第70話 起動:ベヒモス
——灰に埋もれていた地面がゆっくりと割れていく。
UDFとカルディアが撃ち合っていた戦場から少し外れた一角。導光ラインも通っていない「灰原の丘」は、灰と風と瓦礫だけが残る死んだ土地だった。
その下に世界の「天井」が眠っていたことを誰も知らなかった。
亀裂が走り、積もった灰が崩れる。下から黒鉄色の板が押し上がり、ヘルマーチのRF-21Hの列がその縁を囲むように展開した。高負荷K-LSLに火を入れた機体が灰を踏み固め、包囲線を作る。
「本当に全戦力をここに突っ込んできやがったのかよ」
隊員の声がマイク越しに漏れる。
割れ目の向こうにはUDFの砲兵陣地とカルディアの再編成中の戦列が見えていた。だがどちらもこの穴に手を伸ばす余裕は残っていない。UDFは司令部を潰され前線が半ば崩壊、カルディアも第3強襲打撃群が被害の洗い出しと補給に追われている。
——その間にヘルマーチは目的地へ辿り着いた。
黒鉄の板が完全に表面を出す。ただの蓋ではない。巨大施設の天井そのものだった。装甲パネルの隙間から古い誘導灯の光が細く漏れる。
灰の上に3つの影が伸びた。
先頭を行く双発ヘリの左右後方をRF-19A《グラーチ》が2機、随伴するように飛んでいる。アストレイア社のマークをつけたヘリと護衛機がヘルマーチの包囲線の内側へ低く降りた。
風と噴き返しが灰を巻き上げ、ヘル・ファルコンの装甲を白く汚す。ヘリは着地姿勢へ移り、グラーチ2機は少し上でホバリングしながら周囲を警戒した。
側面のタラップが下りる。白衣と簡易防護服の数人がゴーグル越しに周囲を確かめながら降りてきた。
「ここまで見事に掘り起こしてくれるとは。さすがと言うべきだ」
先頭の男が口元だけで笑う。社章入りのジャケットに名前タグがあるが灰と硝煙で読み取れない。
黒いコートの男が1歩進み出る。コンラートだ。
「約束だ」
コートのポケットに手を入れたまま淡々と言う。
「施設の封印を解く。ベヒモスを起動させる。そのために必要な技術情報はすべて渡したはずだ」
「ええ。情報は受け取りました。あとはこちらの仕事です」
主任らしき研究者がうなずいた。
「ただし管理権限の登録は慎重に。最初に登録された"声"が当面のマスターになってしまいますから」
「承知している」
コンラートはそれ以上言葉を足さなかった。
——蓋の縁に接合部のマーカーが浮かぶ。ヘルマーチの工兵がRF用の大型ジャッキとカッターを差し込み、古いロックボルトを1つずつ切り離していく。破断音と圧が抜ける低い唸りが続いた。
最後のロックが外れた瞬間天井板全体がわずかに沈む。
「差圧、解放。内部と外部の差圧がゼロになりました」
アストレイアの研究者が端末のモニタを確認する。灰まみれの工兵がコンラートに短く親指を立てた。
「開けるぞ」
コンラートが1言だけ告げる。
中央のラインが淡く光り、固着していたシール材が割れる。重い装甲が左右にずれ始め、地下から冷たい空気が吹き上がった。埃と機械油、閉ざされた施設の匂いが混じっている。
グラーチ2機がゆっくり高度を落としヘリの少し前方で着地した。
「ったくよりによってヘルマーチのど真ん中で棒立ち待機かよ」
片方のコックピットでパイロットがぼやく。声は機内回線にだけ流れた。
「趣味が悪い現場だな。UDFもカルディアもまとめてめちゃくちゃにしてやがる」
「給料の振込先が変わらないなら上がどこと握ってようが関係ないって、課長は言ってたけどな」
もう1機のパイロットが乾いた調子で返す。
「わかってる。わかってるけどさ、あいつらと肩並べてんのは落ちつかねぇ」
視界の端でヘル・ファルコンの列が崩れた丘の縁を固めている。灰色の空の下、待機時間だけが伸びた。
「さっさと帰りてぇ」
そこで短い警告音が鳴る。
「ん?」
グラーチの外部カメラが自動で振り向いた。背後から近づく熱源。識別信号はヘル・ファルコン。
「おいそっちも後ろ——」
言い終わる前に影が画面いっぱいに広がった。ヘル・ファルコンの右腕が滑るように振りかぶられ、大型ブレードの先端が自機の操縦区画へ伸びる。
「は?」
前面装甲がひしゃげ、金属がねじ切れる音がした。ブレードが胸部装甲ごと操縦区画を貫き、コントロールパネルが一撃で沈黙する。機体は膝から崩れ落ちた。
「何やって——」
隣機のパイロットが反射的に頭部を振る。視界に映ったのは仲間機の胸を貫いたヘル・ファルコンと、その後方へ回り込むもう1機。
横から突き出されたブレードが装甲を叩き割る。表示は一瞬で暗転し、機体制御が途切れた。
2機のグラーチが同時に灰の上へ倒れ込む。細いフレームが軋み、脚が折れ、薄い装甲板が灰を跳ね上げた。
ヘル・ファルコン2機はブレードを引き抜くと何事もなかったかのように隊列へ戻っていく。灰に半分埋もれた飛行実験機の残骸に誰も目を向けなかった。
*
地下施設の中枢は外の死んだ世界とは別ものだった。
壁一面のコンソール。床を這うケーブル。天井から垂れ下がる機械の群れ。だがどれも薄く埃を被り、長いあいだ触れられていない。
「人がいた痕跡が薄いな」
ヘルマーチの隊員がぼそっと漏らす。
コンラートは返事をしない。視線は部屋の中央へ吸い寄せられていた。
円形のホロ投影装置の台座。周囲の床にだけ新しい擦り傷が集中している。誰かが何度も立ち、倒れ、また立ったような跡だった。
主任研究者がアストレイア製の端末をコンソールへ接続する。
「旧レゾナンス管理系統、オンライン。やはり我々の規格ではない。だが最低限のインターフェースは噛ませてあります」
指が止まる。
「コアAIへアクセス。起動プロンプトを要求します」
沈黙ののちホロ投影台の縁が淡く光った。
《管理核ユニットを起動します》
声が響く。人間の声に似ているのにどこか深度がおかしい。低すぎも高すぎもしない音が部屋に均等に広がった。
《最初の管理者を登録してください》
主任研究者が息を止める。
「出ました。想定どおりです。この第一声の登録で以後の制御権限が決まる」
台座へ1歩出ようとして——肩を掴まれた。
掴んだのはコンラートだ。
「何か?」
「勘違いするな」
コンラートは主任の胸ぐらを軽く押し返す。
「お前たちは"鍵穴の位置"を教えた。それだけだ」
コートの内側で黒い金属が光る。
銃声は1発だけだった。
主任の身体が崩れ落ち、額の中央に小さな穴が空く。
「っ——!」
後ろの研究員が声を上げかけた瞬間ヘルマーチの隊員たちが動いた。迷いのない射撃。廊下で白衣が次々に倒れる。
乾いた音が消え、部屋に残ったのはヘルマーチの呼吸だけだった。
コンラートは死体に目も向けずホロ台座の前へ出る。
《最初の管理者を登録してください》
同じフレーズがもう1度繰り返された。
「コンラート」
男ははっきり名乗る。
「新規管理者登録だ」
《音声パターンを記録します》
光が一瞬だけ強くなる。コンラートの声とAIの平坦な声が奇妙に重なった。
《管理者コード:01。コンラートの音声をベヒモス制御系統の最上位命令権限に登録しました》
——その瞬間だった。
室内の空気が一拍ずれた。落ちかけていた埃が一瞬浮き、落下が遅れる。足元の感覚が揺らぎ、音源の方向も定まらない。コンソールの表示が二重に滲み、ホロ台座の光が影を2本落とした。
「今の何だ」
隊員の声がかすれる。誰かが咳き込み、口元を押さえた。吐き気を訴える者もいる。
だがコンラートは動かない。
《以後、ベヒモスの起動・移動・火力運用は管理者の口頭指示に従います》
コンラートの口元がわずかに持ち上がった。
「聞こえたか」
それは隊員へ向けた言葉ではなかった。
「ベヒモス、起動準備」
コンラートはゆっくりと言う。
「拘束を解除しろ。地表まで上昇。外界への露出を開始」
《了解。ベヒモス起動シーケンスを開始します》
照明が一瞬落ち、次の瞬間床下から重低音が響き始めた。部屋全体がそれに合わせて微かに揺れる。
*
地上。
灰で覆われた街で風が止まった。落ち続けていた粉じんだけが宙に取り残される。
——静かすぎた。
いつもあるはずの灰の音も、瓦礫の遠い崩落音もまとめて消えた。
瓦礫の陰に伏せていた偵察兵が口元のマイクへ指を伸ばす。
「こちら——」
声が続かない。空気の抵抗が変わり、言葉だけが滑った。
次の瞬間灰が逆に流れた。
地面すれすれを這っていた灰が引き潮のように戻り、空へ向かって真っ直ぐ立ち上がる。舞うのではなく、吸われるように。
街の輪郭が二重に揺れ、近い瓦礫が遠く見える。遠いビルの線が重なって距離感だけが崩れる。
偵察兵は口元を押さえた。吐き気が追いつき、灰が混じった液体がこぼれた。
それでも視線は外せない。"見てはいけないものが出てくる"という確信が、先に来た。
遅れて地面が悲鳴を上げた。
灰で覆われた街が割れていく。
骨だけになった高層ビル。倒れかけた高架道路。ひび割れた広場。その下から巨大な装甲の壁が突き上がった。
地表そのものが持ち上がり、砕け、跳ね飛ばされる。ビルの基礎がひしゃげたまま引き剥がされ、床だったコンクリートがまとめて浮き、装甲の上で粉々になる。道路のアスファルトが裂けてめくれ上がり、信号機や街灯が雨のように降り注いだ。
——落ち方が遅れる。一度"上"へ引かれたあと、思い出したように落ちる。
灰の滝がベヒモスの側面を流れ落ちた。内側から現れたのは滑らかな傾斜装甲と無数の走行ユニット。
直立したビル1本分よりも高い側面装甲。その下腹には陸上戦艦を何隻も横に並べられそうな幅広のキャタピラが幾重にも重なる。
ベヒモスは街を変形させているのではない。街の下に潜り込んでいた巨体が地表ごと押し潰しながら、地の底から姿を現していた。
屋根や道路だった破片が砕けたまま甲板に張り付き、地下の構造物だったコンクリート片がむき出しの機関区の周りにこびりつく。
灰の向こうからそれを見た者たちは言葉を失った。声が出ないのではない。"出してはいけない"気がした。
この街の下に、最初からそれがいた。
その事実が落ちてきたとき誰も次の言葉を選べなかった。




