【魔法が生まれる瞬間】原初の憧憬
## 第一章 千年の授業
ざわ、と春の風が鳴った。
王都魔法学院・第七講義棟の高窓から、夕暮れが差し込んでいた。薄紫の光が石床に長く伸びて、黒板の前に立つ男の影を引く。百二十の椅子が全て埋まっている。四月の第一回講義——新入生も上級生も、誰もが首を伸ばして前を見ていた。
「魔法とは何か」
教壇のアルド・グレイシアが口を開いた瞬間、室内がしん、と静まり返った。
整った顔立ち。白銀の髪。三十代に見えて、実際には数えるのをやめてひさしい。千年、とは言わない。この世界で、そう口にできる人間はいない。
「誰か答えてみろ」
最前列で勢いよく手が上がった。茶色の巻き毛、大きな瞳。エラ・ヴィン、三年生。
「術式の体系化された運用です! 魔素を媒介として、自然界のエネルギーを変換・制御する技術体系——環境魔法論序説、第三版の定義では、魔法とは操作可能なエネルギーの——」
「正しい。教科書通りだ」
アルドは短く頷いた。ざわ、と小さなどよめきが走った。特待生の赤い襟章をつけたカルデン・フォーンが、後ろの席でぼそりとつぶやいた。
「教科書通り、ね」
「何か言ったか、フォーン」
「いいえ、先生。ただ——技術体系って、誰が作ったんでしょうか。正確には」
ざわ、と教室がまたゆれた。
「いい質問だ。他に誰か答えてみろ」
中段からルク・ドルナが手を挙げた。体格のいい、素直そうな顔の学生だ。
「賢者ウォーレンが魔力の法則を発見して、術師ベルナが体系化したはずです。魔法史・第一章に書いてあります」
「そうだな。他には」
右の席からフェナ・ウースが手を挙げた。おさげの、真面目な顔の女子学生だ。
「でも、ウォーレン以前の記録もあります。断片的ですが。術式も媒介もなく、誰かが願っただけで現象が起きたという——」
「一次文献ではない」と前からキエル・ナインが割り込んだ。眼鏡をかけた、少し声の大きな男子だ。「後世の追記が大半で、学術的信頼性は——」
「学術的な話は後でしろ、キエル。フェナ、続けろ」
フェナがぱ、と顔を上げた。
「……ウォーレンが発見したのが『法則』だとしたら、最初にその法則を動かしたのは別の誰かのはずです。でもその人の名前は、記録に残っていない」
「なぜ残っていないと思う」
静寂。
エラが、もう一度手を挙げた。
「……消したんじゃないかと思います。本人が。図書館の古い口承記録に、一つだけ注釈がありました。『彼の名前を記すことは、彼の意思に反する』と」
ぱ、と教室の空気が変わった。カルデンが顔を上げる。ルクが眉を寄せる。フェナが隣のオラン・テスと目を合わせた。
「今日はここまでだ」アルドは黒板に一行書いた。
〈魔法=技術=道具〉
「次回までに考えてこい。道具には作った者の意図がある。魔法を最初に作った者は、何のためにそれを作ったか。以上」
椅子を引く音。笑い声。走る足音。ざわめきとともに、百二十が散っていく。
「先生」
振り返ると、エラがまだそこにいた。入り口でソフィ・レンが心配そうに待っている。
「少し、よろしいですか」
「言いたいことがあるなら言え。遠慮は時間の無駄だ」
「魔法って……本当に技術なんですか」
アルドの手が止まった。
「どういう意味だ」
「術式も媒介もなかった時代に、ただ誰かが『願った』だけで何かが起きたなら——それは技術ではなく、感情だったんじゃないかと」
「おとぎ話だ」
「……そうでしょうか」
エラは真っ直ぐに見てくる。アルドはその目の中に、一瞬だけ——千年前の花畑を見た。白い花。風に揺れる草。あの手の温かさ。
打ち消した。
「今日はここまでだ」
廊下に出ると、向かいの第八棟からマーシャ・タード教授が出てきた。五十代の白髪交じり、実技担当の女性だ。
「また居残り相手ですか、アルド先生。ヴィンの子は耳に挟んだことがある。お父上が原典魔法研究の第一人者だったとか」
「父親が」
「五年前に急に亡くなったと。何か大きな研究に手を出して、それが原因だったとか」
アルドは一瞬だけ足を止めた。
それだけだった。
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## 第二章 地下の声
夜の王都魔法省に、表と裏がある。
地下三階に続く階段は、地図に載らない。「原典局」——その存在を知る者は省内でも十数名に過ぎない。
「進捗を」
グレイ・ヴァルン局長は丸い眼鏡の奥から、穏やかな目で部下を見回した。四十代の学者風の男。常に笑顔を絶やさない。だが原典局の七名は誰も、彼を優しい上司とは思っていない。
「魔法根源の解析、第七フェーズに移行しました」
副局長のベント・クレイが立ち上がった。もともとは王立魔法研究所の優秀な術式研究者だ。
「ただし問題があります。どうしても最深部に触れることができない。術式的な壁というより——もっと根本的な何かが、解析そのものを弾いています」
「構造的干渉だね」グレイは椅子に深く腰掛けた。「術式以前の、純粋な意思の核が、我々の全てを弾いている」
「まるで……意思を持っているかのような」
「持っているかもしれない」
どん、と沈黙が落ちた。
隅で書類を整理していたリルが、思わず顔を上げた。二十三歳、入局したばかりだ。
「……グレイ局長。魔法根源に意思がある、とはどういうことですか」
「簡単な話だよ、リル」グレイは穏やかに言った。「魔法を最初に生み出したのは、感情だ。術式ではない。その感情が、千年を経ても核として残っている可能性がある」
「それを……取り出す、と」
「解析するだけだよ。危険なことは何もない」
リルは頷いた。腑に落ちない顔で。
入り口近くで腕を組んでいた大柄な男——ブレイン、元傭兵崩れのグレイの実行部隊長——がぼそりと言った。
「で、局長。例の教師はどこです」
「学院に戻ってきているよ」グレイは静かに言った。「千年も生きていれば、結局同じことをする。教えることが好きなんだ、あの人は。百年周期でね」
「接触の準備を」
「丁寧に、礼儀正しく、学術的な協力要請という形で。まずはそこからだ」
ぎい、と扉が開いた。上席官のヴァンス・ロードが顔を出した。六十代の大柄な男、魔法省第一局の局長だ。
「グレイ。例の計画、省議で承認が下りた。ただし穏便にやれ。騒ぎになれば私も守れん」
「もちろんです」グレイは頭を下げた。「穏便に、学術的に」
ヴァンスが去ると、ブレインがぼそりと言った。
「穏便に、ね。で、応じなかったら」
グレイはゆっくり立ち上がった。資料の端に、一つの名前が書いてあった。「ヴィン・ラトル——旧王立魔法研究所・第三席研究員。五年前没」。
「……ラトル氏の研究資料を、学院図書館から回収する。先にそちらを押さえておこう」グレイは静かに言った。「根源に最も近づいた研究者の記録だ。それがあれば——直接聞かなくても、かなりのことが分かる」
リルはその言葉を聞いて、思わず俯いた。
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## 第三章 花畑の記憶
千年前の話をしよう。
アルドという名の青年が、小屋の中で妹の手を握っていた。
外は春だった。窓の向こうに白い花が咲き乱れている。あそこをリリアと走りたかった。もう三日も熱が下がらない。リリア、とアルドは名を呼んだ。返事がない。ぴく、とも動かない。
「リリア」
もう一度。
村の薬師ゴレム老人は首を振った。治せない病だ、と表情が言っていた。隣村から来た医術師のナンも、同じ顔をした。アルドは二十歳だった。父も母もなく、兄弟はリリアひとりだ。
窓の外で、白い花が揺れていた。
二人でよく走った。あの丘の上から風を浴びながら笑った。リリアはいつも転んで、泥だらけになって、それでも笑っていた。その笑顔が好きだった。
もう一度だけ——
花畑を、一緒に走りたかった。
その瞬間、手から光が出た。
白い、温かい光。リリアの顔に色が戻った。呼吸が深くなった。
「……お兄ちゃん?」
声がした。
アルドは声を殺して泣いた。膝をついて、膝をついて。
それが、世界で最初の魔法だった。誰かにもう一度笑ってほしい——ただそれだけの、祈りだった。
リリアが死んだのは、それから十年後だった。魔法は彼女を救い続けたが、世界の全てから救うことはできなかった。深い冬の朝、彼女は「お兄ちゃん、外に雪が積もってるね」と言い、そのまま目を閉じた。穏やかな、眠るような最後だった。
アルドは、そのとき既に不老不死になっていた。魔法の代価なのか、魔法の根源そのものになったからなのか、今でもわからない。
ただ、世界が続く限り、彼だけが残り続けた。
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## 第四章 痕跡を辿る者たち
翌朝。アルドが学院の廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「アルド先生」
振り返ると、白い上着の男が立っていた。魔法省の金色の徽章。丸眼鏡。穏やかな笑顔。後ろにベントとブレインとリルを連れている。
「はじめまして。グレイ・ヴァルンと申します。魔法省の者です」
「何の用だ」
「少しお話を。魔法根源研究についての学術的なご協力を——」
「断る」
「理由を聞いてもよいですか」
「あなたが本当に聞きたいことを聞けばいい」アルドは静かに言った。「魔法省の人間が、一介の教師に何の用がある」
グレイは目を細めた。笑顔は消えない。
「千年前の魔法の成立過程について、ぜひご意見を伺いたく」
「知らない話だ」
「そうですか」グレイは会釈した。「では改めて。時間はいくらでもありますから」
廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返った。その目が笑っていた。
アルドは動かなかった。ざわ、ざわ、と日常の声が廊下に戻ってくる。
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同じ日の夕方。
図書館で、ブレインとベントがパルマ老人に向かい合っていた。
「原典文書の閲覧許可をいただきたい。省の公文書をお持ちしています」
「学院内での閲覧には、学院長のサインが必要です」パルマは微笑んだ。穏やかだが、一歩も引かない。八十がらみの白髪の司書だ。「省の公文書であっても、例外ではありません」
「これは——」
「法律の話ですね」パルマはにこりと笑った。「私は六十年この仕事をしております。学院図書館の法的地位については、多少の自信がありますよ」
ぱん、とブレインが机に手を打った。パルマは眉一つ動かさなかった。
「お帰りください。学院長の承認をお持ちになった際には、喜んでご案内いたします」
入り口の陰で、エラがその全てを見ていた。隣にミア・トースがいる。エラの同期で図書館係の娘だ。
「あの人たち……省の人?」ミアが耳元でつぶやいた。
「うん。昨日、先生に接触してきた人たちと同じグループだ」
「何を探してるんだろう」
「……わからない」エラは唇を噛んだ。
その夜、ミアはソフィ・レンに伝えた。ソフィはルク・ドルナに伝えた。ルクはカルデンに伝えた。カルデンは学生会長のレン・ハルトに伝えた。学院の廊下が、じわじわとざわめき始めた。
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## 第五章 夜の図書館
深夜、午前二時。
図書館に灯りがあった。
エラが黄ばんだページを繰っている。膝の上に三冊のメモ帳。机に五冊の参照本。冷めた茶のカップ。
扉がぎ、と開いた。
「こんな時間に」
「——先生!?」
エラは飛び上がった。アルドが書架の陰から歩いてきた。パルマが鍵を貸してくれている。夜の廊下を歩いていて、灯りに気づいたのだ。
「昨日の省の人、先生のことを探していますよね」エラは単刀直入に言った。「図書館でも資料を探していた。お父さんの研究と関係がありますか」
「なぜそう思う」
エラは一枚の紙を取り出した。
「お父さんが亡くなった時の遺品の中に、大量の研究ノートがありました。ほとんどは魔法根源の研究です。でも——この一枚だけ、研究ノートじゃなかった」
アルドは紙を受け取った。
『学院に白銀の髪の教師が戻ってきたら、この研究は全て焼け。特に根源座標の計算は残してはならない。彼が安全でいられなくなる。魔法省内に、根源を奪おうとしている者がいる。私には止める力がない。だが、証拠を残さないことだけはできる』
ヴィン・ラトルの字だ。間違いない。
「……焼け、とある」
「全部は焼けなかったんです」エラは言った。「お父さんが急に亡くなったから。でもほとんどは焼けていた。お母さんのセリが言っていました——入院する前日の晩、一人で書斎で紙をずっと燃やしていたって」
アルドは椅子を引いて、向かいに座った。
「あなたの父親は私のことを知っていた。一度だけ、直接会ったことがある。十年ほど前に」
「……何を話したんですか」
「魔法の根源に触れれば触れるほど、人は何かを失う、と彼は言った。私は何も答えなかった。答えられる立場ではなかったから」
「お父さんは——省の人に何度も呼ばれていたそうです。ずっと断っていたけど、最後のころは」
「接触が激しくなったのか」
「お母さんは詳しく教えてくれませんでした。ただ、お父さんが痩せ始めた頃から、省の人が家の前に来るようになったと」
しん、と静かだった。ランプの炎がゆれた。
「先生。もう一つ残っていたメモがあります」
別の紙を出した。
『始原の魔法使いは術式を使わない。なぜなら術式は、祈りの翻訳に過ぎないから。原文は今も燃え続けている。根源は感情そのものであり、解析は不可能だ——なぜなら感情は複製できないから。彼が千年、守り続けているものを、どうか誰にも渡してはならない』
アルドは長い間、その紙を見ていた。
「……守り続けているものを」
「お父さんは、先生のことを守るべき人だと思っていたんだと思います。自分の研究を焼いたのも——先生のために」
アルドは答えなかった。
「先生。一つだけ聞いていいですか」
「……言ってみろ」
「魔法って、本当はどこから来たんですか」
アルドは天井を見た。石のアーチ。千年前とは違う建物。でも夜の静けさは同じだ。
「祈りだ」
「……え」
「術式でも、理論でも、体系でもない。ただ、誰かに笑っていてほしいと思った。それだけだ」
「……その人は、今でも笑っていますか」
「死んだ。千年前に死んだ。それだけの話だ」
エラは何も言わなかった。ランプの炎だけが揺れた。
「帰れ。夜中に一人でいるな」
「先生は——」
「散歩だ」
「嘘ですね」
「散歩だ」アルドは立ち上がり、外套の袖を直した。扉の前で、一瞬だけ足を止めた。「ヴィン」
「はい」
「父親の研究を、一人で続けるな」
「……でも」
「続けるなら——私のそばで続けろ。それだけだ」
それだけ言って、夜の廊下に消えた。エラは長い間、そこに座ったまま動かなかった。
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## 第六章 静かな朝の戦争
三日後の朝。
学院長ターナー・ソルの執務室に、魔法省から公文書が届いた。
七十二歳の老学院長は、書類を一読して副学院長のクレス・バルムを呼んだ。二人で読み、黙って顔を見合わせた。
「……これは」
「協力要請だ」とターナーは言った。「断れば資金援助の見直しを検討すると明記してある」
「脅しではないですか」
「公式の書類だ。脅しとは言えない」
「しかし内容は——学院の特定教員への調査協力、個人情報の提供、任意同行……実質的には強制では」
「そうだ」
ターナーは窓から学院の庭を見た。芝生を歩く学生たち。春の光の中で、いくつかの笑い声が届く。学院長になって四十年、学院にとって大切なものは変わらない。
「アルド先生を呼べ」
その頃、廊下ではレン・ハルトが早足で歩いていた。学生会長の仕事で執務室付近を通りかかり、秘書のダナ・フォーから学院長の険しい顔を聞いていた。
「何かあったんですか」
「省から書類が来たようで……」
レンはカルデンを探した。
「お前、なんか情報持ってないか」
「情報は持ってないけど」カルデンは欄干から外を眺めていた。「昨日、パルマ爺さんが省の人たちを追い返した。今日、学院長室に書類が届いたのなら——たぶん繋がってる」
「つまり」
「圧力をかけてきてる、ってことだよ」
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アルドは五分で執務室に来た。書類を読んだ。一行ずつ。ため息もつかなかった。
「学院長。この書類に判を押しますか」
「押さなくていいなら、押したくはない」
「では押すな。三時間だけ待ってくれ」
「どこへ行く」
「解決してくる」
「一人でか」
「千年、ひとりでやってきた」
ターナーはアルドをじっと見つめた。七十二年生きてきて、これほど重いものを背負った目を見たことがない、と思った。
「……三時間だけ待つ。それを過ぎたら私が動く」
「ありがとう」
扉を開けると、廊下にエラが立っていた。聞こえてしまった顔だ。後ろにソフィが来て、ミアが来て、ルクが来て——いつのまにかカルデンとレン・ハルトまでいる。
「聞いていたか」
エラが代表して答えた。「……ちょっとだけ」
「帰って授業の予習でもしていろ」
「先生、一人で行くつもりですか」
「さっきそう言った」
「危なくないですか」
「千年、危なかったことはない」
「嘘ですね」
「……」
アルドは廊下を歩き出した。エラがついてこようとする気配がある。
「来るな」
「……はい」
足音が止まった。アルドは振り返らなかった。廊下の角を曲がる前に——ちらりと、振り返った。エラがまだそこに立っている。泣きそうな、でも泣かない顔で。
アルドは無言のまま、角を曲がった。
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## 第七章 根源の対話
夜。
アルドはひとりで王都の裏通りへ出た。
石畳の路地。ひゅ、と夜風が鳴る。灯りの少ない旧倉庫街。突き当たりに、グレイ・ヴァルンがすでにいた。ベント、ブレイン、リル、もう二名の研究員——計五人だ。旧倉庫の壁際に、術式陣が淡く光っている。封印術式だ。
「来ると思っていました」グレイは穏やかに言った。
「当然だ」
「三時間のうちに来ましたね。学院長のことを、大切にしているんですね」
「余計なことを言うな」
「では効率よく話しましょう」グレイの声から、穏やかさが一枚剥がれた。「単刀直入に言います。魔法の根源を教えてください。術式でなく、概念として。最初の魔法が生まれた時の感情構造の核——それさえ分かれば、我々は同じ魔法を体系として再現できる」
「再現して、どうする」
「インフラです」グレイの目が、初めて別の光を持った。「現代の魔法は術式に依存しすぎている。複雑すぎる。訓練が必要すぎる。根源の感情構造を解析できれば、もっとシンプルに、もっと強力に、もっと大量に——術式なしで世界に魔法が行き渡る」
「生産、と言えばいい」
「言葉の問題です」
「いや。本質の問題だ」アルドは一歩、前に出た。「グレイ・ヴァルン。あなたは誰かを失ったことがあるか」
グレイの表情が、わずかに揺れた。
「関係のない話では」
「ある」
沈黙が落ちた。
「根源を手に入れようとするとき、人は必ず『誰かのために』という名目を作る。インフラのため。国家のため。あるいは——誰かを守るために、と」
グレイは眼鏡を押し上げた。長い間、答えなかった。
「……娘がいました」と、グレイはようやく言った。「八年前に死にました。魔法実験の事故で。名前はカリンと言いました」
リルが顔を上げた。ベントが俯いた。ブレインだけが、変わらぬ顔で腕を組んでいた。
「娘の死の原因は、術式の不完全さでした」グレイは続けた。感情を圧縮している、平板な声だ。「もっと根源的な魔法があれば、あんな不完全な術式を使わずに済んだはずだ。根源さえあれば——誰も死なずに済む、と思った」
「カリン、か」アルドは言った。「覚えておこう」
ぎ、と石畳が鳴った。
「あなたが探しているものは存在しない」アルドは続けた。「魔法は、妹にもう一度笑ってほしかったから生まれた。あの祈りは世界に二つとない。同じものは二度と作れない。なぜなら——その妹は、もう死んでいるからだ」
「近似値を作れる」グレイの声に焦りが滲んだ。「十分の一でも百分の一でも——」
「近似値の祈りで動く魔法がどうなるか、考えたことがあるか」
「強力であれば——」
「根源が壊れる」
静寂。
「魔法の根源は今も動いている」アルドは言った。「千年前の祈りが、今も全ての魔法の底に流れている。それを解析しようとすれば——今この瞬間、世界中で使われている全ての魔法が止まる。カリンの死を防ごうとして、あなたはカリンと同じ死を世界中に撒こうとしている」
グレイが息を呑んだ。
「……それは」
「事実だ。証明できるか、と聞くなら——見ていろ」
アルドは右手を上げた。
何も光らなかった。術式も詠唱も媒介もない。ただ、古い古い感情が掌に集まってきた。千年分の、妹への思い。
もう一度だけ——花畑を、一緒に走りたかった。
どん、と空気が揺れた。
地面が揺れたのではない。「魔法の構造そのもの」が揺れた。グレイの周囲の封印術式が、音もなく崩れた。ベントの術式陣が砂のように散った。リルが展開しようとした防御が、起動する前に霧散した。研究員二人がたたらを踏んで後退した。ブレインだけが動かなかった。ただ、じっとアルドを見ていた。
「……っ」
グレイが初めて言葉を失った。
「これが千年前の魔法だ。術式がない。詠唱がない。媒介がない。ただ——祈りがある。そして祈りは奪えない」
「どうやって……」
「どうやって、ではない。なぜかだ」アルドは手を下ろした。「妹が好きだったから。それだけだ」
長い沈黙が落ちた。
グレイはゆっくりと眼鏡を外した。レンズを拭く。かけ直す。その動作だけが、妙に人間らしかった。リルが小さく泣いていた。ブレインが初めて腕を解いて、空を見上げた。
「……あなたは、千年間ずっと」
「ずっとだ」
「それは……辛くはないのですか」
「辛い」
答えは即座だった。
「ならなぜ——」
「辛くても、続けることがある。それが最初の魔法が教えてくれたことだ」
ざわ、と夜風が路地を抜けた。
グレイはしばらく黙っていた。それから懐に手を入れ、一冊のノートと数枚の紙を取り出した。
「ヴィン・ラトル氏の研究資料の写しです」と言った。「五年前、私が接触した際に強引に一部を押収しました。その後、彼は体調を崩して——私の強引なやり方が、直接ではなくても、彼の死の遠因になったかもしれない」
グレイはそれをアルドに差し出した。
「返します。写しだけです。原本は既に焼いた。彼が自分で焼いたものと合わせれば、省に残る資料はなくなる」
アルドは受け取った。
「なぜ今、これを」
「……カリンが死んだ時、誰かが同じことをしてくれたとしたら、私は救われたと思う。謝罪にはならない。でも——できることを、する」
アルドは一瞬だけ目を閉じた。
「引き上げます」とグレイは言った。「今回の件は私の越権でした。省に戻り、局の活動を一時停止します」
「それだけか」
「それだけです。ただ——一つだけ聞かせてください」グレイはアルドを見た。「あなたは千年間、何のために生きているんですか」
アルドは答えなかった。
代わりに、指先で空中に小さな形を描いた。白い光が一瞬だけ現れた。小さな花の形。風もないのに、ほんの少しだけ揺れた。
それが答えだった。
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グレイたちが路地を去ってしばらく、一つの物陰が動いた。
エラだ。
来るな、と言われた。でも来てしまった。全部聞いていた。
「……先生」
アルドは振り返らなかった。
「来るなと言った」
「……はい」
「全部聞いていたか」
「……はい」
長い沈黙。
「省の人も、誰かを失ったんですね」エラは静かに言った。「娘さんを」
「ああ」
「だから先生は、あの人を……」
「許す必要はない。ただ——同じ痛みを知っている者に、怒る気にはなれない」
エラは何も言わなかった。夜風がひゅ、と吹いた。
「先生はずっと一人で——千年間、ずっと」
「ずっとだ」
「……辛かったんですね」
「辛い、と言った」
「過去形じゃなくて、今も辛いんですね」
アルドはようやく振り返った。
エラが泣いていた。声もなく、ただ涙が流れていた。
「……泣くな。関係のない話だ」
「関係あります」エラは袖で目を拭った。「お父さんが先生のために研究を焼いて——先生は千年間一人でいて——誰も誰も、誰も——」
「ヴィン」
「はい」
「泣くな。そういう顔は、誰かに似ていて——困る」
エラは泣き止もうとして、泣き止めなかった。
アルドは空を見た。夜空に星が出ている。千年前と同じ星だ。配置だけが少し違う。
「帰れ」と最終的に言った。「明日、授業がある」
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## 第八章 余韻
翌朝。
グレイ・ヴァルンは魔法省に戻り、原典局の活動は無期限停止となった。学院長ターナーのもとに届いた公文書は「事務的手続きミスによる取り消し」という理由で撤回された。誰も何も説明しなかった。学院の日常が、静かに戻ってきた。
第七講義棟。春の朝の光。
アルドが黒板に向かっていると、エラが一番乗りで入ってきた。後ろからソフィ、ミア、ルク、カルデン。いつの間にかフェナとキエルとオランまでいる。
「先生、顔色が悪いです」エラが言った。
「いつもこういう顔だ」
「昨日、何かあったんですか」
「散歩してきた」
「……また嘘ですね」
「散歩だ」
カルデンが腕を組んで、ため息をついた。「省の圧力が引いたのは確かだ。昨日の午後から、学院長秘書のダナさんが廊下で笑ってた。あの人が笑うのは事態が解決した時だけだから」
「情報が早いな」とルクが言った。
「学院長秘書の機嫌と成績の相関は最重要データだ」
「何のデータだよ……」
ざわ、と朝の光が差し込んできた。
エラはかばんから一枚の紙を取り出した。
「先生に見せたいものがあります」
「何だ」
「お父さんの最後のメモを全部読み直しました。根源の解析方法じゃなかったんです、最後は」
「何を書いていた」
「『魔法を学ぶ者へ』という題で——」エラはゆっくりと読んだ。「魔法は技術ではなく、誰かへの贈り物だ。自分のために使えば使うほど根源から遠ざかる。誰かのために使うとき、初めて本当の魔法になる——って」
アルドは黒板を向いたまま、動かなかった。
「お父さん、知っていたんでしょうか」
「……知っていたのかもしれない」
「先生のことを、ですか」
「魔法のことを」
エラはしばらく黙った。それから、顔を上げた。
「先生。私、もっと魔法を学びたいです。術式の外側を。本当の意味での——魔法を」
「簡単ではないぞ」
「はい」
「苦しいぞ」
「はい」
「意味が分からないまま、何年もかかるかもしれないぞ」
「はい!」
迷いがない。その声が、どこか遠くの声に似ていた。
カルデンが、ぼそりとつぶやいた。「……俺も、聞いていいですか」
「フォーン。あなたは素直ではないと思っていたが」
「素直ですよ。ただ、聞くタイミングを考えるのが苦手なだけです」
ルクが手を挙げた。「俺も!」
ソフィとミアが顔を見合わせた。「……あたしたちも」
フェナが静かに言った。「私も、聞きたいです」
アルドは黒板に向き直った。
「……覚えておけ」
「はい」
「魔法とは祈りだ。術式は、その祈りを他者が使えるようにするための翻訳に過ぎない。翻訳がどれだけ完璧でも、原文の強さには敵わない」
エラがノートに書き留める。カルデンが書く。ルクが書く。ミアが書く。フェナが書く。ペンが走る音が重なる。
「では……先生はいつも、何に祈っているんですか」
アルドは答えなかった。
窓の外。春の風に、どこかで白い花びらが舞っていた。
千年前も、こうして花が散った。あの丘の上で、リリアが転んで、泥だらけになって、それでも笑っていた。その笑顔が好きだった。
アルドは誰にも見えないように、指先で小さく何かを描いた。空中に光った。消えた。また描いた。消えた。その動作を、彼は千年間繰り返してきた。
小さな、白い花の形だった。
「先生?」
「なんでもない」
窓から入った花びらが、アルドの手のひらに落ちた。白い、薄い、すぐ消えてしまうもの。
そっと、指を閉じた。
——リリア。
今日も、ここで生きているよ。
「始めるか」
「はい!」
学院の鐘が鳴った。授業が始まった。
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## エピローグ
魔法の歴史は、誰もが知っている。
千年前、始原の魔法使いが最初の奇跡を起こした。その後、賢者ウォーレンが魔力の法則を発見し、術師ベルナが術式を体系化し、初代学院長カントが学校を開き、魔法省が生まれ、今の世界ができた。
だが、始原の魔法使いが何を思って奇跡を起こしたか——それを本当に知っている者は、世界でたった一人だけだ。
記録に残る言葉は一つだけだ。
「もう一度、一緒に花畑を走りたかった」
それが、世界で最初の魔法だった。
そして今日も、王都魔法学院の第七講義棟では、白銀の髪の教師が黒板の前に立っている。
学生たちは知らない。あの穏やかな教師が、千年分の祈りを胸に抱えていることを。その祈りが、今も世界中の魔法の根底で、静かに燃え続けていることを。
学院の庭で、春の花が風に揺れた。
ざわ、と。
おわり




