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アルケリア・クロニクルLNR 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜 LightNovelRemix  作者: アズマ マコト
第1章

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EP1-5 後編:泥の中の銅貨

 その言葉が意味を結ぶより早く、横合いから伸びた手が、張り詰めた静寂を乱暴に引き裂いた。


「ミリア様! このような掃き溜めで、何を。……お戻りください。我々の空気が澱みます」


 引率役の男子生徒だった。


 その声には、貴族特有の傲慢さと、隠しきれない焦燥が粘りついていた。

 汚物でも払うかのように、少年は少女――ミリアの細腕を掴む。

 その指は、血の気を失うほどに強く食い込んでいた。





 ミリアは抵抗しない。


 まるで意思(AI)をシャットダウンされた人形のように、引かれるままに身体が傾ぐ。


 彼女の存在が、俺――ルシアンの認識領域から離れた瞬間だった。


 懐に入れていた石の脈動が、ぴたりと止む。


 代わりに、胸の奥を物理的に抉られたような空洞が生まれた。


 引き剥がされる感覚。


 あのビジョンで感じた無力感が、今、現実の肉体へのフィードバックとして俺を苛んでいた。


 無理やり背を向けさせられ、出口へと連れられていくミリアが、ただ一度、振り返った。


 青紫の瞳は、深淵のように静かだった。


 だが、ルシアンの知覚は捉えていた。


 その底で、声にならない何かが揺らめいているのを。


 助けを求める悲鳴か、置いていかないでという懇願か。解析不能エラー


 だが、それを見捨てれば、自分の構成要素パラメータの何かが決定的に壊れてしまうと、本能が警鐘アラートを乱打していた。


 `[Warning: 精神汚染危険域クリティカル・メンタル・インスタビリティを検知]`


 動けなかった。


 強力な『金縛り(ホールド)』を受けたように、足が床に縫い付けられている。


 引率生徒が放つ刺すような敵意。生まれという、決して越えられないステータスの格差。


 そして何より、内側で荒れ狂う理解不能な感情の奔流が、思考リソースの全てを麻痺させていた。


 分厚い扉が軋み、閉ざされる。


 少女の気配シグネチャが完全にロストした途端、呪いが解けたように世界に音が戻った。


 冒険者たちの下卑た笑い声、エールジョッキがぶつかる音、床を踏み鳴らす無骨な足音。


 その全てが、先程までの静寂を冒涜するかのように、ルシアンの鼓膜を殴った。


「おい、見たかよ今の……」


「中央魔法学院の制服だ。なんであんな雲の上の連中が、こんな肥溜めに……」


「あのガキ、何かされたんじゃねえのか?」


 好奇と侮蔑の視線が、槍のように突き刺さる。


 だが、ルシアンの音声入力にはもう届いていなかった。


 嵐は去った。


 懐で微熱を保つ石と、脳内ストレージに焼き付いた記憶の残滓。


 そして、魂の半分を抉り取られたかのような、途方もない虚無だけを残して。


「……おい、ルシアン。大丈夫か?」


 カイルが、心配そうに肩を揺さぶる。その声すら、現実味がない。


「顔、死人みてえだぞ。一体誰なんだ、あの子は……知り合いか?」


 知り合い?


 あり得ない。天上の星と、泥中の石ころ。マッチングするはずがない。


 だが、あの瞳。あの声。この、胸を灼くシステム外の痛み。


 答えられなかった。


 ルシアンはただ、ミリアが消えた扉を呆然と見つめる。


 何が起きた?


 あの少女は、誰だ?


 そして、俺の中にいる、この『喪失』は――誰のものだ?


 答えを、手掛かりを、この混沌を理解するための攻略本ガイドを。


 飢えた獣のように、ルシアンの視線がギルドホールを彷徨う。


 雑多な依頼書がひしめく掲示板。いつもなら見向きもしないその板の一画に、彼の目が釘付けになった。


 そこだけが、まるで『重要クエスト』を示すマーカーのように、異質な空気を放っていた。


 上質な羊皮紙に、流麗なインクで綴られた告知。


『――中央魔法学院主催:魔法基礎講習 参加者募集――』


 魔法。


 脳髄に焼き付く烙印のように、その二文字がルシアンの思考を貫いた。


 ミリアを連れ去ったあの不可視の力。


 常人の理を超え、世界の物理法則を捻じ曲げる奇跡。


 祝福された『特権階級アドミニストレータ』のみが扱える、自分とは無縁の領域。そう、信じて疑わなかった。


 だが、今は違う。


 あの現象。ミリアの瞳の奥で揺れた燐光。そして、今もなおこの胸の奥で疼く記憶の熱。


 点と点が線で結ばれるには、世界の理そのものを、根源から解体クラックする必要があった。





 視線が、告知の羊皮紙の下隅に吸い寄せられる。


『参加費:銅貨五十枚』


 その数字が網膜を焼いた瞬間、心臓が凍てつく冬の川に投げ込まれたように収縮した。


 銅貨五十枚。


 それは、この数ヶ月、ルシアンが泥を啜り、魂を削り、生存そのものを切り売りして手に入れた対価リソースのすべて。


 ゴブリンの返り血に染まり、巨大ネズミの巣で汚物にまみれ、眠る時間さえ惜しんでかき集めた、彼の命の結晶だ。


 なまくらの貸与剣レンタル・ウェポンを捨て、己の命を守る一本のまともな鋼の剣を買うための、唯一無二の希望。


「……おい、ルシアン」


 隣から絞り出すような声がした。カイルだ。


 ルシアンの視線の先にあるものに、彼も気づいたのだ。


「正気か。……まさか、馬鹿な真似はしねえだろうな」


 声には焦燥と、ほとんど懇願に近い響きが滲んでいた。


「やめろ。絶対にやめるんだ。魔法なんてのは、生まれついた星が違う連中のためのもんだ。祝福された血か、神に愛された才能か。俺たちみたいな掃き溜め育ちが触れていい領域じゃねえ」


 カイルの言葉は、氷のように冷たく、そして正しかった。


 この世界の揺るがぬ真実ルール


 生存本能が頭蓋の内側で、狂ったように警鐘を鳴らす。


 `[Warning: 装備更新アップデート推奨]`


 剣がなければ死ぬ。


 次の依頼クエストで、ゴブリンの棍棒に頭蓋を砕かれるか、猪の牙に喉を食い破られるか。その程度の違いしかない。


 戦闘禁止期間など名ばかりだ。この街で生きるには、常に牙を剥いていなければならない。


 武器こそが、唯一の神だ。


 理性が、脳が、カイルの言葉に全面的に同意していた。


 そうだ、やめろ。これは狂気の沙汰だ。


 明日の命を投げ打って、掴める保証もない幻に手を伸ばすなど、愚者の極みだ。


 だが。


 魂が、それを拒絶エラーした。


 心の最も深く、暗い場所。そこに座る何者かが、声なき声で叫んでいた。


 知らなければならない、と。


 あの少女は何者で、この胸の痛みは何で、そして、自分は、一体何者なのか。


 この問いから目を逸らし、ただ生き永らえる。


 それは本当に「生きている」と言えるのか?


 意味も分からず呼吸し、餌を食らい、眠るだけの肉塊。檻の中の家畜(NPC)と、何が違うというのだ。


 死の恐怖と、魂の渇望。


 その二つが彼の内で血を流しながら争い、天秤は軋み、今、まさに砕け散ろうとしていた。


「……死ぬぞ、ルシアン」


 カイルが、現実を突きつけるように言った。


「本当に死ぬ。俺は、お前の無残な死体なんざ見たくねえ」


 その言葉が、最後の引きトリガーとなった。


 ルシアンは、ゆっくりと顔を上げた。


 その双眸から、迷いは消え失せていた。


 あるのは、崖淵から奈落へ身を投じる罪人のような、昏く、静かな覚悟だけ。


 彼は無言でカイルの横をすり抜け、一歩を踏み出した。


 鉛を飲まされたように足が重い。


 一歩、また一歩、受付カウンターへ。


 周囲の冒険者たちが、訝しげに道を開ける。


 好奇、侮蔑、そして憐憫。無数の視線アグロが槍となって背中に突き刺さる。


 カウンターでは、受付嬢のラインが頬杖をつき、長い亜麻色の髪を指で弄んでいた。


 その気怠げな瞳が、幽鬼のような足取りで近づくルシアンを捉える。


 彼女の目に映る自分は、さぞ滑稽なのだろう。


 血の気を失くした顔で、全財産を握りしめて最後の賭けに出る、哀れな孤児。


 カウンターの前に立つ。


 震える手で、腰の革袋を掴んだ。


 紐を解き、逆さにし、その中身をすべて、硬い木のカウンターにぶちまけた。


 ジャラララッ、と鈍く重い音が、静まり返ったギルドホールに響き渡った。


 それは、ルシアンの生存権が砕け散る葬送曲だった。


 茶色くくすんだ銅貨の山。


 一枚一枚に、彼の血と汗と、ささやかな希望が染みついている。


 `[System: 決済完了]`





 ラインの、常に気怠げな仮面に、初めて微かな亀裂が走った。


 ルシアンは、その銅貨の山を、震える指先で前へと押しやった。


「……これで……『魔法基礎講習』を、お願いします」


 声が、喉に張り付いて掠れた。


 生存リソースを放棄し、未知の真理(魔法)にすべてを賭ける。

 常人ならば理性が狂気と断じる選択だ。

 だが、俺の『戦術思考』は告げている。これは浪費ではない。

 生存確率を底上げするための、極めて合理的な初期投資(ビルド構築)だと。


 ラインは、ルシアンの顔と銅貨の山を二、三度見比べ、ふっと短く息を吐くと、いつもの事務的な表情に戻った。


「はい、承りました。銅貨五十枚、確かに。お名前は?」


「ルシアン・フォルト」


「では、こちらが参加証になります。日時は裏面に記載しておりますので」


 彼女は手際よく銅貨を木箱に掻き入れると、一枚の羊皮紙をルシアンに差し出した。


 背後で、カイルが絶句している気配がした。


「……本気、なのかよ……」


 力なく呟く声が聞こえる。

 だが、その声はもうルシアンの心には届かない。


 差し出された羊皮紙は、参加証というにはあまりに重く、まるで判決文のようだった。

 それを、壊れ物を扱うように両手で受け取る。

『重要アイテム(キー・アイテム)』の獲得だ。


 視線を落とした先の手は、もう空っぽだった。

 先程まで、ささやかな未来への切符を握っていたはずの手。

 腰の革袋の虚しい軽さが、彼の選択の重さを物語っていた。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 代わりに、胸の奥で熱を宿す石が、彼の狂気を是とするかのように、一度だけ、とくん、と力強く脈打った。


 `[Notice: 魔力回路マナ・サーキットとの微弱な共鳴を検知]`


 嵐は終わったのではない。

 本当の嵐は、今、始まったのだ。


 呆然と立ち尽くすカイルの視線の先で、ルシアンは空っぽになった両の拳を、血が滲むほど強く、強く握りしめていた。


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