第62話 線を引く者たちの夜
夜になっても、甲板の熱はなかなか冷めなかった。
グレイランスの上には、さっきまで前線に出ていたRFが列を作って立っている。装甲の継ぎ目から白い蒸気が抜け、背中の冷却フィンからぬるい排気がゆっくり吐き出されていた。鉄板は昼の陽と砲撃の熱を吸い込んだまま、体温より少し高い温度を執拗に残している。
*
同じ夜の少し前。
《グレイランス》の艦橋は照明を一段落としてあった。前方スクリーンには、灰の平原と、燃え続ける残骸の炎がまだ映っている。報告は一通り終わり、当直だけが最低限の操作を続けていた。
背後の自動ドアが開く。
「入るぞ」
短い声とともに、セーブルが姿を見せた。防弾ベストを外し、戦闘服の前だけを雑に開けている。
「久しぶりだな、ヴァイス」
「そうでもないさ」
ヴァイスは腕を組んだまま、口元だけ動かす。
「灰風の連中が顔を出すときは、たいていろくでもない用件だ」
「今回は、そっちの艦を駆り出した話か」
セーブルは窓際まで歩き、甲板を一度見下ろした。並んだRFの影が小さく見える。
「UDFの懐も、たいがい痩せたもんだな。灰風中隊まで解いて、今度は傭兵まで借りる羽目になるとは」
「痩せてるのは、どこも同じだ。それでも、ここだけは落とせないと判断した。それだけのことだ」
「本当に、そこまでの代物なんだろうな」
セーブルの視線が床へ落ちる。
「前線には詳しい説明は降りてこない。守れと言われりゃ、守るだけだ」
「お前がそれを言うか」
ヴァイスがようやくセーブルを見る。
「灰風の頃から、命令だけで動いた覚えはないぞ」
「灰風の頃は、目の前の線しか見てなかった」
セーブルが肩をすくめる。
「今はもう少し先まで見える。カルディアに渡したら世界がどう塗り替えられるか、そのくらいはな」
ヴァイスは前方スクリーンを顎でしゃくる。
「さっきの戦い、見ていた」
「評価は?」
「お前は相変わらず前を選ぶ」
それだけ言って口の端を少し上げる。
「隊長も悪くない」
セーブルが目を細めた。
「ヒロのことか」
「ああ。見えている範囲を全部抱えようとしてた。ああいう顔は、長く隊を率いた者しかできない」
「抱え込みすぎて、折れそうになってるがな」
「だから口を出すのか」
「どこまで守るかだけは、先に釘を刺しておく」
ヴァイスが軽く首を振る。
「俺の真似なら、あまり役に立たんぞ」
「そうか? 灰風で、何度も無茶な前進を止められた覚えはある」
「止めきれなかった分が、今の顔だ」
ヴァイスはこめかみを軽く押さえ、視線を戻す。
「で、お前はどうする。この先の線だ」
短い沈黙が落ちる。
セーブルは窓の外の排熱を眺めながら言った。
「俺は前に立つしかない。立場が変わっても、そこは変わらん」
「死ぬなよ、セーブル」
ヴァイスの声は低いが、はっきりしていた。
「灰風の名簿は、まだ1行も黒く塗っていない」
「そうだったな」
セーブルは苦笑とも自嘲ともつかない顔をする。
「汚すなら、まず俺みたいな古株からだと思ってたが」
「そんな順番はいらない。最後まで真っ白でいい」
「相変わらずだな」
セーブルは背を向ける。
「明日も同じ顔ぶれで線を引けるように、努力はしてみるさ」
「努力じゃなくて約束にしろ」
「できればそうする」
返事は曖昧なのに、背中には迷いがなかった。
その返事は曖昧なのに、背中は妙に揺れていなかった。
ドアの前で、セーブルが一度だけ振り返る。
「ヴァイス」
「何だ」
「グレイランスの子どもたちには、また今度顔を出す」
「歓迎しよう」
ヴァイスは僅かに目を細め、言い方を選び直す。
「まだ戻ってこい」
「了解」
セーブルは簡潔に返し、艦橋から出ていった。
少しして、甲板のほうから排熱と工具の音が上がり始める。ヴァイスは椅子にもたれ、灰風の頃から変わらない背中と、その先で待っている若い隊長たちを静かに思い浮かべた。
*
甲板の端で、3人が腰を下ろしていた。
UDFの戦闘服を着たセーブル。VOLK隊長のヒロ。少し離れてアキヒト。
背中側では整備班が黙々とレンチを回し、焼けたパーツを外している。火花がときどき暗い空気を裂き、工具の叩く音が遠くの砲声の残りを薄くなぞった。
セーブルは紙コップのコーヒーを片手に、もう片方で煙草をつまむ。火をつけて一口吸い、吐いた煙が排熱に混じって流れた。
「これが、傭兵まで前に出さなきゃ守れない施設か」
ヒロは足を投げ出したまま、横目でセーブルを見る。
「そこまでして守るほどのものなのか」
「そこまでしてでも、手放せない代物ってことだ」
セーブルは淡々と続ける。
「ここを落とせば、世界はカルディアの色で塗り替えられるかもしれん。少なくとも連中はそう考えるだけのものを、この下に見てる」
アキヒトは会話に割り込まず、耳だけを開けていた。
「俺たちが何を守ってるのか、ちゃんとは教えてもらえないがな」
セーブルが紙コップを傾ける。
「前線の仕事なんて、大体そんなものだ」
*
「いいか、隊長」
セーブルがヒロを呼ぶ。ヒロが顔を上げる。
「傭兵だろうが軍人だろうが、自分の線は自分で引け」
煙草を持っていない手で、空中に細い線をなぞる。
「どこまで守るか。どこで切るか。誰のために引くか。人任せにすると、いずれ全部持っていかれる」
「言うのは簡単だな」
ヒロが口元を歪める。
「そんなに器用に線なんて引けない。戦ってると、見えているものを全部守りたくなる」
「簡単じゃないから、腹を括るしかない」
セーブルは即座に返す。
「その場でベストを尽くしても、あとで後悔は残る。正しい線なんて答えは、どこにも落ちてない」
煙草の灰が、ぽとりと鉄板に落ちた。
「救った命も、救えなかったものも、最後は全部お前の数字になる」
ヒロは黙り、夜風の向こうで鉄板が鳴る音を聞いた。
「一人で全部か」
「抱えきれなくていい。こぼれるし、忘れるし、勝手に思い出す」
セーブルの声が少しだけ落ちる。
「それでも隊長の立場だけは手を離すな。誰も代わりにはなれん」
短い間を置いて、言い切った。
「俺も一回、線を引き損ねたことがある」
そこで話を締めにいく。
「だから、お前は同じのを増やしすぎるな。それだけだ」
ヒロはセーブルの横顔を見て、聞き返すのをやめた。
「俺は――」
言いかけて止まる。
「隊長の仕事だ」
セーブルが先に切る。
「ああ。分かってる」
ヒロは視線をそらしたまま答えた。
「ただ1つだけ」
セーブルが煙草を指で挟み直す。
「白に縛られるな。白を守るを言い訳にするな」
「言い訳、か」
「白があるから撃つ。白があるから見捨てる。そういう理屈で動き始めると、いつの間にか誰のための白かが抜け落ちる」
声は淡々としているのに、言葉は重い。
「白が敷かれている世界ごと見ろ。白の内側も外側もまとめて見る。その視野がない線は、いずれ曲がる」
ヒロは返す言葉を探して、黙った。
セーブルはアキヒトへ視線を向ける。
「前衛はお前らだ。俺たちは、お前らが押さえてくれた分しか守れない」
「了解」
アキヒトは余計な言葉を足さない。
「欲張らなくていい」
セーブルが続ける。
「一歩でいい。前に線を出せ。その一歩分が後ろの誰かの命になる」
アキヒトが小さく眉を寄せる。
「一歩だけ、か」
「そうだ。二歩三歩出そうとして、まとめて持っていかれるのが一番まずい」
*
コーヒーが底を見せたころ、セーブルが思い出したように口を開いた。
「ヒロ」
「なんだ」
「今度、正式にグレイランスに招待しろ。にぎやかな艦だって聞いてる」
「誰に聞いたんだ、それ」
「お前のところの連中だよ。筋肉を見せ合うやつがいるとか、カードで本気で喧嘩するやつがいるとか」
「だいたい合ってるな」
ヒロの口元がわずかに緩む。
「前線ばかりじゃ、こっちが消耗する。一度くらい、そういう空気に混ざっても罰は当たらんだろ」
「じゃあ、その前に死ぬな」
ヒロは冗談とも本気ともつかない声で言った。
「そのうち乗艦の段取りをつける。だから生きて帰ってこい」
「当然だ」
セーブルはあっさり言い切る。
「勝手に死んだら、お前の隊に合わせる顔がない」
アキヒトは黙って夜空を一度だけ見上げた。灰を含んだ雲の切れ間に、星がいくつか残っている。排熱の蒸気も、焼けた金属の匂いも消えてはいない。
明日もまた、ここで線を引き直す。3人ともそれだけは分かっていた。
――次回、
第十二章 線を奪う者、線を継ぐ者
第63話「灰を裂く第三の影」へ続く




