第55話 拳でしか届かないこと
その日の任務は、白帯脇の輸送車列の護衛だった。朝に出た車列を灰の中で拾い、途中で襲いかかってきたキーテラの小群と、どこかの傭兵崩れのRFをいくつか払いのけて、目的地まで送り届けた。任務としては「達成」の一語で済む。車列も白帯も、ぎりぎりの線で守り切った。
ただ、無線の中では別の火花が散っていた。
崖の陰に隠れた敵をどう叩くか。隊列ごと引かせるか、前衛だけ押し込むか。ヒロの「待て」の一拍と、アキヒトの「もう待てない」の半歩。言い合いに決着がつく前に、戦場の方が先に片付いてしまった。
*
格納庫には、冷却ミストの白い霧と焼けた油の匂いが残っていた。
RF-17SC《ストレイ・カスタム》の胸装甲ロックが外れ、ハーネスが解放される。アキヒトは梯子を使わず、コクピット縁から整備足場へ身を滑らせ、そのまま床へ降りた。
少し離れたブロックでは、ヒロのヴァルケンストームが誘導員の合図で定位置へ入り、所定ラインで膝を沈める。足元のロックピンが脚を受け止め、胸のハッチが開いた。
「隊長、ゆっくり降りてくださいよ。さっきの衝撃——」
「平気だ」
ヒロは短く返し、鉄梯子を降りる。床に足がついた瞬間、わずかな間があった。アキヒトはそれを見て、視線を外さない。
整備員たちが察して距離を取り、工具とケーブルがさりげなく退く。VOLKは慣れていた。格納庫の真ん中に、自然と空間ができる。
「さっきの動きの話だ」
先に口を開いたのはヒロだった。油染みの残る床越しに、まっすぐアキヒトを見る。
「命令違反だ。隊列から外れて、単独で突っ込んだ」
「知ってる。でも間に合った。あれ、潰さずに済んだだろ」
「たまたまだ」
ヒロの返事は短い。
「隊から姿が消えた時点でアウトだ。前衛は好き勝手に走る役じゃない」
「じゃあ聞く。あそこで『下がれ』で全員そろって一歩下がってたら? 前は穴だらけになってた」
「白帯の手前だ。全体を優先するのが——」
「その全体を押さえるために、前に出てる」
アキヒトが一歩詰める。
「隊長。最近、踏み込みが浅い」
「慎重と言え」
ヒロの眉が動く。
「慎重なのはいい。でもさっきは、一歩前じゃなくて一歩後ろだった。前衛が下がった分、後ろのバッファロー隊が余計に食ってた」
ヒロの拳が音もなく握り込まれる。
「全体を見て言ってる。お前一機の判断でラインを出すな」
「そっちは、隊の顔色ばかり見て、自分の足を出してない」
アキヒトの声が低くなる。
「例の崖もそうだ。『待て』と言ってる間に、前が詰まってた」
「お前にだけは言われたくない」
ヒロの目つきが切り替わる。
「お前は前に出たがる癖が抜けてない。隊の声より先に、自分の足が出る」
「前に出るのが、俺の仕事だろ。後ろで半歩待てと言うから、前で無理して合わせてる」
「合わせてもらった覚えはない」
「じゃあ今日は勝手に合わせた。隊長のブレーキに」
その一言で、ヒロの拳が先に飛んだ。左のジャブ。短く、肩だけで打つ、訓練の一撃。アキヒトは半歩ずらして受け流す。
「始まったな」
少し離れて、ゴーシュが腕を組む。
「今日は風呂の前かよ」
ガンモがコンテナに腰をかけたまま言う。
「工具は片づけとけ。巻き込まれたら面倒だ」
ポチがケーブルを抱えたまま横へ退き、リュウが壁にもたれて小さく息を吐く。
「10秒で終わればいい」
格納庫のど真ん中で、ヒロとアキヒトが向き合う。
「ラインから勝手に外れるな。隊列が崩れたら、誰かが死ぬ」
「隊列を固めすぎても、誰かが死ぬ。止まってる時間が長いと前が持たない」
ヒロの顎が固くなる。
「考える前に飛び出して、うまく行ったときだけ正しい顔をするな」
「違う。勝手に出た分のツケなら、ここで払う。殴りたいなら、今ここで殴れよ」
二人の動きが一段速くなる。拳と腕がぶつかる鈍い音が続き、喧嘩というより格闘訓練が正面衝突している。
「顔はやめとけよ。明日のブリーフィングが面倒になる」
ガンモが手を振るが、止める気はない。VOLKにとって、これは止める喧嘩ではなく、出し切らせる喧嘩だった。
ヒロが足を払う。アキヒトは飛び退き、床を滑る。
「隊長の号令無視して、よく平然と戻ってこれるな」
ヒロが踏み込んでボディを狙う。
「号令が遅かった」
アキヒトは肘で受け、懐に潜る。至近距離で、言い切った。
「お前の『待て』が半歩遅い間は、俺は勝手にやる」
ショートフックが顎先をかすめ、ヒロの姿勢が揺れる。
「隊長! そこ受けたらまずいって!」
ゴーシュが半笑いで叫び、リュウが珍しく声を張った。
「ヒロ、下がって間を取れ。いつもの距離だ!」
ヒロは一歩退き、呼吸を整える。声が落ちた。
「お前は、隊長の苦労を知らない。後ろから全体を見てるやつと、前しか見えてないやつじゃ、見えてるものが違う」
アキヒトの足が止まる。ヒロはその隙を逃さず、体重を乗せた右を肩口へ入れた。アキヒトが半歩よろける。
「だったら」
アキヒトは唇を拭い、視線を上げる。
「前を見てる奴のことも、ちゃんと信じろよ!」
格納庫の空気が張る。
「よし、ラスト1本だな」
ガンモが立ち上がる。
「どっちが先に寝るか、だ」
「隊長、顎下げて!」「アキヒト、左で散らせ!」
好き勝手な声が飛ぶ中、二人は同時に踏み込んだ。
ヒロは左のフェイントから右ストレート。アキヒトは左で視線を切って右フック。拳がそれぞれ頬と顎を捉え、次の瞬間には二人とも床に倒れていた。
天井が並んで見える。
「両者ダウン」
ポチが気楽に言い、ゴーシュが頭をかく。
「引き分けだな。俺はヒロに賭けてたんだが」
「まあ、これで少しは寝られるだろ」
ガンモが小さく言った。
床に倒れたまま、ヒロが息を吐く。
「まだ、隊長をやめろとは言わないのか」
隣で同じように寝たまま、アキヒトが視線だけ向ける。
「言っても聞かないだろ。それに、お前が隊長を降りたら、正面から殴りに行く場所がなくなる」
「理由がひどいな」
ヒロも、かすかに笑う。
「次は、もう少しマシな隊長になってから殴らせろ」
「じゃあ次は、もう少しマシな隊長を殴ってやる」
「勝手に決めるな」
「隊長の仕事だろ。そういうの、まとめてかぶるのは」
息のリズムが揃いかけたところで、硬い靴音が急ぎ足で近づいた。
「ちょっとあんたら!」
ナロアの怒鳴り声が格納庫に響く。
「格納庫で殴り合いするなって、何回言わせるの!」
少し遅れて駆け込んできたサキが、二人の間にしゃがみ込む。
「ヒロ!? アキヒトさんまで……! もう……子どもたちの前じゃなくてよかったけど、何やってるんですか、本当に」
「ちょっとした意見の擦り合わせだ」
アキヒトが苦し紛れに言う。
「拳で、ですか」
「効率がいい」
「良くないです!」
サキが珍しく声を荒げ、ナロアと目を合わせた。
「医務室、空いてる?」
「空けるしかないでしょ。ほら、ガンモ、ゴーシュ! 運ぶ!」
「はいはい」「了解」
ゴーシュがヒロの脇に腕を差し入れ、ガンモがアキヒトを引き起こす。二人とも足が怪しい。
担がれながら、ヒロが首だけ横に向けた。
「なあ、アキヒト。さっきの一発、どっちが入れた」
「覚えてない。どっちも効いた」
サキが大きくため息をつく。
「必要なくなるように、口でも擦り合わせてください」
ナロアは頭をかきつつ、どこか安堵した声で言った。
「殴り合う余裕があるなら、まだ大丈夫ってことか」
医務室へ続く通路に、笑いとため息と、わずかな血の匂いが混じって流れていった。
*
その夜、監視塔のモニターに異常が出た。
UDF第23独立RF大隊の駐屯地から数キロ離れた旧市街。灰災前の航空写真では、普通のビルが並ぶ中心部として記録されていた場所だ。今はここ数年ずっと濃い灰霧に覆われている区域だった。
「旧市街の灰濃度が急低下。風向きの変化はありません」
オペレーターの報告に、当直士官が画面を覗き込む。
ノイズのように見えた灰の層が薄れ、何も映らなかったエリアに暗い影の線が浮かび上がった。
「ビル……じゃないな」
誰かが声に出す。
地面から突き出した太い柱が束になって立ち、そのあいだを巨大な輪のような構造物が水平に貫いていた。外壁に窓らしいものはなく、継ぎ目と淡い光の筋だけが規則的に並ぶ。
「古い都市図を重ねます」
別のオペレーターが灰災前のデータレイヤを呼び出す。モニター上で、昔のビル群の輪郭と、今見えている構造物が重なる——はずだった。
「一致しません。元の市街地の形と、まったく違う構造です」
そこにあるのは、高さも幅も、記録されたどの建物より大きな塊だった。
画面の端に、解析プログラムが自動で付けた仮の名称が出る。
《レゾナンス複合研究基地》
レゾナンスシティ由来と判定された、異常規模の施設。旧市街の地図の上に、見慣れない記号がひとつ、機械的に上書きされる。
駐屯地のすぐ外で起きている変化を、そのとき知っていたのは監視班の数人だけだった。この異様な構造物が、数日後にUDFとカルディアと、灰の世界そのものを巻き込む引き金になることを——まだ誰も知らない。
――次回、
第十一章 灰の線を引く者たち
第56話「レゾナンス臨時防衛軍、開戦」へ続く




