第19話 灰の中の呼吸
私はイズミ先生からユウタを受け取った。
酸素マスクはつけたまま。小さなボンベは肩に掛けるには重すぎたので、片手で抱えるように持った。もう片方の腕にはユウタがいる。熱がまだ高い。服越しでも、胸と背中がじっとり濡れているのがわかった。
「サキさん」
イズミ先生が、最後にもう一度だけ私を呼び止めた。
「マスクは外さないで。苦しそうになったら、まず声をかけて呼吸を整える。それでも駄目なら、酸素を少し上げて」
「はい」
「無理に深く吸わせないこと。焦って吸わせると、かえって苦しくなる」
「……はい。いつも通り、ゆっくりですね」
「そう。いつも通り」
イズミ先生はそう言ったあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「怖いと思う。でも、あなたが怖がりすぎると、この子にも伝わる。怖くないふりでいいから、声だけは落ち着かせて」
「分かりました」
本当は、全然分かっていなかった。
怖い。怖くて、酸素ボンベを持つ指に力が入る。けれど、ユウタの耳元でそれを言うわけにはいかなかった。
私はアキヒトの背中を追って、医務室を出た。
「ユウタ、聞こえる?」
小さく声をかけると、ユウタのまぶたが動いた。
「今から、アキヒトさんのロボットに乗るよ。大きいやつ。びっくりするかもしれないけど、私も一緒だからね」
「……おおきい?」
「うん。すごく大きい。でも中は狭いんだって。変だよね」
格納庫の中央で、ストレイ・カスタムが膝を折っていた。
近くで見ると、思っていたよりずっと大きい。装甲は灰で汚れ、肩や脚のあちこちに細かい傷がある。膝をついているのに、胸部ハッチはまだ私の頭よりずっと高かった。
こんなものの中に、ユウタを抱いて乗る。
「サキ」
前を歩いていたアキヒトが振り返った。
「ここから足場が悪い。下を見るなとは言わない。でも、下ばかり見ると余計に怖くなる」
「……はい」
「俺が先に上る。ユウタを落とすな。手は空いてなくても、体を機体に寄せれば支えになる」
言い方は短い。でも、突き放す感じではなかった。
アキヒトは脛の装甲を踏み台にして、先に上がった。慣れている動きだった。私は同じように足をかけようとして、金属の冷たさに少しだけ息を飲んだ。
ユウタを抱いたままでは、思ったより体が上がらない。
「足、そこじゃない。右の段差。……そう。慌てなくていい」
下からナロアが声をかけてくる。
「ハッチのところまで来たら、アキヒトが受ける。私も下で見てるよ。落ちたら受ける、とは言わないけど、落ちる前に止める」
「言い方が怖いです」
「じゃあ、落ちない。これでどう?」
こんな時なのに、少しだけ笑ってしまった。
胸部ハッチが開いて、白い光が漏れた。
中から、アキヒトが腕を伸ばす。
「手を出せ。ユウタごと引き上げる」
「重いですよ」
「見れば分かる。早く」
私はユウタを強く抱きすぎないように気をつけながら、片手を伸ばした。
アキヒトの手が私の手首をつかむ。力が強かった。ぐっと引き上げられ、体が一気に浮く。足が装甲をこすり、胸が冷たい縁に当たった。
「痛っ……」
「悪い。もう少し」
次の瞬間、私はハッチの縁に腰をかけていた。ユウタは腕の中にいる。マスクも外れていない。
「中に入るぞ。頭をぶつけるな」
コクピットは想像より狭かった。
前にはパイロット席がある。その背もたれのすぐ後ろに、細い座面とベルトがついていた。たぶん、今急いで取り付けたものだ。壁には配線カバーがあり、座ったら背中がすぐそこに当たりそうだった。
「ここに座れ。ユウタは膝の上。酸素ボンベは左側に固定する」
「この幅で、入りますか」
「入れる。入らなかったら、ナロアが外で泣く」
外からナロアの声が飛んできた。
「泣かないって。さっきまで私の工具箱をくくってたベルトだよ。丈夫さだけは保証する」
「工具箱……」
「人間用より信用できる」
「それ、安心していい話ですか」
「少なくとも俺は安心してる」
私はまた少しだけ笑った。
狭い座面に腰をおろすと、背中がすぐ配線カバーに当たる。前にはアキヒトの背中。膝の上にはユウタ。
アキヒトが横からベルトを引き出した。
「まず、お前の腰を止める。そのあと、ユウタごと斜めに固定する。揺れた時に体が前へ飛ばないようにするためだ」
「こんなふうに乗って、大丈夫なんですか」
「正規の乗せ方じゃない」
アキヒトは金具を通しながら、淡々と言った。
「でも、今できる中ではこれが一番ましだ」
ベルトが腰に回る。次に、ユウタを抱いた私の体ごと、もう一本のベルトが斜めに通された。金具が胸の横で鳴る。
カチリ。
「きつくないか」
アキヒトが聞いた。
「私は大丈夫です。ユウタは?」
ユウタは小さく首を動かした。
ハッチの外から、イズミ先生が顔をのぞかせた。
「サキさん、ボンベのバルブはここ。今はこの位置。苦しそうなら、一目盛りだけ上げて。上げすぎると乾くから、勝手に何段も回さないで」
「一目盛りですね」
「そう。一目盛り。アキヒト、向こうで薬を使われたら、名前を記録して。投与量も。相手が嫌な顔をしても聞いて」
「分かった」
「それと、無理だと思ったら引き返して」
イズミ先生は、そこで少しだけ間を置いた。
「……引き返せるうちに」
アキヒトはすぐには答えなかった。
前席で、彼の肩がわずかに動いた。
「分かってる。判断は遅らせない」
「それならいい」
ハッチが閉まる。
外のざわめきが、一枚ずつ遠くなっていった。最後に重い音がして、格納区の空気が切り離される。
残ったのは、ファンの音と電子音。それからユウタの呼吸。
コクピットの中は暗くなり、すぐに前方モニターが光った。格納区の映像が映る。整備班が外で手を振っているのが見えた。
「LSL接続は切っておく」
アキヒトがパネルを操作しながら言った。
「今日は直接つなぐと、余計な感覚まで拾いそうだ。手動で動かす」
「手動……って、難しいんですか」
「難しくはない。面倒なだけだ」
面倒。
そんな言い方をされると、少しだけ怖さが薄れる。たぶん、わざとそう言ってくれているのだと思った。
スピーカーからジルの声が入った。無線のタグは画面に出ていたが、声は作戦室の時より近く聞こえた。
「VOLK-1、発進準備を確認。目的地はアストレイア企業都市、外縁医療ゲート。医療搬送案件として艦内記録を開始する」
「聞こえてる」
「グレイランスの識別信号を付与した。白帯への乗り入れは禁止。外側を走行して。敵性反応が出た場合の交戦は最小限」
ジルの声が、そこで少しだけ柔らかくなった。
「……無事に送り届けて」
「了解。VOLK-1、これより発進する」
アキヒトの手が操縦桿を握る。
私はユウタの背中に手を回し、もう片方の手でマスクの縁を押さえた。ベルト越しに、小さな胸の動きが伝わってくる。
「ユウタ、今から動くよ。大きな音がするかもしれない。でも、壊れてる音じゃないからね。機械が歩く音」
「……あるく?」
「うん。すごく大きく歩く。私たちは中でじっとしていればいいの」
床が低く震えた。
最初は小さく。次に、下から持ち上げられるように。
ストレイ・カスタムが立ち上がったのだと分かった。体がベルトに押さえつけられ、ユウタの頭が私の胸に寄る。
「大丈夫。ここにいるよ」
格納区の誘導灯がモニターの中で流れていく。
側面ハッチが開いた。
灰色の外気が、画面を白く曇らせる。外の景色は、夜というより、灰そのものだった。光がにじみ、遠くが見えない。
ストレイ・カスタムが艦外へ踏み出した。
大きな足が地面を踏んだ振動が、背中から胸まで伝わった。
*
外は濃い灰の霧だった。
モニターの中で、白帯の導光だけが地面に細く伸びている。白い線は頼りないくらい細いのに、そこだけは灰の中でも消えずに光っていた。
アキヒトは白帯から少し離れた場所に機体を立たせた。
「白帯には乗らない。外側を行く」
誰に言うでもなく、そう口にした。
画面の端に外気の数値が出る。灰濃度八十三。視界予測三十メートル。数字の意味を正確には知らない。けれど、外が良くないことだけは分かった。
機体が前へ出る。
揺れは、思っていたより強かった。
歩くたびに、体が少し遅れて動く。ベルトが肩と腰に食い込み、ユウタの体が私の腕の中で小さく跳ねる。
前のモニターに、小さな赤い印が三つ出た。アキヒトの肩がわずかに動く。
「小型反応、三つ。距離百二十から百。進路を変える」
ジルの声が返る。
「交戦する?」
「しない。残骸の影を横切っただけだ。撃てば、ほかを呼ぶ」
機体が少し右へ寄った。
画面の左端、壊れたトラックの陰を黒いものが走り抜けた。犬より大きい。虫のようにも見えた。すぐに灰に消えたので、形は分からなかった。
「外、灰ばっかりだね」
私はユウタに話しかけた。
「でも、向こうに行ったら、きれいな空気の部屋があるんだって。そこで薬をもらおう。ちゃんと診てもらって、帰ってこよう。みんなのところに」
ユウタのまぶたが震えた。
「……みんな、いる?」
「いるよ。グレイランスで待ってる。アオもいる。きっと、あなたの緑のバッジをちゃんと置いて待ってる」
「アオ……」
「うん。帰ったら、粉じん計の数字、また読んであげて。私、あれ早く読むの苦手だから」
ユウタが、マスクの奥でほんの少し笑った。
「サキ、へた」
「そう。下手なの。だから、ユウタがいないと困る」
自分で言って、目の奥が熱くなった。
泣きそうになる。今泣いたら、ユウタが不安になる。分かっているのに、喉の奥が詰まった。
「サキ」
アキヒトが言った。
「泣くなら帰ってからにしろ」
「……分かってます」
「分かってるならいい」
少し冷たく聞こえる言い方だったけど、そのおかげで涙は引っ込んだ。
ストレイ・カスタムは灰霧の中を進んだ。
白帯の光は、モニターの端でずっと揺れている。近づきすぎず、離れすぎず、その外側をたどっているのだと分かった。
灰をかぶった標識が現れ、すぐに後ろへ流れる。ひっくり返った車両、折れた街灯、看板の残った建物の壁。どれも一瞬だけ見えて、すぐに灰に隠れた。
外は死んだ街のようだった。
けれど、この狭いコクピットの中には、三人分の息がある。
前で操縦するアキヒトの背中。
同じ空気の中にいる。そのことだけを、私は何度も確かめた。




