EP1-3 後編:初夜 静かな緊張と観測ノイズ
――無駄が多い。
――剣を大振りしすぎだ。STRで劣るなら、AGIと精度で殺せ。
――踏み込みはあと指三本分、深く。体重を乗せるな。軸足の回転運動を、遠心力として刃先に収束させろ。
――狙うは急所のみ。眼球。頸動脈。それ以外への攻撃はリソースの浪費と知れ。
焦りも、恐怖も、急速に凍てついていく。
後に残ったのは、眼前の「標的」を、最も効率的に「処理」するための、研ぎ澄まされた殺意の最適解だけだった。
ルシアンの肉体が、その思考に導かれるように動く。
あれほど重かった剣が、まるで腕の延長のように馴染む。半歩踏み込むと同時に、体を独楽のように鋭く回転させた。
手首の鞭のようなしなりを利かせた一閃が、水平に空間を薙ぐ。
それは、力任せに振り回すのとは次元が違う、洗練された一撃だった。
シュッ、と肉を断つ湿った音が、三つ、寸分の狂いなく同時に重なった。
ルシアンの眼前で、三匹のネズミが悲鳴を上げる間もなく絶命していた。首から鮮血を噴き上げ、痙攣しながら汚泥の中へと崩れ落ちる。
思考は止まらない。
――次。右後方、二匹。距離、三歩。
――左足で壁を蹴り、瞬時に距離を詰めろ。着地と同時に逆袈裟に斬り上げる。
――一匹目の顎を砕き、その勢いを殺さず、返す刃で二匹目の腹を裂け。
命令通りに、体が動く。
壁を蹴った反動で舞い、血飛沫を浴びながら、流れるような動作で二匹を同時に屠る。頬に付いた生温かい血の感触など、気にもならなかった。
それはもはや、戦闘ではなかった。
命を刈り取るという、単純極まる作業の反復。
一匹、また一匹と、ネズミの骸が積み上がっていく。
ルシアンの動きに、躊躇や迷いは一片もなかった。最短の動作、最小の力で、最大の殺傷力を生み出す。まるで、何万回と繰り返してきたかのような、手慣れた死の舞踏。
その瞳から、九歳の少年が宿すべき光は完全に消え失せていた。そこに映るのは、標的の弱点だけを映し出す、硝子玉のような無感情な光だけだ。
そして、最後の一匹が断末魔を上げた時、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
引き伸ばされていた時間の感覚が、凄まじいGと共に現実へと引き戻される。
耳に返ってきたのは、静寂に支配された下水道に響く、自分の荒い呼吸音と、肋骨を内側から激しく叩く心臓の鼓動だけだった。
ルシアンは、死骸の山の中で立ち尽くしていた。
松明の炎が、足元に転がる無数の骸を揺らめき照らす。腐臭に混じり、噎せ返るような血の匂いが鼻腔を刺した。
その手には、まだ温かい獣の血でぬらぬらと濡れた剣が握られている。
ぽた、ぽた、と切っ先から滴り落ちる赤黒い雫が、汚水に小さな波紋を描いては消えていく。
「……す、げぇ……」
呆然としたカイルの声が、沈黙を破った。シャベルを握りしめたまま、目の前で起きた殺戮が信じられないという顔でルシアンを見ている。
「なんだよ、今のは……お前、いつの間にそんな剣を……」
その言葉は、ルシアンの耳には届いていなかった。
彼は、自分の手を見つめていた。この小さな、まだあどけなさの残る手。この手が、たった今、十数匹の命を、何の感慨もなく、ただの作業として効率的に奪い去ったのだ。
(今のは、なんだ……?)
全身から、急速に血の気が引いていく。
あの冷徹な思考は、どこから来た?
あれは、本当に「俺」の思考だったのか?
もしそうなら、俺は一体、何なのだ。
ぞわり、と背筋に得体の知れない悪寒が走った。
自分の内側に、自分ではない「何か」がいる。
命を奪うことに、何の躊躇も、痛みも感じない、冷たい機械のような何かが。
その正体不明の存在が、今、確かにこの肉体を乗っ取って剣を振るったのだ。
「……おい、ルシアン? 大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
心配そうにカイルが駆け寄ってくる。
ルシアンは、カハッ、と喉の奥から空気が漏れる音を立てた。呼吸の仕方が、分からない。
剣を握る手が、カタカタと小刻みに震え始める。
カシャン、と甲高い音を立てて、血塗れの剣が手から滑り落ちた。
***
下水道の澱んだ空気を死臭のように纏わりつかせ、ギルドの扉を押し開ける。
その瞬間、昼下がりの喧騒が奔流となって二人を叩きつけた。松脂の燻る匂い、汗の酸っぱい匂い、安酒の甘ったるい香りが混じり合った、むせ返るような熱気。
掲示板に群がる傭兵たちの怒声、依頼達成を祝う声、鋼の鎧が擦れ合う音。
その全てが、ついさっきまでいた静寂と腐臭の底とは、完全に別の世界だった。ルシアンは、深海から引き揚げられたような激しい眩暈に襲われる。
自分の身体が、まるで借り物のようだ。一歩踏み出すごとに、関節が軋む。
血と汚泥に染まった服も、ネズミの喉を掻き切った右手の生々しい感触も、何一つとして現実味がない。
「戻ったか。おいおい、どぶ臭えな、お前ら」
受付カウンターの向こうで、帳簿をつけていた恰幅のいい職員が、鼻に深い皺を刻んだ。
カイルが気にせず、濡れて重い麻袋をカウンターに叩きつける。
「ああ、依頼完了だ。巨大ネズミ、残らず始末してきた。証拠の尻尾もこの通り!」
ごとり、と湿った重い音を立て、切り落とされた十数本の尾が転がり出た。粘つく血が、使い古された木のカウンターに汚れた染みを作る。
職員は無感動にそれを指で弾いて数え、帳簿に何かを書き込むと、革袋から銅貨を数枚、無造作に放った。
チャリン、という乾いた音が、命のやり取りの後にはあまりに軽く響く。三十枚の銅貨。
あの悪臭と死の感触、そして自分の内側に芽生えた得体の知れない冷たさの対価が、これだった。
「ほらよ、お前らの分だ。きっちり半分な」
カイルが銅貨を二つの山に分け、その片方をルシアンの前に押しやる。十五枚の銅貨。
指先で触れた金属の冷たさは、命の重さとは何の関係もない、ただの無機質な円盤の感触だった。
先ほどまで握っていた剣の柄の、血でぬるついた感触が蘇り、ルシアンは胃からせり上がる吐き気を奥歯で噛み殺した。
彼は無言で銅貨を革袋に掻き込む。その指先が、自分でも気づかぬうちに微かに震えていた。
カイルはそんなルシアンの様子には気づかず、腹の虫を盛大に鳴らす。
「よし、これで熱いシチューにありつける! もう腹ペコで死にそうだぜ。お前もだろ、ルシアン?」
その屈託のない声が、今はひどく遠い、水底から聞こえるようだった。
ギルドの食堂は、生命力そのものが渦巻く空間だった。
無数の傷が刻まれたテーブル、こぼれたエールが染みついた床。肉を焼く煙と、大鍋で煮込まれるシチューの湯気が、煤けた天井の下を漂っている。
誰もが大きな声で話し、笑い、木製のジョッキを打ち鳴らしていた。
そのエネルギッシュな喧騒の中、ルシアンだけが周囲から切り離された影のように、ぽつんと座っていた。
目の前の木の椀には、具の乏しい、生温い野菜シチューが注がれている。カイルはすでに半分ほどを夢中で胃に流し込んでいた。
「なあ、さっきのお前、マジですごかったぜ! まるで別人みたいだった。いつの間にあんな剣の腕を……」
スプーンを口に運びながら、カイルが興奮を隠せない声で言った。
その言葉が、ルシアンの胸に突き刺さる。
(別人……か)
その通りだ。あれは、自分ではなかった。
あるいは、今まで自分が知らなかった、魂の奥底に眠っていた「何か」。まるで戦闘に特化した別の人格に切り替わったかのように、命を奪うことに何の躊躇も痛みも感じない。ただ効率だけを求める、冷たい思考回路。
あの感覚は、今も皮膚の下で、静かに蠢いている。
「……たまたまだ」
ルシアンは、かろうじてそれだけを絞り出した。
シチューの湯気が顔を湿らせるが、温かみは感じない。椀の中に映る自分の顔が、まるでHPがゼロになったキャラクターのように青ざめて見えた。
味など、しなかった。ただ、空になった胃袋を何かで満たすだけの作業として、無心にスプーンを口へ運ぶ。
その時だった。
「ルシアン君、カイル君。お疲れ様」
ふわりと、石鹸と微かな花の香りがした。澄んだ泉のような声に顔を上げると、そこにラインが立っていた。
受付の制服ではない、簡素な亜麻のワンピース姿。休憩中なのだろう、その表情はいつもより柔らかい。彼女の明るい栗色の髪が、薄暗い食堂の灯りを吸い込んで、金の輪郭を描き出していた。
「ラインさん!」
カイルが口の中のものを慌てて飲み込み、子供のように顔を輝かせた。
ラインはにこりと微笑み、その視線をルシアンへと移す。心配そうに細められた、翠玉の瞳。
「依頼、無事に終わったのね。怪我はなかった? まだ二回目の依頼だし、しかも下水道なんて危険な場所だったから……ずっと心配してたの」
彼女はテーブルの脇に膝を折り、ルシアンの顔を覗き込んだ。その距離の近さに、ルシアンは息を詰める。
(心配……?)
その言葉の意味が、理解できなかった。なぜ、この人は自分のことを。数日前に会ったばかりの、素性も知れない孤児を。
彼女の瞳には、何の打算も含まない、純粋な気遣いの光だけが宿っていた。
そのあまりの清らかさが、汚泥と血にまみれた自分には、あまりに眩しすぎた。
(ダメだ……)
自分は、この優しさを受け取る資格がない。
この手は、命を奪った。何の感慨もなく、ただ効率的に。自分の中には、得体の知れない冷酷な「何か」が巣食っている。
そんな汚染された状態の自分が、彼女のような太陽の光を受けていいはずがない。
「……別に」
喉から絞り出した声は、ひどく冷たく、突き放すような響きを帯びていた。
ルシアンはラインの視線から逃れるように、椀の中の濁ったシチューに目を落とす。心臓が、システムエラーを警告するように、嫌な音を立てて脈打っていた。
彼女の優しさが、鋭い刃となって胸を抉る。受け入れてしまえば、この汚濁が、彼女の清らかさまで汚してしまう気がした。
ラインの表情に、一瞬、影が射したのが分かった。しかし彼女はすぐに、寂しさを隠すような、儚い微笑みを浮かべた。
「そっか。でも、無事でよかった。本当に……。無理はしないでね、二人とも」
そう言って彼女は立ち上がると、軽く手を振り、雑踏の中へと消えていった。彼女がいた場所には、石鹸のかすかな香りだけが、取り残されていた。
静寂が、ルシANとカイルの間に落ちる。
「……おい、ルシアン。そりゃねえだろ。せっかくラインさんが心配してくれてんのに、あの態度は」
カイルが、呆れと非難の入り混じった声で言った。
ルシアンは何も答えられない。
分かっている。自分がどれほど歪で、礼を欠いた態度をとったか。だが、どうしようもなかったのだ。
ありがとう、と素直に言うことができない。
心配してくれて嬉しい、と微笑むことができない。
他者からの無償の好意という名の回復魔法は、今の彼にはダメージにしかならない。自分は愛される資格などないのだと、魂が頑なに受け取りを拒否しているから。
***
椀の底に沈殿する、脂の浮いた冷たい塊。
ルシアンはそれをスプーンで、ただ無意味に掻き回していた。縁にこびりついた茶色い染みは、下水道でこびりついた汚泥の記憶のようだ。
スプーンの湾曲した腹に、ぐにゃりと歪んだ男が映る。
泣いてもいない。笑ってもいない。あらゆる感情を削ぎ落とした無表情。それは下水道の暗がりで起動した、あの冷酷無慈悲な「何か」の顔とよく似ていた。
ルシアンは、その顔から逃れるように固く瞼を閉じる。
世界の喧騒が遠ざかっていく。自分と世界の間には、決して渡ることのできない、深い溝が横たわっている。その絶対的な事実だけが、冷えたシチューのように胃の腑へと沈んでいった。
***
フォルティア中央魔法学院、第三魔法研究室。
午後の陽光が、高いアーチ窓のステンドグラスを通り抜け、室内に七色の光の塵を舞わせている。古書の黴と、微かなオゾンの匂いが混じり合う静かな空間だ。
その中央に置かれた巨大な黒板には、解読不能な術式の断片が書き殴られている。それはまるで超高難易度のクエストマーカーのように、数ヶ月もの間、学院の碩学たちを前に沈黙を続けていた。
「――解けました」
その沈黙を切り裂いたのは、硝子玉が転がるように冷徹で、抑揚のない声だった。
分厚い樫の机で資料の山と格闘していた老教授ガリウスが、椅子を軋ませて跳ね起きる。目の前に差し出された一枚の羊皮紙。そこには、流麗な筆致で、完璧な生命を吹き込まれた術式が描かれていた。
「こ、これは……馬鹿な……」
ガリウスは震える手でそれを受け取り、老眼鏡を額に押し上げながら食い入るように見つめた。
魔力回路網の緻密な接続、古代語の文法体系の完璧な解釈、そして何より、術式全体を貫く神的なまでの機能美。
数ヶ月に及んだ知性の停滞が、たった九歳の少女によって、講義の合間のわずかな時間でクリアされてしまったのだ。
「信じられん……完璧だ。いや、完璧という言葉すら冒涜に聞こえる!」
ガリウスは感嘆のあまり椅子を蹴立てた。
「ミリア君、君は正真正銘の天才だ! この術式が実用化されれば、魔力伝導効率は理論上、従来の三倍にまで跳ね上がる! これは魔法物理学の根幹を覆す大発見だぞ!」
老教授の顔は紅潮し、声は熱に浮かされている。未知の真理の扉をこじ開けた研究者としての純粋な喜びと、目の前の神童への畏敬が入り混じっていた。
だが、その賞賛を一身に浴びるミリア・レーンフェルは、精巧な魔導人形のように表情一つ動かさない。
陽光を弾く銀糸の髪。その奥で、紫水晶の双眸は、どこか現実から離れたまま虚空を見つめている。
「そうですか」
返ってきたのは、体温を感じさせない肯定だった。
ガリウスの熱狂が、冷水を浴びせられたように急速に萎む。彼は一つ咳払いをし、努めて穏やかな声で問いかけた。
「……嬉しくはないのかね? 君のこの功績は、学院の歴史にその名を刻むものなのだよ」
「『嬉しい』という感情の定義が不明瞭です」
ミリアはこてん、と小首を傾げる。子供らしい無垢なしぐさ。だが、そこに在るべき天真爛漫さは、一片たりとも存在しなかった。
「私は提示された未解決変数に対し、最小抵抗経路を導き出したに過ぎません。水が高処から低処へ流れるように、魔力もまた最も効率的な奔流を望む。それが最適解である以上、この結果は必然です」
「そ、そうか……。理屈の上では、その通りだが……」
ガリウスは言葉を失った。彼女の言うことは一から十まで正しい。魔法とは神秘の皮を被った物理現象であり、解明可能な法則の集合体だ。だが、その法則の果てに真理を見出した時、人の心には爆発的な感動が生まれるはずではなかったか。
この少女には、それがない。
まるで魂のない完璧な機械と対話しているかのような、背筋を凍らせる感覚。
「他に課題がなければ、失礼いたします。次の講義がございますので」
ミリアは深く、しかし機械的に一礼すると、教授の返事を待たずして踵を返した。
音もなく廊下を滑るように歩くその後ろ姿は、一枚の絵画のように完成されていて――そして、絶望的なまでに人間味を欠いていた。
研究室を出ると、学生たちの感情の濁流が彼女に襲いかかった。
楽しげに囁き合う令嬢たち。魔術理論を戦わせ、顔を赤くする男子生徒たち。彼らの顔には、歓喜、嫉妬、焦燥、恋慕、色とりどりの感情が万華鏡のように明滅している。
ミリアは、その間をすり抜けるように歩く。
彼女の網膜には、世界が膨大な『情報』として映し出される。風の温度、マナの粒子濃度、すれ違う生徒たちの心拍数と発汗量、壁を構成する石材の分子構造。そのすべてを瞬時に解析し、分類し、最適化する脳。
だが、その情報処理の奔流の中で、彼女自身の『心』だけが、錨を失った船のように漂流していた。
(ガリウス教授。心拍数132、瞳孔の散大、アドレナリンの分泌亢進。……生体反応における『喜び』のパターンと一致)
分析はできる。理解もできる。
だが、共感だけが、できない。
なぜ数式が一つ解けただけで、あれほどまでに魂を揺さぶられるのか。なぜ他者は、あんなにも容易く笑い、泣き、怒ることができるのか。
胸の奥、心臓があるべき場所に、ぽっかりと真空の穴が空いている。
風が吹くたび、その空洞を通り抜けてヒュウ、と寂しい音が鳴る。
彼女は無意識に、真新しい制服の上から、きつく胸元を握りしめた。
「……欠落品」
誰にも聞こえない声で、呟く。
自分が『完成された存在』ではないことを、彼女は誰よりも理解していた。
どれほど高度な術式を構築できようと、どれほど万巻の知識を脳に詰め込もうと、人間として最も根源的な機能が、自分には実装されていない。
それは、修復不可能な初期不良。
あるいは、この世に生を受ける際、魂のどこかに置き忘れてきてしまった、永遠の喪失感。
ミリアは立ち止まり、廊下の窓から空を見上げた。
吸い込まれそうなほどに、青い。
世界はこんなにも鮮烈な色彩と情報で満ちているというのに。
私だけが、この世界の『色』を感知できない、透明な異物なのだ。
予鈴が鳴り響く。
ミリアは表情を凍らせたまま、再び歩き出した。
その神が造りたもうたかのような完璧な美貌の下に、誰にも埋めることのできない奈落のような孤独を隠して。
***
フォルティアの空が血と紫紺に染まる頃。
ルシアンは、冒険者ギルド寮棟の自室の扉を開けた。ぎぃ、と湿った木材が呻く音が、墓場のような静寂に吸い込まれていく。
三階の突き当たり。与えられたのは、棺桶のように狭い小部屋だった。ベッドと粗末な机、そして古びて塗装の剥げた洋服箪笥が一つあるだけ。壁には歴代の住人が残したであろう正体不明の染みが広がり、天井の隅では蜘蛛が律儀に巣を張っている。
常に誰かの寝息と体温に満ちていた孤児院の大部屋とは違う。ここには、ひんやりとした孤独の匂いだけが満ちていた。
だが、その静寂は苦痛ではなかった。むしろ、生まれて初めて手に入れた、誰にも侵されない聖域のように感じられた。
彼は死体のように、身をベッドに投げ出す。スプリングの死んだ硬い寝台が、下水道での死闘で悲鳴を上げていた筋肉を鈍く打った。
まだ、鼻腔の奥に下水の腐臭がこびりついている。死と汚泥が混じり合った、魂に染み込むような臭気。
(生きている……)
それは歓喜ではなく、ただ、冷えきった事実の確認だった。
***
目を閉じれば、今も瞼の裏にこびりついている。
ぬらぬらと脂で濡れ光る巨大な鼠の群れ。足首を掠めてゆく、汚れた毛皮の感触。短い剣がその肉を断つ瞬間の、骨に響く鈍い抵抗。
かつての自分――灰色に沈む塔の街、あの夢の世界にいた頃の、硝子細工の人形のような自分であったなら、一日たりとも耐えられなかっただろう。不潔と暴力が支配し、明日の糧さえ約束されぬ、獣にも等しいこの暮らしを。
だが、今のルシアンの心を苛んでいたのは絶望ではなかった。むしろ、その逆だ。骨の髄まで染み渡る疲労と、胃の腑を焼く飢餓感、全身の筋肉が放つ熱っぽい痛み。その全てが、彼がこの世界で確かに『生きている』という、揺るぎない証となっていた。
軋む身体をゆっくりと起こし、腰の革袋を解く。留め金を外し、無造作に中身を木製の机へぶちまけた。
カラン、チャリン、と乾いた、侘しい金属音が虚ろな部屋に響き渡る。
今日の稼ぎ。巨大鼠の討伐報酬、銅貨十五枚。
ルシアンはそれを、祈りにも似た仕草で一枚、また一枚と指先で拾い上げ、丁寧に積み上げていく。汗と汚泥の臭いが染みついた、ざらついた感触。命を削り、汚泥に塗れて稼いだ、確かな重み。
ここから寮費と、貸与された剣の損料が引かれる。残るのは、硬い黒パンと塩漬けの干し肉をいくらか買えば消え失せる、ほんの僅かな額だ。
それでも、よかった。
誰かに与えられたのではない。この腕で、この命を危険に晒して掴み取ったものだ。その事実が、彼の胸の奥に熾火のような、小さくも確かな熱を灯していた。
ふと、彼はポケットに手を入れた。
指先に、ひやりと滑らかなものが触れる。
『始まりの森』で偶然手に入れた、あの黒い石。
取り出して、掌の上で転がす。
夜の虚空そのものを切り出して固めたかのような、深く、吸い込まれるほどの漆黒。表面は奇妙なほどに滑らかで、光の加減によって幻のように浮かび上がる、無数の幾何学紋様が刻まれている。あらゆる光を反射することなく、ただ自身の内側へと飲み込んでいく。鳥の卵ほどの大きさ。魂ごと引きずり込むような引力を秘めた重みが、心地よかった。
彼は窓辺へ歩み寄った。
西の空に最後の残滓として燃える夕焼けが、血のような一条の光となって部屋に差し込んでいる。
その死にゆく光に、石をかざした。
その瞬間。
光を飲み込むばかりだった石が、彼の掌の中で、確かに応えた。
トクン。
心臓が、一つ余計に脈打ったかのような微かな衝動。
いや、違う。それは、ルシアン自身の鼓動そのものだった。寸分の狂いもなく同期し、まるで彼の血がこの無機物の中を巡り始めたかのような、錯覚さえ覚える。失われたはずの身体の一部が、あるべき場所へと還ってきたかのような、根源的な歓喜と畏怖。魂が、その最も深い場所で震えた。
「……っ」
驚愕に息を呑み、思わず石を強く握りしめる。
振動はもうない。だが、生命の残響とでも言うべき確かな感触が、まだ掌に焼き付いていた。疲労が見せた幻覚などではない。
この石は、生きている。
そして、自分と『共鳴』している。
ルシアンは暫し、その黒い石を凝視していた。
これはただの石ころではない。この世界に堕ちて初めて見つけた、自分だけの秘密。誰にも語る必要のない、誰にも奪われることのない、唯一の宝物。
孤児院では、全てが共有物だった。着古した服も、冷たい寝床も、僅かな食事も。プライバシーという概念はなく、秘密を持つこと自体が罪だった。
だが、今は違う。
この石のことも、繰り返し見る灰色の世界の夢も、最近芽生えたこの異質な戦い方も、全ては彼だけのものだ。
孤独とは、自由が支払うべき対価であり、そして彼が手に入れた唯一の鎧だった。
彼は机に戻ると、積み上げた銅貨の塔の隣に、そっと黒い石を置いた。
くすんだ金属の輝きと、全てを飲み込む漆黒。
それが今、彼の世界の全財産だった。
壁に立てかけた古びた本が目に入る。母が遺したという、唯一の形見。そこに綴られた文字は、まだ彼には読めない。
だが、それがあるだけで、自分が独りではないと思えた。
「……おやすみ」
誰にともなく、ルシアンは呟いた。
それは、この世界の不条理さと、ささやかな戦利品と、そしてまだ見ぬ明日への、無言の挨拶だった。
部屋の静寂が、彼の言葉を優しく吸い込んでゆく。
貧しく、孤独な夜。
しかし、彼の心は不思議なほどに凪いでいた。
これから始まる永い物語の、静寂のうちに記された、最初の頁だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ルシアンの心の闇と、ミリアの天才性が垣間見えたでしょうか?
「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひブックマークや下の評価ボタン(★★★★★)で応援していただけると、執筆の励みになります! よろしくお願いします!




