第54話 肩車の高さ
執務室の時計は、夕方の少し手前を指していた。
ヒロは机に肘をつき、端末を指で送る。前日の護衛任務ログ、消費弾薬、損傷部位。必要箇所にだけ短いコメントを入れ、整備班やナロア宛に回していった。
コンコン、とノック。
「入れ」
扉が少しだけ開いたのに、足音がない。ヒロは椅子を引き、扉へ寄って開け直した。
廊下の影に、小さな頭が見える。
「ユウタか」
名札付きのスウェット。子ども区画の一人が、緊張した顔で見上げていた。
「たいちょー」
「どうした。迷子か」
「ちがう」
首を横に振るが、動きが硬い。
「入れ」
ヒロが室内を示すと、ユウタは一歩だけ踏み込み、そこで止まった。扉を閉めると、執務室は元の静けさに戻る。
「何かあったか」
ユウタは握った拳から目を上げず、言葉を探すように言った。
「せんせいが、へん」
「サキ先生が?」
こくりと頷く。
「きのうから、ときどき、すごくつらそうなかおしてる」
「こども、だっこしたとき、ふらふらしてるときもある」
「でも、“なんでもない”って言う」
たどたどしいが、要点は揃っている。
「だれにいえばいいか、わかんなかった」
ユウタがまっすぐ見る。
「たいちょーなら、なんとかしてくれると、おもった」
ヒロは短く頷き、机前の椅子を指した。
「そこ座れ」
ユウタが腰を下ろし、つま先を揃える。
「サキ先生に、『変だ』って言ったのか」
「いたい?ってきいた。でも、『なんでもないよ』って」
「言うだろうな」
ヒロは机に片手をつき、ユウタの目線まで少し身を落とした。
「いいか。先生がしんどそうなら、気づかないふりはするな」
「でも、お前一人で抱え込むな。今日みたいに、誰かに持ってこい」
「きょうみたいに、たいちょーに?」
「俺か、ナロアか、イズミ。誰でもいい」
ヒロは一拍置いて、言葉を落とす。
「今日は、よく来た」
ユウタの表情が少し緩む。
「うん」
「もうすぐ飯だろ。子ども区画に戻れ」
「たいちょーは?」
「あとで行く。食堂までは一人で行けるな」
「いける」
「じゃあ行け」
ユウタはぺこりと頭を下げ、廊下を小走りで戻っていった。
扉が閉まる。
端末には途中の報告書が開いたまま残っている。ヒロは画面を一度見てから、電源を落とした。
(昨日から、か)
サキが自分から不調を言い出すタイプではないのは分かっている。ユウタが気づく程度なら、放置はできない。
「夕食のときに様子を見るか」
小さく言って、執務室を出た。
*
夕食時の食堂は騒がしい。配膳台の奥で湯気が立ち、子ども用区画と大人のテーブルが並んでいる。
ヒロは入口で足を止め、子ども区画へ目を向けた。
いた。エプロン姿のサキが皿を並べ、子どもたちへスープとパンを渡している。手順はいつもどおりだが、動きの端が遅い。
列に紛れて距離を詰める。
「サキ」
普段どおりに呼ぶ。
「はい? あ、ヒロ」
振り向いた顔が赤い。熱があるのが分かる。生え際に汗がにじみ、髪が額に貼りついていた。
「何か足りないものはないか」
「大丈夫です。足りてます。ありがとうございます」
決まり文句が返る。
その横から、大人用の皿が1枚回ってきた。スープとパン、煮込みが載っている。
「あ、それ私が——」
サキが反射でトレーごと受け取った瞬間、体がわずかに沈む。
「っ」
歯を食いしばる音。トレーが傾きかけ、ヒロの手が皿の端を押さえた。
「ちょ、ヒロ?」
「動くな」
もう片方の手が首筋へ触れる。熱と脈の速さがはっきり分かる。
「熱がある。医務に行け」
「そんな、大げさですよ。ちょっと暑いだけで——」
「医務に行け」
二度目は低い。サキが言葉を止める。
近くのテーブルから、VOLKの声が飛んだ。
「おや、隊長」
ゴーシュがスプーンを咥えたまま視線だけ寄こす。
「また無茶してるな、あの人」
ポチがぼそりと言う。
「無茶じゃないです」
サキが反射で否定しかける。
「子どもたちのぶんが——」
「代わりはいくらでもいる」
ヒロは淡々と言い、腰へ腕を回した。
「え」
視界が持ち上がる。背中側から腰を支え、膝裏へ手を入れて床から離す。
「ちょ、ちょっと、ヒロ!? 下ろして——」
「暴れるな。皿の方が危ない」
ガンモが素早くトレーを受け取る。
「はいはい、ここはお預かりしまーす。隊長、続きは任せて」
軽く敬礼。ヒロは見もしない。
「お前らは飯食ってろ」
「了解。こっちはこっちで現場処理しますよ」
ゴーシュが肩をすくめ、ポチは子どもたちへ小さく手を振った。
ナロアが子ども区画の前へ立つ。
「見ない。いいね?」
「せんせい、病院いくの?」
「すぐ戻ってくる。ほら、ごはん冷める」
子どもたちの視線が食器へ戻るのを確かめ、ナロアはヒロの背中を一度だけ見送った。
*
「ほんとに、自分で歩けますから」
医務区画へ向かう廊下で、サキが腕の中でもぞもぞと動く。
「さっきも言った。暴れるな」
「だって、こんな——」
「途中で落とされたいか」
言い切られて黙る。ヒロの歩幅は一定で、揺れを抑える持ち方も崩れない。
「いつからだ」
「え?」
「熱。昨日からか」
サキは目線を落とした。
「昨日の夜から、ちょっと、だるいなって」
「寝たら治るかなって思って」
「治らなかったわけだ」
「はい」
「ユウタが来た。昨日から様子がおかしいって」
「……あの子」
サキの声が小さくなる。
「子どもを心配させるな」
乾いた言い方だ。
「させたくて、させてるわけじゃ——」
「分かってる」
ヒロはそこで区切り、声を少し落とす。
「でも、結果としてそうなってる」
少し沈黙が挟まってから、ヒロが続けた。
「おまえが倒れたら、俺たちじゃ代わりにならない。そうなるのは困る」
「はい?」
サキが聞き返すが、ヒロは前を向いたまま歩いた。
「医務室着くぞ」
それ以上は拾わない。
*
医務室の扉をヒロは肘で押し開けた。
「イズミ」
「はーい……って、うわ。どうしたの、その運び方」
診察台のそばにいたイズミが振り向き、目を丸くする。
「熱。高めだ。脈も速い」
「はいはい、こっちのベッド」
イズミがシーツを整える。
「サキ先生、とりあえず横になって。話はあと」
「すみません……」
ベッドに下ろされると、サキは抵抗する余力がなくなる。イズミが額に手を当て、体温計を差し込んだ。
「アウト」
表示を見て眉をひそめる。
「この数字で“なんでもない”は無理あるよ」
苦笑しながら点滴の準備に入る。
「隊長」
イズミがヒロへ目を向けた。
「ありがと。あとはこっちでやる」
「ああ」
ヒロは短く頷き、踵を返す。
扉が閉まる音を聞きながら、サキは天井を見た。ヒロの言葉が引っかかったまま、意識が先に沈んでいく。
*
医務室前の廊下は人通りが少ない。
扉を出たところで、ヒロはすぐ声をかけた。
「そこ、隠れてるつもりか」
壁陰の小さな影がびくりと動く。ユウタだ。膝を抱えて座り、靴先で床をつついている。
「ここは、子どもが来ていい場所じゃない」
ヒロが近づくと、ユウタは顔を上げた。
「でも」
目元が少し赤い。
「せんせいが、しんぱいで」
「さっきの、食堂の」
「見てたのか」
「みてた。たいちょーが、せんせいを、はこんだから」
ヒロは短く頷く。
「サキ先生は今、イズミが見てる。熱はあるが、すぐどうこうって話じゃない。寝て薬を飲めば戻る」
「ほんと?」
「嘘ついても、俺に得はない」
ユウタが小さく息を吐く。
「よかった」
それでも動かない。
「戻るぞ。ここにいても邪魔になる」
ヒロが手を差し出すが、ユウタは床の一点を見たままだ。
「せんせい、ひとりでめがさめたら、さびしいかも」
言葉が落ちる。
ヒロは扉へ一度だけ視線を向けてから、しゃがみ込んだ。
「立て」
「え」
脇の下に手を入れて持ち上げ、そのまま肩に乗せる。ユウタの体がふわりと浮いた。
「わっ」
ユウタが慌ててヒロの頭をつかむ。
「怖かったら言え。すぐ下ろす」
「こわくない」
ユウタは固まったまま、前を覗いた。廊下の照明が近い。
「せんせい、ここでねてる?」
「寝てる。起きたらイズミが説明する」
ヒロは歩き出し、片手でユウタの足首を押さえる。
「ほら。あそこ曲がったら、子ども区画だ」
「たいちょー」
「なんだ」
「たいちょーも、たまに、へんなかおする」
「そうか」
「きょうも、ちょっと」
ヒロは少しだけ目を細めた。
「子どもはよく見てるな」
「うん」
それきり二人は黙って歩く。ユウタの重さは、肩に乗せれば大したことはない。ヒロの手は足首を確かに押さえ、歩幅は崩れなかった。
――次回、第55話「拳でしか届かないこと」へ続く




