EP1-7 中編:泥啜りの記憶
ギルドの扉を開けた瞬間、喧騒が一瞬だけ遠のいた気がした。
夕暮れ時の冒険者ギルドは、一日の仕事を終えた者たちの熱気でむせ返っていた。
暖炉で爆ぜる薪の匂い、エールが呷られる音。そして武勇伝を語る大声が混じり合い、一種の混沌とした活気を生み出している。
それはルシアンがよく知る、日常の光景のはずだった。
だが、彼が一歩足を踏み入れると、その調和は僅かに、しかし確実に崩れた。
最も近くにいたテーブルの屈強な男たちが、訝しげに鼻をひくつかせ、顔を見合わせる。
その視線が、まるで汚物でも見るかのようにルシアンへと注がれた。
さざ波のように困惑と嫌悪が広がり、あれほど満ちていた喧騒が、彼の周りだけ嘘のように静まり返っていく。
原因は分かっていた。
全身に染みついた、腐った泥と錆びた鉄が混じり合ったような、胃の腑からこみ上げてくる悪臭。
排水溝の底に溜まっていた澱は、彼の存在そのものを汚染していた。
それは単なる汚れではない。
スラムの、最底辺の仕事に従事した者だけが纏う、拭い去ることのできない烙印だった。
人々が道を空ける。
それは敬意からでは断じてない。まるで忌むべき病原菌を避けるかのように、彼らはルシアンから距離を取った。
「おい、なんだあの匂い」
「どこのドブさらいだ」
「Fランクのガキはこれだから……」
侮蔑の言葉は、鋭いガラスの破片となって彼の鼓膜を突き刺す。
ルシアンは唇を固く結び、無表情を装ってカウンターへと向かった。
背中に突き刺さる無数の視線が、まるで物理的な重みとなって肩にのしかかる。
顔を上げれば、嘲笑と憐憫が入り混じった瞳が待ち構えているだろう。
だから彼は、汚れた床の板目だけを見つめて歩いた。
この屈辱に耐えること。
それが今の彼に許された、唯一の戦いだった。
「ルシアン!」
その声は、淀んだ大気を切り裂くように、クリアに響いた。
人垣を割って、一人の少年が駆け寄ってくる。
健康的に日焼けした顔。
耐久度の減りを感じさせない、新品同様の革のチュニック。
腰に差した鉄の剣は、入念なメンテナンスが施され、陽光を鋭く反射していた。
「カイル……」
思わず、乾いた声が漏れる。
同い年。同日登録。
スタートラインは同じだったはずの友人。
だが今のカイルは、直視できないほどの輝き(オーラ)を放っている。
光と、心地よい汗と、勝利。
それらで構成された彼の存在は、ルシアンの抱える劣等感を容赦なく暴き立てる。
カイルから漂う清潔な石鹸と若草の香り。
それが、自分の全身にこびりついた下水のような悪臭を、残酷なまでに対比させていた。
「お前、ひでえ匂いだな! また変な依頼でも受けたのか?」
カイルは鼻に皺を寄せ、屈託なく笑う。
その無邪気さが、防御力(DEF)を無視してルシアンの胸を抉った。
悪意のない言葉こそが、時に最も高い貫通力を持つ。
「……まあな」
「そうか! まあ、そんなことより飯に行こうぜ! リナが『陽だまり草』の群生地を見つけてさ、採ってきたのを全部売っ払ったら大漁だったんだ!」
カイルが得意げに腰の袋を叩く。
ジャラリ。
鈍く、重い金属音。
銅貨の軽い音ではない。高密度の銀貨が擦れ合う、富の音だ。
袋の口から覗くその輝きは、今のルシアンには眩しすぎた。
「受付のおっちゃんも上機嫌でさ。今日は肉だ! 串焼きのでかいやつ、おごってやるよ!」
その言葉に反応し、ルシアンの胃が小さく収縮する。
`[Notice: 飢餓状態(Hunger)が進行しています]`
朝から何も食べていない。
カイルの提案は、枯渇したHPを一瞬で回復させるポーションのように甘美だ。
だが――その回復アイテムに手を伸ばすことは、今の彼には許されない。
泥にまみれた自分の指先。
健康的に日焼けしたカイルの手。
ポケットで虚しく転がる銅貨五枚。
袋の中で重厚な音を立てる銀貨の山。
スラムの悪臭を纏う自分。
希少クエストの達成に胸を張る友人。
その圧倒的なステータス差が、残酷なほど鮮明に網膜へ焼き付く。
これは、施しだ。
友情という名の甘い毒。
それを飲み込めば、飢えは満たされるかもしれない。
だが代償として、冒険者としての牙を失うことになるだろう。
ルシアンはゆっくりと首を横に振った。
「……遠慮しておく」
声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
感情という水分を、全て蒸発させた砂のような声だった。
「え? なんでだよ。腹減ってんだろ?」
カイルの笑顔が困惑に曇る。
純粋な善意が拒絶されたことへの、戸惑いがありありと浮かんでいた。
「『奴ら』と食え」
ルシアンはそれだけ言うと、カイルの横をすり抜けてカウンターへと向かった。
背後で息を呑む気配がしたが、振り返らなかった。
友情を求める心と、強さを求める渇望。
その天秤は、もはや揺らぐことすらなかった。
今の自分に必要なのは、腹を満たす餌ではない。
牙を研ぐための、孤独という名の砥石だ。
***
受付の男は、露骨に鼻をつまみながらも、手早く依頼完了の手続きを済ませた。
汚れたギルドカードと引き換えに、カウンターに置かれた銅貨五枚。
ルシアンはそれを無言で掴み、ポケットに押し込んだ。
指先に伝わる金属の冷たさと重みが、今日の屈辱の対価だった。
ギルドホールを去ろうとした、その時だった。
雑多な依頼書がびっしりと貼られた掲示板の、その片隅。
一枚の古びた羊皮紙が貼られているのが、ふいに視界の端に引っかかった。
派手な討伐依頼や護衛依頼の陰に隠れ、誰にも注目されていないその一枚。
だが、なぜかその紙片だけが、強烈な違和感として彼の意識を引きつけた。
吸い寄せられるように近づく。
インクは滲み、紙の端はほつれていたが、そこに書かれた文字はまだ読むことができた。
『フォルティア中央魔法学院・特別編入試験実施要項』
その文字列を、ルシアンは食い入るように見つめた。
貴族や富裕層の子弟が通う、雲の上の存在。
そんな場所が、なぜ冒険者ギルドの掲示板に?
彼の視線は、さらに下の小さな文字を追った。
『身分・出自を問わず、類稀なる魔術的才能を持つ者を発掘するため、特例として編入試験を実施する。合格者は学費・寮費を全額免除とする』
そして、その下には震えるような筆跡で、試験日までの残り日数が記されていた。
――あと、三週間。
その瞬間、ルシアンの世界から音が消えた(ミュートされた)。
冒険者たちの喧騒も、自分の纏う悪臭も、空腹さえもが遠のいていく。
彼の瞳に映るのは、ただその羊皮紙の文字だけだった。
泥と悪臭にまみれた、最底辺からの脱出ルート。
それは、剣を振るうことでも、ゴブリンを狩ることでもない。
彼が内に秘めた、あの鉄塊の如き力を正当に振るうための、唯一の道筋。
`[System: 新規ルート『学院編入(Academy Enrollment)』を検知]`
ルシアンは周囲の死角を確認すると、掲示板からその羊皮紙を素早く引き剥がした。
手早く、汚れた服の内ポケットへと滑り込ませる。
胸の内で、冷たく、しかし確かな決意の炎が静かに燃え上がっていた。
この屈辱も、この孤独も、全ては未来への礎となる。
彼は踵を返し、今度こそ迷いなくギルドの扉へと向かった。
背中に投げかけられる視線は、もはや彼を傷つけることはない。
今の彼にとって、それは単なる背景ノイズでしかなかった。




