EP1-4 後編 : 境界 踏み越える足音と冷たい方程式
―― 三。
―― 二。
―― 一。
衝突の瞬間。
獣脂と腐臭を撒き散らす殺意の奔流を前に、俺の身体は思考を置き去りにして動いた。
半身を捻る。
紙一重どころではない。死の顎そのものが頬を舐める距離だ。
灼熱の呼気が皮膚を焦がし、剃刀のような牙が数本の髪を断ち切る。
その刹那。
俺はショートソードを、突進してくるワイルド・ボアの首筋へと叩き込むように捻じ込んだ。
否、ただの猪ではない。もはや天災の如き質量と化した『それ』の鋼毛に覆われた首筋だ。
狙ったのは刃ではない。
剣の『腹』。
鍛えられた鉄の、僅かな平面だ。
――キィィンッ!
鼓膜を突き刺す甲高い摩擦音。
赤熱した火花が闇に散る。
剣を介して叩きつけられた運動エネルギーの奔流が、俺の右腕を根元から引き裂かんばかりに猛った。
骨の芯まで響く衝撃に視界が白く染まり、筋肉という筋肉が断末魔の悲鳴を上げる。
脳裏に過る警告を無視し、俺は奥歯を砕かんばかりに食いしばった。
足裏を大地に根付かせ、その絶望的な質量を受け止める。
否、受け止めてはいない。
俺の狙いはただ一つ。
『逸らす』こと。
剣の腹をガイドレールとし、死へと向かう直線的なベクトルに、ほんの僅かな角度という名の楔を打ち込む。
それは剣術などという生易しいものではない。
巨大な力の流れを、より巨大な理で捻じ曲げる。
ほとんど物理法則への反逆に近い神業だ。
「グ……モッ!?」
自らの質量を制御できなくなった獣が、初めて知性のない声に戸惑いを滲ませた。
だが、軌道修正には遅すぎる。
その巨躯は、俺が計算した通り、すぐ傍らに森の主のように聳え立つ古樫の木へと吸い込まれていく。
ゴッ……!!!
森の空気が鈍い鉄槌で殴られたかのように震えた。
樫の古木が呻き、幹が悲鳴を上げて軋む。
無数の葉が衝撃に揺さぶられ、血の匂いを弔うように舞い落ちた。
激突したワイルド・ボアは、短い絶叫すら許されない。
自らの運動エネルギーによって首の骨を粉砕され、ぐにゃりと崩れ落ちる。
巨体は数度、大地を蹴るように痙攣した。
だがやがて、永遠の沈黙に支配された。
`[System: 敵性体の沈黙を確認]`
森に、再び静寂が降りる。
ただ、鉄錆のような血の匂いと、抉られた土の匂いだけが、死の存在を濃密に主張していた。
俺は、ぜえ、はっ、と獣のような喘鳴を漏らし、その場に片膝をつく。
衝撃を逸らした右腕は灼けるように痛み、もはや感覚がない。
しかし、その双眸は硝子玉のように冷たく、絶命した獣の骸を冷静に見据えていた。
背後で、カイルが息を呑む音が聞こえる。
恐怖。
そしてそれ以上に、目の前で起きた現象を脳が理解することを拒絶しているかのような、呆然とした響き。
そこにいたのは、自分と同じ年頃のはずの少年。
彼が、まるで御伽噺に謳われる古の剣豪のごとき静謐さで、佇んでいる姿だった。
「……魔石」
ルシアンが、乾いた唇から零した。
「え……?」
「魔石だ。回収しないと」
言いながら、彼はふらつく足で亡骸に歩み寄ろうとする。
だが、視界がぐらりと揺れた。
`[Warning: Stamina Depletion(スタミナ枯渇警告)]`
脳内で無機質なアラートが鳴った気がした。
「無理だ、よせ!」
カイルが我に返り、慌てて駆け寄る。
「そんな解体ナイフじゃ、こいつの皮は剥げない! それに、血の匂いに釣られて別の奴が来る前に逃げるぞ!」
「……そうか」
ルシアンは惜しむように巨体を見つめた。
だが、カイルの言葉は正しかった。
今の自分たちには、技術も、道具も、そして何より時間も足りていなかった。
***
森に満ちた死の匂いが、風に攫われていく。
舞い落ちた樫の葉が、獣の亡骸を隠すように、そっと降り積もっていく。
心臓が肋骨を内側から叩く音と、自分の荒い呼吸だけが、世界の全てだった。
痺れた右腕を押さえ、ルシアンはゆっくりと立ち上がった。
骨が軋む痛みが全身を走る。
だが、思考だけが、奇妙なほど氷のように冴え渡っていた。
――なぜ、動けた?
あれは孤児院で習った型ではない。
ギルドの初等訓練の動きでもない。
まるで、遠い過去から知っていたかのように、身体が魂の命令を無視して『最適解』を導き出した。
脳裏を、ノイズ混じりの既視感が掠めて消える。
無機質な灰色の尖塔。
機械的な律動で点滅する赤光。
`[Notice: Unidentified Memory Fragment(未確認記憶フラグメント)]`
それは夢の残滓か、あるいは、失われた記憶の断片か。
「……おい、ルシアン」
背後からの声は、ひどく掠れていた。
振り返ると、カイルが蒼白な顔で立ち尽くしている。
その瞳には、恐怖と畏怖、そして何より、友人が理解不能な『何か』に変質してしまったことへの絶望的な戸惑いが渦巻いていた。
「お前……一体、何なんだよ……」
「……」
「今のは、剣術なんかじゃない。あんなの、見たことも聞いたこともない……。まるで……」
カイルは言葉を呑み込んだ。
伝説、とでも言いたかったのかもしれない。
だが、目の前にいるのは、自分と同じ、Fランクになったばかりの九歳の孤児だ。
その厳然たる事実が、目の前の現象をより一層、冒涜的なものへと変えていた。
「……わからない」
ルシアンは、短く答えるしかなかった。
嘘ではなかった。
本当に、わからなかったのだ。
「ただ、そうするべきだと、思った。それだけだ」
彼は地面に落ちていた貸与品のショートソードを拾い上げる。
剣の腹には、獣の鋼毛と擦れた生々しい傷跡が残っていた。
この鉄の塊が、あの鋼鉄の蹂躙を受け流した。
その信じがたい事実に、誰よりも自分自身が一番戸惑っていた。
沈黙が、墓石のように二人の間に鎮座する。
「……解体する。角と牙、皮の一部だけでもいい。今日の依頼料よりは上になる」
ルシアンは淡々と告げ、亡骸に歩み寄った。
その手際の良い、躊躇のない動きに、カイルはただ黙って頷き、おずおずとナイフを抜く。
それだけの無機質な事実が、二人の間に、決して元には戻らない、決定的な亀裂を刻み込んでいた。
***
夕暮れの橙光が、冒険者ギルドの喧騒を琥珀色に染めていた。
汗と安いエールの酸っぱい匂いが渦巻く熱気の中を、ルシアンとカイルは無言で進む。
彼らがカウンターに『ワイルド・ボア』の角と牙を置くと、受付嬢のラインが査定するような冷徹な光を宿した瞳を、僅かに丸くした。
「……ワイルド・ボア。あなたたち二人で?」
その声には、驚愕よりもまず、規律を重んじる者特有の厳しい疑念が混じっていた。
「場所は『東の森・深部』……指定区域外ね」
ラインの指摘に、カイルの肩がびくりと跳ねた。
「ち、違います! 薬草を採っていたら、向こうから襲ってきて……!」
「正当防衛、と主張するわけね」
ラインは深くため息をつき、腕を組んで二人を見下ろした。
その目は一切笑っていない。
「事実だとしても、Fランクの指定区域外への侵入という事実は変わらない。三ヶ月間の戦闘行為禁止規定。忘れたとは言わせないわよ?」
「……はい」
ルシアンとカイルは、同時に俯いた。
視界の端で、不可視の警告ウィンドウが明滅しているような錯覚を覚える。
`[Warning: ギルド規定違反(ランクF)]`
「本来なら、冒険者資格の剥奪。そう判断されても文句は言えない重大な違反よ」
二人の顔から血の気が引く。
心臓を鷲掴みにされるような沈黙が場を支配した。
「……でも、五体満足で生きて帰ってきたことだけは評価してあげる。今回は厳重注意。記録上は『緊急避難的討伐』として処理します。ただし」
ラインは人差し指を立て、冷ややかに宣告した。
「ペナルティとして、素材の買取価格は規定の十分の一。さらに違約金として、本来の依頼報酬から二割を天引き。文句、ある?」
`[System: 報酬減額(Penalty Applied) -90%]`
「は、はい! ありません! ありがとうございます!」
資格剥奪という最悪の事態を免れた安堵に、カイルが飛び上がるようにして頭を下げた。
その隣で、ルシアンはただ黙って、カウンターに置かれた獣の牙を見つめていた。
***
銅貨が革袋の中で擦れ、死んだ獣の骨が鳴るような乾いた音を立てた。
受付嬢のラインはそれを無造作にカウンターへ置く。
「猪の牙、買い取りで銅貨三十枚。依頼達成報酬が五枚。ペナルティを差し引いて、これがアンタの取り分。……確認しなさい」
「はい」
ルシアンは革袋の重みを掌で感じ、中身を数えることもなく、そこから二十枚の銅貨を抜き取った。
指先が、冷たい金属の感触を覚えている。
「借金の一部です」
「……そう」
ラインは感情の読めない瞳でそれを受け取ると、インクの染みた指で台帳に素早く何かを記した。
`[System: 債務返済(Debt Repayment)処理完了]`
その横顔を眺めながら、ルシアンは残りの十五枚をポケットに押し込む。
今夜の寝床代、明日の黒パンと干し肉。
それだけで、この命の重みは霧散する。
「……なあ、ルシアン」
背後から、カイルの嗄れた声が届いた。
「俺……足、引っ張っただけだったよな」
いつもの剽軽な光は消え失せている。
死の顎から辛うじて逃れた者の、生々しい恐怖と無力感。それが彼の顔に深く刻まれていた。
「そんなことはない」
ルシアンは短く、事実だけを告げた。
それは慰めではない。
カイルのような『普通』が隣にいなければ、自分がどれほど歪な場所に立っているのか、その輪郭さえ見失ってしまうだろうから。
彼は、俺の精神性を測るための重要な『基準点』なのだ。
「また明日」
「……おう」
絞り出すような返事だけを残し、カイルは逃げるようにギルドを出ていった。
夕闇に呑まれていく背中。
それは昼間よりもずっと小さく、そして脆く見えた。
一人、血と汗と安酒の匂いが混じり合う喧騒の只中に取り残される。
ルシアンはしばし虚空を見つめた後、冒険者寮へと続く軋む階段へ、重い足を引きずっていった。
***
石造りの棺のような部屋。
ベッドと机がひとつあるだけの簡素な空間だ。
窓の外は、すでに夜という名の深い海に沈んでいる。
ルシアンはベッドの縁に腰掛け、音を立てぬよう、腰のショートソードを鞘から引き抜いた。
月光が、刃に走る一本の銀色のラインを冷たく浮かび上がらせる。
それは、武器としての『死線』だった。
「……やはり、か」
あの巨獣の突進を無理に受け流した瞬間、骨まで響いた衝撃。
鋼の塊を物理演算で無理やり捻じ伏せた代償は、致命的な亀裂となって相棒の命を蝕んでいた。
`[System: 装備耐久度(Durability)限界到達]`
`[Warning: 次回の衝撃で破損します]`
脳裏に冷徹な事実が浮かぶ。
もう、この剣では戦えない。次の一撃で砕け散る。
それは、この世界における己の死と全くの同義だった。
`[System: 報酬減額(Penalty Applied) -90%]`
剣を鞘へと戻し、今日得たばかりの銅貨を握りしめる。
ペナルティで削られた報酬。そのあまりに軽い金属の感触が、今は唯一の命綱だった。
「貯める」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
「剣を買う。……このままでは、死ぬ」
その言葉は鋼の刃となり、彼自身の魂を深く抉った。
ここは戦場だ。一歩踏み外せば、誰もが等しく死に呑まれる。
その冷徹な摂理を、彼は全身で理解した。
もう一度だけ、鞘の上から柄に触れる。
最初の試練で役目を終えた相棒。だが、その死は無駄ではなかった。
お前は俺に『生きるための術』と、そして何より『ステータスの限界』というものを教えてくれたのだから。
ふと、ポケットの中で、ごつりとした硬いものが指に触れた。
森で拾った、あの黒い石だ。
取り出し、月明かりにかざす。
『魔力感知』には反応しない。何の変哲もない、ただの石塊。
だが、その表面には、凝視しなければ知覚できないほど微細な幾何学紋様が刻まれていた。
自然の造形(ランダム生成)ではありえない。
まるで、遥か上位の管理者が宇宙の法則をそのまま刻み付けたかのような、異質な紋様。
捨てられなかった。
遠い過去に失くした魂の片割れを、今ようやく見つけ出したかのような、奇妙な郷愁があった。
石を机に置き、枕元の古びた書物に目をやる。
母の形見だという、解読不能な文字で綴られた一冊の本。
それが、過去と彼を繋ぐ唯一の糸だった。
胸の奥にぽっかりと空いた、決して埋まらぬ風穴。
何かを失ったという確信。誰かを探さねばならないという焦燥。
物心ついた時から、その感覚は彼の魂に寄生していた。
(――どこにいる)
声にならぬ問いが、空虚な心に木霊する。
問いかける相手も、探している相手も分からぬまま、ルシアンは重い瞼を閉じた。
深い意識の底で、またあの灰色の塔が聳え立つ、色のない夢を見るのだろう。
***
朝陽が壮麗なステンドグラスを透過し、七色の光の束となって、巨大な書架の影を床に落としている。
聖域のような静謐を満たすのは、古い羊皮紙と乾いたインクの香りだけ。
周囲の学生たちは、流行りの英雄譚や王都の恋愛小説に夢中になり、砂糖菓子のように甘い物語にくすくすと笑い声を漏らしている。
その中で――ミリア・レーンフェルだけが、隔絶された世界にいた。
彼女の机に積まれているのは、『基礎マナ相関理論』や『魂の波形と環境マナへの影響』。
およそ同年代の娘が見向きもしない、難解な学術書の塔。
彼女の知性は、感情という『肉』を削ぎ落とし、世界の論理構造という『骨格』だけを暴き出すための、冷たいメスだった。
細く白い指が、人間業とは思えぬほど複雑怪奇な魔術式をなぞる。
瞳が追うのは、物語ではない。ただ純粋な『構造』と『論理』のみ。
――なぜ、先日観測したあの少年の魔力回路は、あれほどまでに『完成』されているのか。
常人とは比較にもならぬ、不自然なまでに整合性の取れた魂の波形。
まるで、神の手で完璧に調律されたかのような『異物』。
それは、彼女がこれまでに蒐集してきたどの生命データともかけ離れた、明らかな異常値だった。
翻って、自分はどうか。
自身の胸に手を当てる。
そこにあるのは、空虚。
魂の器に穿たれた、根源的な『欠損』。
その穴を埋めるため、常に周囲のマナを渇望し、吸収し続ける不完全な自分。
彼の『完全な異質』と、己の『欠損した空虚』。
その絶対的な対比が、彼女の知的好奇心を焼き尽くさんばかりに刺激していた。
「ミリアさん、またそのような難解な本を……」
穏やかな声に顔を上げる。
年配の女性司書が、慈愛と困惑の入り混じった笑みを浮かべていた。
「たまには、もっと心躍る物語でもいかがです? 恋や冒険も、素晴らしいものですよ」
司書の視線が、隣席の少女に向けられる。
頬を染めて恋愛小説を読むその姿に、ミリアは一瞥をくれた。
だが、その華やかな装丁に何の興味も感じない。
すぐに視線を自らの手元の古書へ戻す。
「結構です」
体温を感じさせない平坦な声で、彼女は答える。
「この本の『構造』は、それだけで十分に美しいので」
その返答に、司書は小さく肩をすくめ、静かにその場を去った。
再び訪れた沈黙の中、ミリアは思考の深海へとさらに潜っていく。
ページをめくる指が、ふと止まった。
ある一つの仮説が、彼女の網膜に焼き付いたからだ。
『――魂の器が極度の欠損を抱えた場合、その空隙を補完するため、他者の魂、あるいは高次マナ存在と『融合』する事例が、極めて稀に観測される』
その一文を目にした瞬間。
ミリアの瞳の奥に、硬質な光が灯った。
驚きでも、歓喜でもない。
無機質な水晶の奥で、初めて鉱脈が煌めいたかのような、純粋な知的好奇心の閃光。
融合。
補完。
仮説が真実ならば、この『空虚』を満たす術も、あるいは――。
ミリアは、その文章を指でなぞりながら、脳内で先日記録した少年のデータを再生する。
あの異常なまでの『完全』と、自らの『欠損』。
二つを重ね合わせた時、そこにどんな数式が浮かび上がるのか――。
その思考は、彼女にとって、どんな恋愛小説よりも甘美な愉悦をもたらしていた。
***
欠落した二つの魂。
一つは、己を殺して冷徹な刃になろうとする少年。
一つは、世界を解き明かすために感情を捨てた少女。
氷と氷が出会う時、そこに生まれるのは融合か、それとも砕け散る破滅か。
観測者は、ただ静かにその「接触」の時を待つ。
**【あとがき】**
お読みいただきありがとうございます。
『己を殺す少年』と『感情を捨てた少女』。
似た者同士の不器用な二人が出会う時、物語は動き出します。
次回、冒険者ギルドでの邂逅編。
『EP-1-5 : 共鳴する孤独、二つの心臓』でお会いしましょう。




