EP1-4 中編 : 境界 踏み越える足音と冷たい方程式
冒険者ギルドの扉を開けると、澱んだ空気が物理的な質量を持ってルシアンを殴りつけた。
夜通しの喧騒が残した酸っぱいエールと汗の匂い。安い煮込み料理の脂が染みついた木の香り。その全てが、朝の光の中で不機嫌そうに渦巻いている。
工房で得た魂の熱を抱いたまま戻った彼を、入り口近くの席でカイルが待っていた。
「遅えぞ、ルシアン! 寝坊助が、もうマシな依頼は残ってねえって!」
ルシアンの姿を認めるなり、カイルは安堵と苛立ちの混じった声で叫び、手招きする。
「……少し、道草を食っていた」
短く応え、ルシアンは壁の依頼掲示板へ視線を滑らせた。
手垢に汚れた羊皮紙の群れ。インクの染み、殴り書きの文字、乱雑に打ち付けられた鋲。
ゴブリンの巣穴掃討、隊商護衛、希少鉱石の採掘――そのどれもが、今の二人には崖の上の果実に等しい。
必然、視線は最下層、Fランクの雑務がまとめられた一角へと落ちていく。
「いつもの薬草採取で手を打つか? 安全第一、確実だろ」
カイルが指したのは、ギルドの薬草園での仕事。
危険皆無、しかし雀の涙ほどの報酬。
だが、ルシアンの指は、その数枚下に貼られた古びた依頼状をなぞっていた。
`[Quest: 月光草の採集]`
`[Area: ギルド指定区域外(東の森・深部)]`
`[Required: 籠一杯]`
`[Reward: 銅貨80枚]`
銅貨八十枚。薬草園の三倍近い額。
だがその数字には、血の匂いがまとわりついている。
「区域外」――その一言が、ギルドの庇護が及ばぬ死地であることを雄弁に物語っていた。
「……これをやる」
ルシアンの静かな声に、カイルは弾かれたように顔を上げた。
「はぁ!? 正気かよ、ルシアン! 森の奥だぞ、化け物の巣窟だ!」
「だから、この報酬なんだろう」
「理屈はそうだが……!」
カイルの顔から血の気が引いていく。
彼の恐怖は正しい。危険を避け、安全な日銭を積み上げる。それが最下級冒険者の生存戦略だ。
だが、ルシアンの魂核では、あの鍛冶師の言葉が今もなお反響していた。
――てめえの目だ。
あの眼差し。鉄の奥にある魂を見透かすような、射貫くような眼光。
あれは、ただ生きるためだけに日々をすり減らす者の目ではなかった。
もっと先へ。もっと深くへ。
己という剣を、本物の戦場で研ぎ澄ますための道。その入り口が、今、目の前で口を開けている。
「俺は行く。お前はここで待っていろ」
有無を言わせぬ響きを帯びた声に、カイルはぐっと喉を詰まらせる。
数秒、彼の瞳が絶望と恐怖の間をさまよった後、観念したように天を仰いで深いため息をついた。
「……ああ、クソ! 行くよ、行けばいいんだろ! お前みたいな無鉄砲を一人で死なせるわけにはいかねえからな!」
虚勢を張る声が、微かに震えている。
ルシアンは何も言わず、ただ、その依頼状を壁から引き剥がした。
***
森は、踏み入るほどに世界を喰らっていった。
入り口付近に満ちていた木漏れ日と鳥の歌声は、ギルドが定めた安全区域を示す最後の標石を越えた瞬間、嘘のように消え失せた。
`[Warning: 環境照度低下 / 植生密度上昇]`
まるで天蓋だ。神話の時代の巨木が絡み合い、太陽を完全に覆い隠している。
真昼にもかかわらず、辺りは濃紺の薄闇に沈んでいた。
空気が密度を増し、肌にまとわりつく。
腐葉土が幾星霜もかけて堆積した匂いと、湿った苔の匂いが混じり合い、肺の奥を重く満たしていく。
柔らかな土は一歩ごとに足首まで沈み込み、歩くというよりは泥濘を掻き分ける感覚に近い。
風が枝葉を揺らす音か、あるいは正体不明の何かの羽音か。
生命の気配だけは濃密なのに、それがかえって圧を伴う静寂を際立たせていた。
「なあ、ルシアン……本当に、こっちで……合ってるのか?」
カイルが、ほとんど吐息のような声で尋ねる。
彼の顔は土気色に変わり、額には脂汗が滲んでいた。
蛇のようにうねる木の根、風に揺れる蔦の影、その一つ一つに心臓を掴まれたように肩を震わせている。
「地図上は、この方角だ」
ルシアンは短く答えた。
彼の意識は、恐怖に囚われたカイルとはまったく別の次元にあった。
五感が、強制的に解き放たれていく。
湿った土を踏みしめる、自らの足音。
背後で、乾いた落ち葉を砕くカイルの、恐怖に強張った足音。
遠く、獣が爪で樹皮を削る音。風に乗って鼻腔をかすめる、微かな獣の体臭。
あらゆる情報が脳内になだれ込み、不可視の地図を脳裏に精密に描き上げていく。
恐怖はない。ただ、全身が巨大な感覚器官と化したかのような、極限の覚醒があった。
貸与品のショートソードの柄を握る指先に、自然と力が宿る。
これはただの鉄塊ではない。世界の律動を読み、己が意思を伝えるための神経の末端。今朝、あの男に教わったばかりの真実だ。
彼は、まるで水底を進む獣のように、音もなく木々の間を滑っていく。
枝を避け、ぬかるみを迂回する動きに、一切の澱みがない。以前の自分であれば、もっとがむしゃらに、森と格闘するように進んでいただろう。
だが今の彼は、森と敵対するのではなく、その一部として闇に溶け込もうとしていた。
「……なんだよ、今日のルシアン……気味が悪いぜ」
カイルが、絞り出すように呟いた。
「いつもと、空気が違うっていうか……」
「黙れ」
ルシアンが、ぴたりと足を止めてカイルを制した。その双眸は、薄闇のさらに奥、一点を射抜いている。
`[Warning: 高密度敵性反応を検知]`
「――何かが、いる」
言葉と同時。
地の底から響くような、喉の奥でくぐもった咆哮が、森の空気を震わせた。
カイルが「ひっ」と息を呑み、咄嗟にルシアンの背後へ身を隠す。
それは、これまで耳にしたどんな獣とも違う、飢餓と悪意だけを煮詰めたような音だった。
空気が、凍る。
風が止み、虫の音も、葉擦れの音も、すべてが死に絶えた。森全体が息を殺し、これから始まる純粋な暴力の予感に満たされている。
ルシアンはゆっくりと腰を落とし、鞘からショートソードを抜き放った。鈍色の刀身が、薄闇の中で冷たい燐光を放つ。
逃げるか、戦うか。
敵の正体、数、大きさ、すべてが未知。カイルを連れて、この視界の利かぬ森を逃げ切れる保証はない。ならば――。
魂核が、熱く、脈動を始めた。
それは恐怖ではない。未知なる強者との対峙を前にした、獰猛な歓喜。武者震い。
己がどこまで通用するのか。この目覚めたばかりの感覚は、本物の死線を前にして輝くのか、砕け散るのか。
「カイル。合図をしたら、あの岩陰に身を伏せろ。絶対に声を出すな」
「な、何言って……! 逃げるんだよ、今すぐ!」
「もう遅い」
ルシアンの言葉が、現実を定義する。
「――来る」
***
ルシアンの言葉が森の湿った空気に溶けきるか、否か。
前方の羊歯の茂みが、内側から引き裂かれるように激しく揺さぶられた。
腐臭が鼻を突く。ぬらり、と現れたのは涎に濡れた醜悪な貌。二本の歪な角。
`[Enemy: ゴブリン・リーダー(変異種)]`
ゴブリンだ。だが、その体躯は、路傍で朽ちる同族の痩せこけたそれとはまるで違う。
盛り上がった筋肉が黒ずんだ皮膚を押し上げ、ルシアンたちを睥睨するその背丈は一回りも大きい。
手には獣の何かの大腿骨を雑に削いだだけの、凶悪な棍棒が握られていた。
甲高い、耳障りな咆哮が上がる。それは合図だった。
左右の獣道からも、まるで待ち構えていたかのように二体の同族が躍り出る。
三方からの包囲。それは狩りの陣形。
彼らは、獲物として完全に品定めされていた。
「……あ」
絶望が、カイルの膝から力を奪った。
糸が切れた人形のように、彼はその場にへたり込む。
だが、その隣で剣を抜いたルシアンの双眸に、揺らぎは一片もなかった。
世界から音が消え、色彩が褪せる。
三体のゴブリンだけが、焼け付くような輪郭をもって彼の意識に存在した。
距離、武器、足場のぬかるみ、呼気の荒さ――。
あらゆる情報が瞬時に解析され、生存への道筋を弾き出す。
`[System: 戦闘行動予測……完了]`
(右、最短距離。だが足場劣悪。左、距離あり、開けている。正面、首魁。最も厄介)
思考が、氷のように澄み渡る。
時間が粘性を帯び、引き伸ばされていく。
ルシアンは正面の首魁から視線を外さぬまま、肺の底まで深く、静かに息を吸った。
「カイル」
震える背中に、凪いだ声で告げる。
「見ていろ。俺が道を斬り拓く」
それは、己の魂に刻む誓い。
次の瞬間、ルシアンは地を蹴っていた。
腐葉土の湿った感触が、足裏に吸い付く。
狙うは最も足場の悪い右翼。
三位一体の包囲が完成する前に、まず一角を崩す。
それだけが、この死線を覆す唯一の解だった。
彼の影が、薄暗い森を奔る一筋の閃光と化した。
***
温かく湿った腐臭の息と、獣の唸り。
右翼のゴブリンが振り上げた骨棍は、ルシアンの華奢な肉体を圧し潰すに十分な質量を宿していた。
だが、その一撃が空気を裂くより刹那早く、ルシアンの身体は地を舐めるように沈み込む。
ぬかるむ地面を滑るように踏み込み、がら空きの懐へ。
引き伸ばされた時間の中、振り上げられた腕、苦痛に歪む醜貌、剥き出しの黄ばんだ牙、その全てが彼の網膜に焼き付く。
狙うはただ一点。
棍棒を振り上げたことで無防備に晒された脇腹。
ショートソードの切っ先が、寸分の狂いもなくその急所へと吸い込まれた。
「グギャッ!?」
肉を断ち、骨を削ぐ、鈍く湿った手応え。
ゴブリンの絶叫が、静寂を取り戻しかけていた森に木霊する。
ルシアンは躊躇なく剣を引き抜き、後方へ跳んだ。
頬に熱い飛沫が散るが、彼の瞳は既に次なる敵を捉えている。
深手を負ったゴブリンは、己の脇腹から噴き出す血を信じられぬように見つめ、やがて膝から崩れ落ちた。
`[Notice: 敵性体1、無力化を確認]`
仲間が瞬く間に屠られたという事実が、残る二体のゴブリンの思考を獣から知性ある敵へと変貌させた。
正面の首魁と左翼の個体は、不用意な踏み込みを止め、じりじりと円を描くように距離を詰める。
もはや餌を見る目ではない。自らの命を脅かす、異物を見る目だ。
その変化が、ルシアンに刹那の思考時間を与えた。
(二対一。正面は膂力(STR)、左翼は速度(AGI)か……)
冷徹に分析する。
どう崩す。同時に来れば、確実に潰される。
誘い、分断し、各個撃破する。定石だ。
だが敵もそれを理解している。
膠着。
張り詰めた糸のような緊張が、三者の間に漂った。
その均衡を破ったのは、彼らの誰でもなかった。
ズン……。
不意に、足元の土が低く、重く震えた。
遠い巨人の足音のような、腹の底を揺さぶる不吉な律動。
`[Warning: 接近する高質量反応を検知]`
ゴブリンたちが訝しげに顔を見合わせ、警戒に牙を剥く。
ルシアンもまた剣を構え直し、振動の源を探った。
れは徐々に、確実に、明確な足音へと変わっていく。
ザザザザザッ!
森の深奥が、内側から破裂した。
鬱蒼と茂るシダの群れが爆ぜ、何かが凄まじい速度でこちらへ向かってくる。
地響きはもはや振動ではなく、内臓を揺さぶる重低音となっていた。
`[Warning: 高脅威度敵性体の接近を確認]`
理性を麻痺させ、本能的な恐怖を掻き立てる、純粋な暴力の予兆。
「な、なんだよ、今度は……!?」
カイルの掠れた声が響く。
ゴブリンたちもまた、目の前の剣士よりも、新たなる脅威へと意識を完全に奪われていた。
次の瞬間、木々をへし折り、茂みを突き破って、巨大な影が陽の届かぬ森に躍り出た。
猪の魔獣――ワイルド・ボア。
小型の荷馬車に匹敵する巨躯。
泥と苔に覆われた剛毛は、さながら粗雑な鉄の甲冑だ。
湾曲し、黄ばんだ二本の牙は、容易く人を貫くだろう。
飢餓と憎悪に濁った血走った双眸が、この場の全てを敵と見なしていた。
「グルルルルォォォォォッ!!」
鼓膜を突き破り、思考を麻痺させる純粋な暴力の音塊。
その咆哮だけで、ゴブリンたちの戦意は霧散した。
首魁でさえ悲鳴を上げ、踵を返して森の奥へと蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、ワイルド・ボアは逃げる者たちに一瞥もくれなかった。
その血走った双眸は、ただ一点――恐怖に立ち尽くすカイルと、その前に仁王立つルシアンだけを捉えていた。
`[Notice: 敵対的敵意が固定されました]`
獲物を定めた捕食者の目に、迷いはない。
「う、うわ、ああ……っ!」
カイルが尻餅をつく。
ゴブリンの群れが児戯に思えるほどの、絶対的な『死』そのものがそこにいた。
しかし、ルシアンは動かなかった。
彼の視線はワイルド・ボアの巨躯を舐めるようにスキャンしていた。
あの分厚い獣皮、その下の分厚い脂肪層。
ギルド貸与のなまくらなショートソードでは、突き立てても刃が通らない。
斬りつけても浅手で終わる。逆上させるだけだ。
`[Analysis: 物理攻撃力(STR)不足。有効打撃を与えられません]`
(殺せない。正面からの戦闘は、不可能)
魂核が、恐怖とは質の違う、冷たい警鐘を鳴らす。
それは絶望ではない。自らの限界を告げる、冷徹な分析の結果だった。
ならば、どうする。
ワイルド・ボアが、前脚の蹄で苛立たしげに地面を掻く。
突進の予備動作。
土塊が舞い、獣の荒い息が白く立ち上った。
ルシアンは静かに一歩、前に出た。
カイルを背で庇うように。
彼は構えていた剣を、ふ、と下ろす。
そして、刃を内側――自らの身体に向け、剣の腹を敵に見せるように水平に持ち直した。
剣術のどの流派にも属さぬ、あまりに無防備で、自殺行為に等しい構えだった。
「ルシアン……! に、逃げ――!」
カイルの絶叫は、迫り来る轟音に掻き消された。
ワイルド・ボアが地を蹴った。
それは突進ではなかった。
山塊そのものが、地を削りながら殺到してくるに等しかった。
木々が震え、空気が唸り、死の匂いがルシアンの全身に叩きつけられる。
`[Alert: 回避行動不可。衝撃判定が座標を覆います]`
回避は不可能。
あの質量と速度の前では、横に跳んだところで衝撃波に呑まれる。
ルシアンは、その鋼鉄の突撃から目を逸らさなかった。
迫り来る巨獣の鼻面、牙の角度、眼球の微かな動き。
引き伸ばされた時間の中で、全ての情報が彼の魂に焼き付いていく。
**【あとがき】**
Fランク冒険者が相対するには、あまりに絶望的な質量差。
この死線をルシアンはどう潜り抜けるのか。
続きを見守っていただければ幸いです。




