭の悪い男子高校生に『ちゃんと読め』というのはほぼ無理な話ではないかとも思ったりもする。
それはともかく……
これだけやることが多い最中、看板を書かなければならない。
しかも文化祭まではあと今日を入れて2日しかないタイミングでの話だ。
書くものも決まっていなければ絵が描ける人間がいないというのも致命的な話である。
ボクが中学の頃、美術部だったという話は前述したが、そこまで絵がうまいわけではない。てゆうか絵が描けるなら今だって自分の書く小説に自分でイラストをつけることだって可能なわけだ。
つまりそれをやらないのだから、ボクの絵のスキルなどたいしたことないということだ。
つまりは絵が描ける人間がおらず、描く絵も決まっていない。
あるのは目の前の無機質で大きなベニヤ板のみ……
『Nゲージ班はそのまま作業続行の方がいいよね』
ボクの意見に一同が賛成してくれた。
手先の器用な森くんと後輩2人はNゲージ製作を続行することになった。
ということはどういうことか?
つまり、ボクと保田くんの二人が看板製作の担当になったわけである。
『何描けばいいのかな?』
『電車だろ』
保田くんが無責任なことを言う。
大体、『鉄道研究部』の看板だから鉄道を描くのは当たり前の話である。
ボクは大きなベニヤ板の下の方に、鉄道の絵を描いた。
それは下からさながら空に向けて飛んでいく龍のような感じで描いたのを覚えている。
どんな車両にしたかはよく覚えていない。
『こんな感じでどうかな?』
ボクは隣にいる保田くんに声をかけた。
『う――ん……なんか……これだけ?』
『うん……だよねえ……』
大きなベニヤ板に下書きした鉄道は確かに看板の下の方では存在感を発揮していたが、上の方には空白が多く、このまま下書き通りに色をつけると、ベニヤの上の方には何もない状態になり、実に物足りない看板になるのは間違いない感じだった。
そういう感覚はボクも保田くんも同じだった。
無機質な鉄道の絵には走り出すような躍動感と人の目を引く何かが必要だとボクは感じた。
『この辺に何か必要だよね』
『だよね。上に何も書いてないのはちょっとだよね……』
こんなことを言っているのだが、基本的に保田くんはさほど名案が浮かばなかったらしく、興味もなさそうだった。まったくもって責任感のない話である。そのくせに『これだけ?』というボクの意見には同感らしく、一応『どうしようか?』などと考えるふりをしている。お役所仕事というのはこのときの彼のようなことを言うのだろう。それにしても彼の責任感のなさは少なくとも高校時代は顕著だった。
今はどうだかわからないが、とにかく高校生の頃の行事すべてにおいて彼は『やる気』というものが感じられなかった。
『悩んでいても仕方ないか……』
ボクは図書室からアニメ専門雑誌である『アニメージュ』を借りてきていろいろ物色した。
そこで出会ったのが『ヤダモン』だった。
このアニメのどこに魅かれたかというと、色使いに魅かれたのである。緑を基調とした色使いが実に見事であり、うまくぼかしが入っている背景は魔法少女の不思議な世界観を醸し出していた。
アニメそのものやキャラクターが好き、というよりは色使いや曲線の使い方に魅せられたと言った方がより現実に近いのではないかと思う。
いかんせん魔法少女が好きな男子高校生となれば、今でこそ『『アニメ好き』なんでしょ』と一言で片づけられるが、当時はアニメに対してはもっと偏見が強かった。それに当時のボクは『ヤダモン』が好きだった理由をうまく話せなかったりしたからそれもあって当時、ボクはちょっと誤解して周りから見られていたのかもしれない。
『これでも描くか……』
『うわ――』
ボクが『ヤダモン』を看板に描き加えることを保田くんにボクが言うと彼は実に嫌な顔をした。
もちろんボクはそんなことには気付かない。
看板の製作には、けっこう時間がかかって、夜の20時過ぎぐらいまでかかったのを覚えている。
もちろん、時間がかかったのは鉄道とはまったく関係のないところだった。
『それは変なところにこだわりすぎたからでは……』
という保田くんの小さなつぶやきは誰の耳にも届かなかった。
不思議なものであの看板は意外にも好評であったことは記憶に残っている。
『一応』書いた鉄道が良かったのかもしれない。




