第69話 セーブルが引いた線の先で
アキヒトは暗いコクピットの中で目を開けた。
ストレイ・カスタムは格納庫の奥で完全に電源を落としている。外の灯りがハッチの隙間からわずかに入り、狭い空間の輪郭だけを拾っていた。
〈ノルン〉『戦闘ログの再生を再開できます。続行しますか?』
耳元で、いつもの軽い声がする。
「さっき止めたところからでいい」
背もたれに体を預け、モニタのひとつへ視線を送る。映っているのは先日まで戦場だった光景だ。ヘル・ファルコンとヴァルケンストーム。コンラートの機体とヒロの機体。
トンファーが折れ、シールドが弾かれ、パイルバンカーが見切られる。左腕が飛ぶ瞬間で、映像は止まっていた。
「再生」
短く言うとログが動き出す。ヒロ機がよろめき、コンラート機が追い打ちに踏み込む。その間にセーブル機が割り込み、ヒロを後ろへ蹴り出して自分が前に立つ。
数十秒の格闘。最後に、ヘル・ファルコンの刃がセーブル機のコア付近を貫く。
機体が崩れる直前で、ログは途切れていた。
ノルンがモニタの端に小さなウインドウを開く。
〈ノルン〉『セーブル少佐の介入がなかった場合のシミュレーション結果があります。表示しますか?』
「いらない」
アキヒトは即座に切った。必要な数字は、もう十分に聞いている。
セーブルが前に出たことで、コンラートの進行はおよそ40秒遅延。そのあいだにグレイランスの着艦ハッチを開き、回収態勢に入れた。
もし、その40秒がなかったら。ヒロ機を拾い上げに行ったストレイ・カスタムごと、あの刃が届いていた可能性は高い。VOLKの前衛もグレイランスも、あの場から丸ごと消えていたかもしれない。
〈ノルン〉『補足データがあります』
声の調子がわずかに落ちる。
〈ノルン〉『あの行動がなかった場合、現在ここにいる隊長の生存確率はログ上ほぼゼロです』
「そうだな」
否定のしようがない。アキヒトも視界の隅で見ていた。ボロボロになりながらそれでもヒロがコンラートの前に立とうとしていたことも、折られてからもトリガーから指を離していなかったことも。
結果だけ見れば、ヒロは負けた。ポートランスも、UDF司令部も守れなかった。セーブルも戻ってこなかった。
それでも、ゼロではない。
あいつが前に出なかったら、そもそもセーブルが割り込む隙がない。コンラートは俺たちを踏み潰し、研究施設の確保をもっと早く終わらせていただろう。結末が同じでも、ここに残る人数が違う。
〈ノルン〉『現在の自己評価は、「ほとんどすべて失敗した」とみなす方向に偏っています』
「見れば分かる」
アキヒトは短く返し今日の甲板を思い出す。言葉が出ない隊長。何か言おうとして途中で止めてしまう隊長。
隊長らしくないと言うのは簡単だ。だが医務室で寝たままではなく、自分の足で甲板まで出てきた。
「立たないで済ませるほうが、よっぽど楽だ」
〈ノルン〉『その選択を「楽」と判断している状態は、心理負荷としては高い傾向です』
「お前に言われたくない」
小さく笑ってバックルを外す。暗いコクピットから出る直前、指先でパネルを一度だけ弾いた。
〈ノルン〉『指示をどうぞ』
「ヒロのLSLログ、直近の稼働ぶんだけでいい。癖が荒れてないか見ておきたい」
〈ノルン〉『了解。ヒロ機の直近LSLログを抽出し、保存します』
ハーネスが肩から滑り落ちた。
格納庫の空気は冷たい。焼けた金属と冷却水の匂いが混じっていた。
*
ヒロは遺体安置所の手前で足を止めた。
手前には狭い仕切りが1つある。白い布をかけられた担架はこの奥だ。扉の横には茶色い軍用箱がいくつも積まれていて、名前と番号が書かれたタグがひと箱ごとにぶら下がっている。
ヒロは呼び出し用端末を握ったまま、その列の前で動けなかった。
視線を走らせた先で、ひとつの札が目に入る。
──SABLE, F.
手を伸ばせば届く距離なのに指先が動かない。箱はほかのどれとも変わらない。金属と布と紙切れが詰められているだけだろう。中身を知っているのはタグの文字と、ここへ運んだ兵だけだ。
「開けなくていい」
背後から声がして、ヒロの肩がわずかに揺れた。
振り向くとヴァイスが壁にもたれて立っていた。戦闘服の上に上着を羽織り、腕を組んでいる。
「中身を見ても、軽くはならん」
「確認くらいは」
「見たいのは中じゃないだろ」
ヴァイスは箱ではなくヒロの顔を見た。
「セーブルがなぜ前に出たかだ」
言われてヒロは口をつぐむ。あのときセーブルの機体が割り込んできた瞬間を何度も思い返している。自分の機体を後ろに蹴り出して前に立った背中を。
「俺がもっと――」
「隊長」
ヴァイスが静かに遮った。
「セーブルは決めて前に出た。ここで止める、と」
言いながら箱の札を指で軽く弾く。
「これ以上、下げない。これ以上、持っていかせない。そのために立った」
ヒロは札の文字から目を離せない。ヴァイスは続ける。
「お前は、まだ終わっていない」
「終わっていない、か」
「そうだ」
短くうなずく。
「ここで止まって自分で終わりにしたらセーブルの判断が無意味になる。前に出た意味が潰れる」
ヒロは札を見つめたまま拳を握りしめた。
「俺は、全部守れなかった。ポートランスも、UDFの連中も、セーブルも」
「全部守れた隊長など見たことがない」
ヴァイスは少しだけ目を細める。
「灰風の頃からな」
慰めではなく、事実の確認だった。
「守れなかったものを数えるのは隊長の役目だ。だが、それだけ数えて止まるのは違う」
短い沈黙が落ちる。安置所の奥から、布を掛け直す気配だけが伝わってきた。
「セーブルの役目はここまでだ」
ヴァイスは箱の列に一度だけ目をやる。
「お前の役目はここから先だ。あいつが倒れた場所ごと踏み越えて、次にどこで踏みとどまるか。隊長が決めろ」
ヒロはゆっくり息を吐いた。札の文字は見たまま、手は伸ばさない。
「分かった。今はまだ何も決めきれないかもしれない。それでもここで終わりにはしない」
「それでいい」
ヴァイスはわずかに口元を緩めた。
「セーブルの遺品は、しかるべきところへ届ける。お前は戻れ。待っている連中がいる」
ヒロは一度だけ箱に頭を下げ、踵を返した。
重さは残った。それでも「ここで止まる」という選択肢だけは、少しずつ遠ざかっていく。
セーブルが止めた場所の先で、自分はどこに踏ん張り直すのか。答えはまだ見えない。
けれど、その答えを考える場所へ戻ることだけは、今、自分で決めた。
*
その頃、《グレイランス》の居住区の奥。
サキは子どもたちの部屋の前で足を止めた。プレートには簡単な絵と名前が並び、それぞれが自分で描いたマークになっている。
扉の向こうから押し殺した笑い声と紙が擦れる音が聞こえる。
「入るよ」
ノックしてから扉を開けると小さな背中がいくつも振り向いた。
「さきせんせー!」
「見て! これ!」
机の上には色鉛筆と紙が散らばっている。その真ん中に大きな画用紙が1枚あった。灰色の地面とその上に立つ大きな人型。顔のところにはやたら大きな目と口が描かれている。
「それ、誰?」
「ヒロたいちょう!」
タクトが胸を張る。
「この前モニタで見えたんだよ。ここにどーんって立ってた」
タクトは足もとを指さす。
「みんなで見たでしょ。VOLKのお兄ちゃんたちが帰ってくるとこ」
別の子が、少し誇らしげに言う。
「『もう大丈夫だ』って、帰ってきたときに、ちゃんと言ってくれたんだよ」
「そうなんだ」
サキは思わず笑った。
「じゃあ、こっちの大きいのは?」
画用紙の端には、もう1機いる。猫みたいな耳がついた細身の機体で、描き慣れている線だった。
「それはアキヒト!」
リノが即答する。
「いつもヒロたいちょーのそばにいるから」
「ふたりとも、ちゃんと帰ってきてくれてよかったね」
サキがそう言うと、子どもたちは一斉にうなずいた。
「ヒロたいちょー、怪我してるの?」
「うん、ちょっとね。でも生きてる。ちゃんと戻ってきてるよ」
損失の話ばかりが頭に残ることがある。けれどこの部屋の10人は今こうして笑っている。甲板で騒いでいたVOLKのメンバーも誰ひとり欠けていない。
画用紙の人型は、たぶん少し格好よく描きすぎだ。それでも、子どもたちにとっては“あの日の背中”なのだろう。
「ねえ、さきせんせ」
リノが少し躊躇うように手を上げた。
「この絵、たいちょーに見せてもいい?」
「もちろん」
即答してからサキは少しだけ考え直す。今のあの顔にいきなり渡していいのか。それでも見せるべきだと思った。
「ちゃんと見せよう。ヒロが守ってきてくれたってこと。あの人が、一番忘れそうだから」
子どもたちは意味までは分からない顔をしていたが、「うん」とうなずいた。
画用紙の端に、小さな文字が書き込まれていく。
ありがとう。
かえってきてくれてうれしい。
またいっしょにゲームしてね。
サキはその様子を見ながらふと扉の方へ視線を向けた。
廊下の向こうで誰かが足を止めた気配がした。角の陰からヒロの背中が一瞬だけ見える。こちらを振り向きかけて結局そのまま歩き去っていった。
呼び止めようとしてサキはやめた。今はまだ振り向かせなくていい。立ち止まらずに歩いているその事実だけで十分だった。
――あなたが守ったものは、ちゃんと残ってる。
言葉にしないまま、そう思う。
その証拠は、この部屋の10人と、画用紙の上の2機がもう持っている。いつか本人に渡す。今はその“いつか”を残して、今日の夜を回す。
「よし、じゃあ今日はここまで。歯を磨いたら、寝る準備だよ」
「えー!」
不満の声が上がる。それでも子どもたちは紙を大事そうに抱え、洗面所へ向かった。
サキは机の上に残った色鉛筆を1本拾い上げる。
ヒロが自分を「全部失敗した」と思っているあいだも、守られたものはこうして残っている。その事実だけは誰にも奪わせたくなかった。
――次回、第70話「起動:ベヒモス」へ続く




