EP1-8 中編:焦げ付いたシーツと重力の点火
早朝のフォルティアは、嵐の前の海のように静まり返っていた。
ギルド寮を出て、石畳の大通りを歩く。
靴底から伝わる硬質な感触が、今日という日の現実を骨の芯に刻みつけてくる。
通りには、同じ方角――中央区画に聳える『フォルティア中央魔法学院』を目指す馬車の列ができていた。
貴族の紋章を掲げた豪奢な馬車。裕福な商人の子弟を乗せた瀟洒なキャリッジ。それらが石畳を削る車輪の音だけが、朝の冷たい空気を震わせている。
ルシアンは、その馬車の列の脇を、影のように歩いていた。
着古した外套のフードを目深に被り、視線を足元に落とす。
三週間の節制と訓練。
体は以前より一回り引き締まり、感覚は剃刀のように鋭敏になっていた。
`[System: 感覚知覚(Sense Perception)の感度上昇]`
すれ違う馬車から漏れ聞こえる談笑、御者の舌打ち、遠くで鳴る教会の鐘。
それら全ての音が、彼の脳内で立体的な地図(3Dマップ)を描き出す。
「……行くぞ」
小さく呟き、ポケットの中の黒い石を握りしめる。
今日は、旅の終わりではない。本当の地獄への入り口だ。
彼は顔を上げ、街の中心に突き刺さる黒灰色の尖塔を見据えた。あれが、彼が挑むべき巨大な城塞だった。
彼はこの場所に、全てを賭けに来たのだ。
生まれ持ったこの忌まわしい力を、呪いではなく武器に変えるために。
痩せこけた胸の奥深く。
彼の魂核が、新たな戦いの始まりを告げるように、静かに、しかし力強く脈打っていた。
それは、まだ誰にも知られていない、小さな炉心の鼓動だった。
***
***
広場を抜け、遂にその巨大な影の下に辿り着いた。
フォルティア中央魔法学院。
大陸の魔術師たちがその頂を目指し、焦がれる最高学府。
目の前にある正門は、巨人が潜るようなアーチを描き、その下を豪奢な馬車が何台も吸い込まれていく。
ルシアンもまた、その流れに続いて足を踏み出そうとした。だが、
「おい、待て」
衛兵の、感情のない声が彼を止めた。
切っ先を向けられた槍が、ここがお前の通るべき場所ではないと告げている。
衛兵は無言のまま顎で、苔と染みに覆われた外壁の隅を示した。
そこにはドブネズミ専用とでも言うべき、小さな鉄の通用口が口を開けていた。
「外部受験者、及びギルド推薦枠はあちらだ。ここは選ばれた者だけが通る門だ」
分かっていたことだ。ルシアンは表情を変えず、小さく頷いた。
冒険者ギルドからの参加者は、獣のように裏口から入るのが慣例らしい。
分厚い鉄の扉の前で、別の衛兵に身分証と推薦状を突きつける。
彼は臓腑に響くような重い音の向こうへと、足を踏み入れた。
通されたのは、待合室と呼ぶにはあまりに空虚な石の間だった。
墓石をくり抜いたようなその空間の高い天井からは、鎖に吊られた魔光石のランプが屍体のようにぶら下がっている。
その死人のごとき青白い光は、部屋の隅に溜まる闇を払拭できずにいた。
壁も床も、継ぎ目の不揃いな石材が剥き出しのままだ。
石が吐き出す、何世紀も前の湿気と腐臭が空気に澱んでいる。
ここは地下牢だ。息をするたび、肺が圧迫されるような閉塞感があった。
その薄闇の中に、場違いなほど鮮やかな色彩が点在していた。
上質な絹のローブを身に纏った十数人の少年少女。
裕福な商人の子弟や、地方貴族の三男坊たちだろうか。
彼らはこれから始まる試験に向け、自信に満ちた表情で魔術の最終調整を行っている。
「――炎よ、矢となりて敵を穿て。『Sua, Gezi』!」
少年が詠唱を終えると同時、掌の前の空間に光の粒子が走った。
それらは目に見えない絵筆によって描かれているかのように、複雑な幾何学模様――魔法陣を空中に構築していく。
極小の人工精霊たちがマナを編み上げ、暴発を防ぐための安全回路を何重にも形成する。
教科書通りの、丁寧なプロセスだ。
数秒の後、完成した赤熱する円陣の中から、小さな炎の矢が吐き出され、音もなく宙に浮いた。
それは完全に制御され、安全で、そして遅い。
仲間たちが芝居がかった感嘆の声を上げた。
別の場所では、少女が水を操り、小さな盾を描いている。
「――水よ、盾となりて我を守れ。『Ura, Ezkutu』!」
こちらも同様だ。
青白い光が空中に波紋のような陣を緻密に描き出し、その幾何学のラインに沿って水が湧き出し、盾の形に固定される。
きらきらと光を反射する、ガラス細工のような魔法。
どれも教科書通りに完璧で、そして、ひどく空虚だった。
ルシアンの目には、それらが現実感のない書き割りのように映った。
生命の熱も、世界の根源に触れる質量も感じられない。
ただの現象の模倣。薄っぺらな玩具。
「――あ?」
ふと、炎の矢を浮かべていた少年が、ルシアンの視線に気づいた。
`[System: 飢餓状態(Starvation)継続中]`
三週間の飢餓が刻んだ傷は、今も身体の芯で疼いている。
空っぽの胃が、時折、固く絞られた雑巾のように痙攣した。
その痛みに耐えるように腹部を腕で押さえると、擦り切れたシャツ越しに、浮き出た肋骨の硬い感触が指に伝わった。
腰のショートソードだけが、冷たい鉄の重みで彼の存在をこの場に繋ぎ止めている。
柄に巻かれた革はささくれ、鞘には錆が浮いた、ギルド貸与の量産品。
今の彼には、この鉄屑こそが分相応に思えた。
貴族たちの軽薄な笑い声が、石室にガラスの破片のように反響する。
彼らの世界と、ルシアンの世界は決して交わらない。
彼はただ、息を殺し、影の中で時が過ぎるのを待つだけの存在だった。
「おい、見ろよ。なんだ、あの溝鼠は」
嘲りが、澱んだ空気を切り裂いた。
視線を向ければ、豪奢な真紅のローブを纏った少年が、取り巻きに囲まれながら侮蔑の眼差しでルシアンを指さしている。
この場の中心人物らしい。
その指先には、これみよがしに大粒の宝石を嵌めた指輪が鈍く光っていた。
「ひどい格好だな。物乞いが紛れ込んだか?」
「ギルドの推薦枠とやらだろう。平民でも魔力さえあれば講習くらいは受けられるそうだ」
「平民?いや、あれは骸骨だ」
甲高い笑い声が湧き上がる。
飢えも、貧しさも、死の匂いさえも、彼らにとっては自分たちと無縁の滑稽な見世物でしかない。
ルシアンは答えなかった。
感情は、飢えの果てに削ぎ落とした。
怒りは体力を消耗するだけの無駄な爆発だ。
彼はただ、自分を嘲笑う少年を冷たく見つめ返した。
その瞳に映るのは、人間ではなかった。
`[Target: 敵性体(Hostile)]`
`[Analysis: 脅威判定なし(None)]`
形は人だが、中身は空っぽだ。
親から与えられた地位、金で買い与えられた知識、見栄と虚飾で塗り固められた空虚な器。
その魂には、何の重さもなかった。
「なんだ、その目は。下賤の分際で、僕を睨む気か?」
真紅のローブの少年が、苛立ちを露わに一歩踏み出す。
指先に小さな雷の火花がぱちぱちと弾けた。
威嚇のつもりだろう。先ほどの火球よりは洗練されている。
だが、やはり軽い。
風が吹けば霧散する、根無し草の力。
――重さが、足りない。
ルシアンの内で、声にならない声が響いた。
お前たちの使うそれは、魔法ごっこだ。
本物の力は、もっと、どろりとして、重く、冷たく。
世界の根源に繋がる絶対的な質量を持つ。
胃の痙攣が、不意に収まる。
代わりに、胸の奥深く――魂の核が宿る場所が、ずくりと熱を帯びた。
`[Notice: 敵性反応への自動防衛起動]`
怒りではない。侮辱への反発でもない。
ただ、目の前の『空虚』が、俺の内なる『実体』を刺激したのだ。
磁石の同極が反発し合うように、本能的に。
ドクン、と。
心臓が、一つ、大きく脈打つ。
世界から音が消えた。
貴族たちの嘲笑も、魔法の輝きも、水底から水面を見上げるように遠ざかっていく。
視界から色彩が剥落し、世界はモノクロームの濃淡に沈んだ。
空気の密度が変わる。
深海に沈んでいくような、圧倒的な圧力が全身を押し潰しにかかる。
柱に預けていた背が、強張ったように浮いた。
無意識のうちに、俺は身体を起こしていた。
真紅のローブの少年が、異変に気づいて息を呑む。
その顔から余裕の色が消え失せ、生の恐怖が浮かんでいた。
「な……なんだ、貴様……」
指先が、小刻みに震え始めた。
恐怖ではない。制御しきれない余剰熱量の放出現象だ。
体内の『機関』は、主の意思など歯牙にもかけず、飢えた獣が檻を食い破るが如く抑制の弁を内側から吹き飛ばす。
激越な憤怒を燃料にして、自壊をも厭わぬ臨界の領域へと、暴力的な過回転を開始していた。
`[Warning: 魔力炉心、異常加熱]`
ドクン、ドクン、と。
心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰したかのような熱さが血管を駆け巡る。
視界が陽炎のように歪み、耳の奥で高周波のノイズが鳴り響く。
周囲の空気が異常な熱で揺らぎ、蜃気楼のように歪み始めていた。
魂の核が、炉心のように唸りを上げている。
解き放て、と内なる獣が叫ぶ。
この空虚で繊細な硝子細工のような連中に、質量を持った暴力の味を教えてやれ、と。
彼らの完璧な魔法陣ごと、その脆弱な肉体を吹き飛ばすのは容易い。ただ、タガを外すだけでいい。
あと一瞬。
あとコンマ一秒、思考を止めれば、内なる『機関』は限界を超え、この狭い石室で熱暴走を起こしていただろう。
それは、ここにいる全員を巻き込んだ、醜悪な自爆事故になったはずだ。
だが、俺は右手の指を、強く、強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、肉を裂く。
その生々しい痛みだけが、俺を現実へと引き戻す楔となった。
「……ッ、く……」
奥歯を噛み締め、呼吸を整える。
これは、力ではない。ただの欠陥だ。
歪んだ『炉心』が、制御を失って暴走しているに過ぎない。
ポケットの中にある黒い石。あの共鳴の正体を解き明かすまでは、こんな場所で無意味に破裂するわけにはいかない。
`[System: 魔力炉心……冷却開始]`
ふっ、と熱が引いていく。
世界に色が戻り、溶解しかけていた風景が急速に冷却され、冷ややかな『現実』へと凝固した。
ルシアンの額から冷たい汗が流れ落ちる。
彼は何事もなかったかのように再び柱に背を預け、荒くなった呼吸を必死に押し殺した。
目の前の貴族たちが、怪訝そうに彼を見ている。空間の揺らぎに気づいたのか、それとも単に彼が急に苦しみだしたように見えたのか。
「おい、なんだ急に震え出して……病気持ちか?」
「気味が悪いな、放っておこうぜ」
彼らは興味を失い、再び自分たちの魔法自慢へと戻っていった。
安全な温室で爪を磨ぐだけの彼らには、隣で臨界に達した『死』が、紙一重で沈黙したことなど知る由もない。
ルシアンは、彼らにもう興味はなかった。
ただ静かに目を閉じ、自分の内側で依然としてくすぶり続ける残り火を、必死に鎮める作業に没頭した。
`[Status: 精神汚染全解除]`




