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色は違えど

作者: 松乃 和夏
掲載日:2025/10/29

この世には、三種類の人間がいる。

「人外」「人」「ヒト」。

その中でも「ヒト」、通称カタカナと呼ばれる者たちは、外界から来た者、または彼らの子孫のことを言い、寿命も長くて百年と短く、力も弱かった。そのため、内界と呼ばれるこの世では「ヒト(カタカナ)」は、「人外」や「(カンジ)」からよそ者の弱者として扱われ、古くから埋めようのない格差が生じていた。



◇◇◇



 カノエは今日も店中を走り回っていた。あちこちから大声で名前を呼ばれ、言いつけられた仕事をこなしたかと思えば、今度はまた別の場所から声がかかる。ちょうど店に入ってきたお客はその様子を見て、うちの下男と交換したいくらいだと笑った。

 ここは日本街にある歓楽街の一角。大きな街なだけあってまだ日は高いというのに大通りには多くの人々が行き交い、カノエの働く茶屋も、他の店の例に漏れず繁盛していた。


「カノエ、ここ拭いといてくれよ」


「はい! ただいま!」


 決して清純とは言えないこの店で、カノエが忙しくしている理由は無論、カノエが売れっ子だからではない。そもそも、売れっ子というのはどれだけ忙しくともこのようにドタバタと店の中を走り回ったりはしないものだ。

 カノエはこの茶屋の使い走りであった。いや、訳ありの陰間、という方が正しいだろうか。とにかく、お客は取らず、ひたすら言いつけられた仕事をする。それがカノエの日常であった。

 しかし、それにしても最近のカノエはいつにも増して根を詰めて働いている。それはこの店の常連たちの中でもちょっとした噂になっていたのだが、実は、カノエがここまで一生懸命に働くのには明確な理由があった。焦っているのだ。先日、ゴミ出しに外に出た際に耳に入った、店の陰間たちの噂話。それをうっかり盗み聞いてしまってから、どうにも気持ちが早って仕方ない。



◇◇◇



「今日のお客、私に爪を立ててきたんですよ。本当、自分の毛深い手から生えた立派な爪をもう一度よく見てほしいものです」


「ああ、人外の相手は堪えるね。私もなるべくしたくない」


「でも、あんまり選好みもいけないよ。なんてったってあんまり粗相をすると雑用に回されちゃうらしいんだから。雑用なんかになったら首を切られるまで秒読みって話だよ」


「ええ? それじゃああの子はどうするんです? 新人の……あの子ですよ」


「ああ、どうだろうね。あの子ははじめから雑用だし。でも、お客を取れない子は直にいなくなるよ。ここではずっとそう」



◇◇◇



 お客を取れなければ追い出される。

 カノエとて花街での生活は長い。お客を取れなくなって外に放り出された人間を今までもたくさん目にしてきたし、なにより己の身を持って知っている。そんなことは分かりきったことであった。分かりきったことではあったのだが……。


「ここを追い出されたら不味い……!」


 そう、周囲の店を何件もたらい回しにされてきたカノエにとってここは最後の砦。ここを追い出されればカノエにはもう行く場所がない。ろくに学もない「ヒト(カタカナ)」の身が一人で生きていけるほどこの世は甘くないということをカノエとてよく知っている。


「カノエ、お客様をご案内して!」


「はい! っこちらに」


 だからせめて、自分はまだ役に立つのだということを示さなければ。下手なことをして追い出されてはたまらない、とカノエは気合を入れ直して立ち上がった。



◇◇◇



「空いてる?」


 カノエが相変わらずドタバタ店の中を走り回っていると、ふいに騒々しい店内に涼やかな声が響いた。それは決して大きな声ではなかったが、まるで夏の風鈴の音のように、不思議と周りの喧噪を撥ね退けて、やけにはっきりとカノエの耳に届いた。

 その音色に導かれるようにカノエが足を止めて振り返ると、そこには遊女が身に着けるような鮮やかな銀朱色の羽織を身に纏い、三枚歯の高下駄を履いた長髪の男がこれまた涼し気な風を纏って立っていた。もっとも、カノエが彼を男だと認識できたのは、彼の容姿を見るより先に、彼の声を聞いていたからである。その姿だけを見れば、どこかの高級な店の太夫のような雰囲気に、女だと錯覚してしまっていたことだろう。しかし、男だと知ってからよく見てみれば、確かに彼は羽織の下に男物の黒い着物を着ているし、着物の袖からちらりと見え隠れする白い手首も長い指も確かに男のものだ。


「ああ、旦那」


 カノエが彼の纏う空気に呑まれて何も言えずに惚けていると、店主がそそくさと男の元へ駆け寄って来た。様子を見る限りどうやら面識があるらしい。それにしても、横柄な客に対してもいつも強気な対応をする店主が腰を低くぺこぺこ頭を下げているのは珍しい光景だった。


「カノエ! 早くお茶をお出ししなさい」


 彼は一体何者なのだろう。店主の態度や彼の纏う空気からして高貴なお方なのだろうか。そんなことを考えていると、突然自分の名前を呼ばれ、カノエは慌てて返事をして、これまた慌ただしく駆け出した。


「いけない。失敗はしないようにしようと決めたのに」


 店主と男が奥の座敷に入っていく気配を感じながら、カノエは口の中で呟いた。

 店内では、今しがた入ってきた不思議な男の話をする声がぽつぽつと聞こえる。その中には、彼のことを知っているような口ぶりで話す者も少なくはないようだった。


「……とても綺麗な人だったし、有名な役者さんとか?」


 カノエはお茶を用意しながらそう口にしてみたが、いやいやこんな下級茶屋に有名役者が用なんてあるものか、と苦笑とともにすぐに打ち消した。一人の時間が長いせいか、独り言が癖になりつつある。


「旦那、それで今日はどんな用件で?」


「何、ただ寄ってみただけだよ、少し疲れたしね」


「旦那になら良い子を紹介しますよ」


「……」


 店主と男の話を邪魔しないように、カノエは静かに座敷へ入ると男に頭を下げながら用意した茶を差し出した。一目見たときから分かってはいたが、近くで見ると彼の、冷たささえ感じるほどの美しさが一層際立って見えた。それでもカノエが彼を恐ろしいと思わなかったのは、彼が薄い唇で描いた弧を崩さなかったからだろう。


「この子は?」


 少しの間、男は出されたお茶の水面を眺めていたが、ふいにカノエに視線を向けた。


「え?」


「この子も店の子なんだよね?」


「いや、この子は……」


と店主が戸惑いながら男の要求を退けようとする声がしていたが、男がカノエに視線を向けた瞬間から、もうその声はカノエの耳には入っていなかった。つい先ほど見惚れたばかりの彼の視線が肌を焼くような思いだった。

 どうしよう。

 それだけがカノエの頭に降り積もって冷静さを失っていく。

 カノエはお客を取らない。この店に売られて来てからも、この店に売られる前も、お客は取って来なかった。

 いや、お客を取ることができなかったのだ。


「……あのっ、わ、私、はっ……!」


 カノエは、目の前の釣り目気味な男の目から逃れるように視線をさ迷わせながら、纏まらない思考をかき集めるように声を上げた。しかし、言葉は上手く音にならず口を無様にはくはくと動かすだけで繋がらない。堪らずカノエは、この男から逃れたいという一心で縺れる足を無理やり動かして立ち上がった、はずだった。

 がしゃん。

 という大きな音が、店の喧噪を逃れた静かな座敷に響き渡った。


「あ、」


 そう、カノエが卓袱台に足を引っかけて、男の前に置かれたお茶をひっくり返したのだ。見ると、まだ口をつけられていなかったお茶は、卓袱台の上を滑り落ち、男の華やかな羽織の袖を濡らしていた。

「あ、ご、ごめんなさい……! すみません!」


 その光景に、ただ目を泳がせてぐちゃぐちゃの謝罪を繰り返すことしかできないカノエを、何をしてるんだ! と店主が怒鳴りつける。


「早く拭かないか!」


 そう店主に言われて、カノエは急いで手近にあった手拭いで男の羽織や卓袱台を拭き始めた。その手が、見て分かるほどに、滑稽に震えていることなど気にする余裕などないようであった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 もう後はないかもしれないのに、失敗をしてしまった。

 上客らしいこのお客は自分をどうするだろうか。

 そんなことばかりがカノエの頭に浮かんでは積もっていく。


「いいよ」


 ふいに、店に入ってきた時と変わらない、風鈴のような声音が上からカノエの鼓膜を揺らした。男はそのまま、カノエの手首に、手入れの行き届いた大きな手を重ね、カノエを制した。そして、一言。


「この子はいくら?」


 男が発した言葉に、カノエはもちろん店主も一瞬意味を理解することができなかった。

 それはつまり、今しがた失敗をし、自らの羽織を濡らしたカノエを、この男は買おうと言うのである。


「だ、旦那。先にも言いましたが、その子はお客を取っていないんです。なんでも、何度もお客から逃げ出してはここらの店を何件もクビになっているもんで……。そんなわけですから、旦那のような方に満足していただけるような品ではないんですよ。他の陰間を呼びましょう。彼らの方が旦那も気に入るでしょうから」


 店主は、大慌てで別の、店の主力になっているような陰間たちの名前を挙げ始めた。欠陥品であるカノエをこの上客に売りつけて、後で問題が起きるのはどうしても避けたい、といったような様子だ。

 カノエは、店主の口から明かされる己の過去の過ちに、耳を塞ぎたいような気持を必死に抑えて項垂れるしかなかった。


「そう。でも私は、この子がいくらか聞いたのだけど。この子は売っていないの?」


「いえ、そういうわけでは、ないんですが……」


 店主たちの問答を聞きながら、カノエはぼんやりと思考を巡らせていた。

 ここに残るか、買われるか。

 例えここに残ったとしても、これだけの大きな失敗をしてしまっては、この後すぐにでも店主に首を切られてしまうだろう。だからといって、この男の元に買われて行って、それで幸せに暮らしていけるなんて、そんな都合が良い話があるだろうか。


「君、名前は?」


「……え? あ、カノエ、です……」


 どこか煮え切らない態度の店主に焦れたのか、男はぱっとカノエの方に顔を向け、真っすぐにカノエの目を見て言った。カノエは急な問いかけに戸惑いながらも静かな部屋にさえ消え入りそうな声で名前を名乗る。名を訊かれるなんて久しぶりのことだった。男はカノエの名前を聞いて満足したのか、カノエの失礼ともとれる怯えた態度を気にした風もなく、


「カノエ、君はどうしたい?」


と尋ねた。この男はなぜこれほどまでに自分を買おうと固執するのか。他の陰間を買う方が満足できるだろうに。とカノエは図りかねて、先ほどから何度考えても答えの出ない二択をもう一度天秤にかけ直した。


「……わかりません」


しかし、やはり答えを出すことは難しかった。

 クビか、買われるか。

 どちらを選んだとしても、明るい未来が待っているとは思えなかった。


「……そういえば、私のことを何も話していなかったね」


 男の真っすぐな目を受け止めきれずにカノエが目を逸らすと、男はそれを咎めることもなく笑った。


「私は、ヨシノ。(カンジ)だ。日本街の関所で伴頭をしている」


 男は慣れたように短く自己紹介を済ませると、もう一度カノエの顔を覗き込んだ。


「君には関所の手伝いをして貰いたいと思っているんだ。今、人手が足りなくてね」


「カノエは、どうしたい?」


そう言ってヨシノはまたふわりと笑った。洗練されて上品な、でもどこかあどけなさを感じるような笑い方だった。

 これまで、カノエに下心も嫌味もなく、こんなにやわらかな笑みを向けてくれた人がいただろうか。そもそも、意見を尋ねられたことすら、カノエにとっては初めてのことかもしれなかった。

 それでもこの人が何を考えているのか、本当のところはわからない。無知で馬鹿なカノエを騙して、今よりもっと酷いところに連れて行こうとしているかもしれないし、下心がないように見えたというのだって、実際どうかわからない。

 カノエは改めてヨシノの切れ長の目を見返したが、やはり真意は汲み取れなかった。でも確かなことは、もう先ほどのような恐怖心は襲って来なかったということだ。

 このままここにいても、いずれ用済みとされて捨てられるだけ。それなら今ここで得体のしれない男に買われようが同じことではないか。そんな楽観的な諦めのような気持ちが湧いてきて、カノエの天秤は躊躇いがちに、しかし確かに、ゆっくりと傾いた。



◇◇◇



 昼時の大通りを、カノエはヨシノの思いのほか広い背中を追いかけて歩いていた。この辺りは昼も夜も人でごった返している。少しでも気を抜けばヨシノとはぐれてしまいそうだった。対するヨシノは、人込みを気にした様子もなくすいすいと進んでいく。まるで、ヨシノの通る道だけ、彼に合わせて開けていっているようにカノエは錯覚した。


「ああ、ごめんね。もう少しゆっくり歩けば良かった」


「いえ、大丈夫です」


 ヨシノは花街を過ぎた辺りで思い出したかのようにカノエを振り返った。

 彼は、店に入ってきた時から今まで、終始柔和な笑みを浮かべていて、物腰も同じく柔らかだったが、彼が何を考えているのか、それだけは依然としてカノエには分からなかった。


「もう少しだよ。この大通りを真っすぐ。関所に来たことはある?」


 ヨシノは、カノエが隣に追いついたのを横目で確認すると、今度は先ほどよりもゆっくりとした歩調で歩き出した。


「いいえ、花街から出たことはないので……」


「そう。今度色々見て回ると良いよ。気に入るかもしれない」


 ここまでの道中、二人は幾度か言葉を交わしてはいるが、カノエが変に身構えてしまっているせいか、会話と呼べるほどのものにまではなかなか発展しない。今回も、カノエの答えにヨシノが気を悪くした様子はなかったが、会話が途切れて沈黙が訪れる度カノエの不安は少しずつ大きく膨れていくようだった。



◇◇◇



「はい、着いた」


「ここが?」


 それからまた少し歩いて、花街の華やかさが鳴りを潜めた辺りでヨシノは足を止め、カノエの背に手を回すとゆるく背中を押すようにしてカノエを彼より一歩前に立たせた。つい先ほどまでなら背中に触れたヨシノの大きな掌に身を固くしていただろうが、カノエは初めて見る関所の外装に目を奪われていてそれどころではなかった。

 関所には、ここまでの道中目にしてきたどの屋敷よりも大きく立派な八脚門に、寺院のように堂々たる佇まいの母屋、そして小さな神社のような離れがあった。離れの周りには乱雑に鳥居が並んでいる。関所というのはどこもこのようなものなのだろうか。まるで歴史ある建造物のような関所の風格にカノエは隣に立つヨシノを思わず仰ぎ見た。


「驚いた? ここは少し変わっているから」


 ヨシノはカノエの反応を予想していたかのように、楽しそうに笑うと、会ったときからずっと手で弄んでいる煙管を手の中でまたひとつ回した。ヨシノが煙管を動かす度に白檀の澄んだ甘い香りがカノエの肺を満たしていく。


「変わっている?」


「うん。こんなに派手な関所は珍しいよ」


 まあ、私はこれを結構気に入っているのだけれど。ヨシノは小さくそう付け足すと、じゃあ中へ入ろうか、とカノエを促した。



◇◇◇



「おかえりー!」


 母屋の裏口へ通されると、物音を聞きつけたのか奥からぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。


「ただいま。二人とも、自己紹介をしてあげて」


 現れたのは、そっくりな見た目をした男の子と女の子だった。二人とも色の違う巫女装束を身に纏い、鈴緒のような紅白の紐で襷がけをしている。後ろで結ばれた大きな蝶結びが前から見ても良く目立っていた。


「アタシ、イト! お兄ちゃんだあれ?」


 先に、元気よく声を上げたのは、朱色の袴を履いた女の子の方だった。大きくつり目がちな瞼は彼女の快活さを引き立てている。


「ボクは、サト」


 その後に白藤色の袴を身に着けた男の子が続いた。こちらはイトとは対照的に引っ込み思案らしく、イトに似た大きな目を垂れさせて、カノエを控えめに見上げていた。


「わ、私は、」


「あれ? お客かい?」


 カノエが二人に促されて名乗ろうとしたとき、被せるように奥から壮年の女性が姿を現した。女性は淡い江戸紫の着物に身を包んでおり、化粧気がなく決して華やかとは言えなかったが、表情や仕草一つひとつから彼女の芯の強さが垣間見えていた。凛とした、という表現がこんなにもよく似合う女性を今まで見たことはない、とカノエは思う。


「今日からここで世話をすることになったから」


 ヨシノは高下駄を脱ぎ、上がり框に足を掛けながら言った。店でカノエが濡らしてしまった羽織も脱いでイトに渡している。


「はあ、またかい。ここは託児所じゃないんだからね」


 女性の呆れたような物言いに、カノエの緩み始めていた体にまた力が入った。

 その様子に気がついたのか、女性はもう一度大きく溜息を吐くと、


「まあ、いいか。あんた名前は?」


と言った。


「カノエ、です」


 カノエはおどおどした様子で女性に名前を告げた。少しだけ解れていた緊張が一気に戻ってきたような心地だった。


「カノエ、ね。あたしはマツカゼ。カノエ、今日からよろしく頼むよ」


 しかし、返ってきた言葉はカノエが予想していたそれのどれでもなく、カノエを受け入れるようなものだった。声音も、ぴんと張った釣り糸のように凛としていたが、そこに冷たさは全く感じられず、優しさが込められていた。


「っはい! よろしくお願いします」


 そこにマツカゼの気遣いが感じられて、カノエは深く頭を下げた。自然とカノエの声にも張りが出る。マツカゼは、そんなに畏まらないでおくれよ、と困ったように笑っていた。



◇◇◇



「ごめんね。部屋が空いていなくて。しばらく私と同室なんだけれど」


 カノエは、母屋から渡り廊下を通って離れへ通されると、そのまま二階のヨシノの部屋に案内された。高下駄を脱いだヨシノは外にいた時よりも視線が合いやすい。


「いえ、大丈夫です」


 ヨシノに促されてカノエも腰を下ろしながら、答える。その後の会話がどうしても繋がらない。

 しかし、暫しの沈黙の後、カノエは意を決したように勢いよく顔を上げた。


「あのっ、どうして、俺……私を?」


 少し上ずった声ではあったが、カノエから言葉を発するのはこれが初めてだった。ヨシノはその問いを聞いて一瞬目を細め、何かを言おうと口を開きかけたが言葉にはせず、視線を煙管から上る煙に移して、もう一度気を取り直すようにして言った。


「ん? 別に、深い意味はないよ。ただ、カノエのことが気に入ってね」


 その答えに、カノエは納得しきれない気持ちが湧いてきたが、それ以上追求することはできなかった。ただ、ヨシノをがっかりさせる前に事情だけはしっかりと説明しなければ、という焦りがカノエを絶えず急き立てていた。店で店主が説明していたが、ヨシノはあまり重く捉えていない様子だったことが気になって、自分の口で詳しく話した方がお互いのためになるのではないかと思ったのだ。


「わ、私……その、お客は取れなくて」


「うん。聞いたよ」


 焦りと追い立てられるような使命感で、なんの脈略もなく話し始めたカノエにヨシノは少し不思議そうな顔をしながらも返事をしてくれた。


「その、理由が、あって……私は、っあの」


「……カノエ。その理由っていうのは、これから先、カノエが私に話したいと思ったときに聞くよ。別に私はカノエを陰間として買ったわけじゃないしね」


 言っただろう? 私は関所の手伝いをしてほしくてカノエを買ったんだ、と言うヨシノは、カノエが事情の説明をしたくてしているわけではないということに気づいているのだろう。


「でも、」


「それと、話し方も、好きにして良いよ。君は自由だ」


 ヨシノはそう言うと、この話はお終い、と笑った。白檀の甘い香りが優しくカノエの頬を撫でる。


「……お、俺。ここで何をしたら良い……?」


 長い沈黙の後、部屋に満ちた甘い香りに促されるように、カノエは躊躇いがちに言葉を紡いだ。本格的にヨシノの意図がわからなくて頭のなかは纏まるどころか整理のつかない疑問でいっぱいだった。


「そうだな。私の助手、というのはどう?」


「助手?」


「うん。お使いに行ったり、私を起こしてくれたり……」


 私は朝が弱いから、とヨシノはカノエの緊張に目を向けずに言った。どんなことをさせられるのか、と身構えていたカノエの肩からも少し力が抜ける。今まで幾度となくされてきた見ないふりが、こんなに優しいものに変わることがあるのかとカノエは内心泣きたいような気持ちになった。


「そうだ。店でも話したけれど、私はここの伴頭でね。とは言っても、経営の方はマツカゼに任せっきりなんだけれど……。でも、何もしていないわけじゃない。ここらでは厄介事が多いから、それを丸く収めるのが私の仕事。カノエはその手伝いをしてくれれば良い」


 ヨシノはカノエの顔色を窺うように覗き込むと続けた。


「難しいことはないよ。少し面倒だけれどね。大丈夫、カノエにもできるよ」


 できる、と他人に言われたのはいつぶりだろうかとカノエは考えた。ヨシノはこの短い間にカノエにいくつの初めてをくれただろう。今こうして対等に話をしてくれていることだって、つい数時間前まで考えもしなかったことなのだ。自分に何も求めず、高い金を払い、ここまでカノエを連れてきたのに、ヨシノの態度は変わらない。


「俺、頑張ります」


 カノエは顔を上げ、ヨシノを真っすぐ見返すとはっきりとした声で言った。その顔には、内から自然と溢れて来るような高揚が、一筋の涙として道を作っていた。


「うん。よろしくね」


 ヨシノもそれにつられるように、嬉しそうに目を細めた。


◇◇◇



 翌日、カノエが目を覚ますと部屋にヨシノはいなかった。

 どのくらい眠っていたのだろうか。やけに頭がすっきりとしていて、心は凪いだ水面のように穏やかだった。こんな朝はいつぶりだろうかとぼんやり考えていると、遠くから話し声が聞こえてきた。会話の内容までは聞き取れないが、ヨシノと誰か男の人が話しているらしい。

 その声にはっとして、カノエは勢いよく立ち上がると、布団を畳み、昨日ヨシノに貰った着物と袴に着替えはじめた。それは昔関所で働いていた少年が置いて行ったというものらしく、若葉色の着物に深緑の袴、そして肌触りの良いシャツだった。

 どうやらヨシノたちは階下にいるようだが、マツカゼたち以外にもここに住んでいる人がいるのだろうか。カノエがいる離れは居住区域で、関所のお客は皆母屋の方に来るのだと昨晩ヨシノが言っていたのを思い出した。とりあえず、寝坊をしてしまったことを詫びるためにもヨシノの元へ行こう、とカノエは階段を降りることにした。



◇◇◇



 階下に降りると、ヨシノと、ヨシノに負けず派手な格好の男がいた。


「なー、今なら二千円まけてやるからさー」


「煩い。どうせまた偽物なんだろう?」


「はー? 言いがかりはよせよ。今日のはホンモノだ」


「どうだか」


 どうやら、男はヨシノに怪しげな石を売りつけているところらしい。男が動くたび金糸雀色の羽織から覗く蓮の刺青が彼の怪しさを助長している。尖った犬歯と彼の頭から突き出た二本の角を見て分かるように、彼もヨシノと同じく「(カンジ)」のようだった。


「おはよう。よく眠れた?」


 声をかけても良いものかカノエが逡巡していると、いつから気づいていたのかヨシノが声をかけてきた。自然とヨシノの向かいに座る派手な男の視線もカノエに向く。


「あ、おはようございます」


你好(ニーハオ)ー。あ、お前が噂の新入りか?」


 カノエが、ヨシノの後ろで頬杖をついている粗暴な男に警戒しつつ挨拶をすると、男はヨシノの陰から顔を覗かせて、以外にも人懐っこい笑顔を見せた。


「え、あ、はい! カノエです。初めまして」


 彼の見た目と中身の差に戸惑いながらカノエがいそいそと頭を下げると、男は、


「んな怯えんなよ。俺はタカオ。はじめましてー」


と砕けた調子で手を振った。


「タカオは古い知り合いでね。少し荒っぽいけど悪い人じゃない」


「なんだよ、ヨシノ。知り合いって、俺らはもっと深い仲だろー?」


 ヨシノはそれには答えずに、


「彼は行商人だ。油を売りに来たら入れてやって」


と付け足した。なんだかんだ仲が良いらしい。


「ヨシノ! 手があいてたらちょっと届け物を頼まれてくれるかい?」


 無視かよー、とタカオが大して気にした様子もなくヨシノに絡んでいるのをカノエが眺めていると、母屋へ続く渡り廊下の方からマツカゼの声がした。声はだんだんと近づいてきて、部屋の襖を開けると


「なんだい。アンタかい」


と言った。タカオは「マツカゼさん早安(ザオアン)―」とカノエにもしたように手を振った。それにマツカゼはおはようと返す。マツカゼの態度からして、タカオはよくここに出入りしているらしい。


「じゃあ、カノエでいいか。ヨシノ、カノエを借りていくけど良いね?」


とマツカゼはヨシノを見て言った。


「良いよ。カノエ、初仕事だ。マツカゼについて行きな」


と、ヨシノは煙管を燻らせながらカノエに微笑みかけた。今日は白檀の香ではないらしい。カノエの知らない香りがゆっくりと部屋に広がっていき、ヨシノを囲っていた。



◇◇◇



「それで? お前、あいつをどうする気だ?」


 タカオは、カノエが完全に声の届かない所まで行くのを見届けると、ヨシノに向き直った。ヨシノは、タカオがそうすることを分かっていたように、


「どうって?」


と、いつもの微笑みを湛えたまま煙管を回している。


「とぼけんな。わかってんだろ」


 タカオは苛立たし気に茶の入った湯呑を引っ掴むと一息に飲み干した。


「あの双子を拾ってきた時にも言ったはずだ」


「拾ったんじゃないよ。買ったんだ」


「ヨシノ」


 タカオが焦れたようにヨシノを鋭く睨みつけると、ヨシノは彼にしては珍しく苦笑をし、わかったよ、と制するように片手を上げた。タカオの貧乏ゆすりがほんの少し緩くなる。


「人手不足の解消だよ」


 ヨシノがそう続けると、タカオは不機嫌を隠すことなく舌打ちをし、止まりかけていた貧乏ゆすりも再開された。


「おい、」


「タカオ、仕事の時間だろう? 私も仕事だ」


 タカオの話を遮るようにヨシノがそう切り出すと、タカオは大きく溜息を吐いて立ち上がった。座っているときの姿勢があまり良くなかったために目立たなかったが、タカオは背が高い。そして、離れの勝手口までドスドス音を立てながら歩いていくと、ヨシノを振り返って言った。


「……ヨシノ。無責任に手ぇ出すのはやめろ。そんなんなら最初(ハナ)っから見向きもされねー方が断然マシだ。お前も知ってんだろ」


 タカオは先ほどよりも少し声を落として言った。真っすぐに紅い三白眼がヨシノを見つめる。

 ヨシノは彼のこの目つきが昔から少し苦手だった。何も知られていないはずなのに、全てを見透かされているような心地がする。


「肝に銘じておくよ」


 ヨシノは張り付けていた微笑を僅かに崩し、手元の煙管に目線を落としながら答えた。


「それじゃあね。また近いうちに」


 しかしそれも一瞬で、一度深く息を吐くと顔を上げ、いつもの微笑でタカオに手を振った。それを見て、タカオは呆れた様子で頭をかき乱すと、


「あー、またな」


と短く答え、勝手口の戸に手を掛け出て行った。



◇◇◇



「ここかな……?」


 カノエは、マツカゼに頼まれて商店街に来ていた。どうやら今朝関所に来た商人が忘れ物をして行ったらしい。商人はよく関所を通る常連のようで、いつもなら、また来た時にでも渡してそれで済ませるそうなのだが、今回の忘れ物はそうにもいかないようだった。


「おはようございます! あの、忘れ物を届けに……」


 カノエが、マツカゼに渡された地図を頼りに店に入り、そこまで言うと店の奥から地震でも起きたのかと思うほどガタガタと大きな音がして、そのあとすぐに店主らしき男が飛び出してきた。


「ああ! もしかして関所の子かい!?」


 そしてそのままカノエに飛びつかんばかりの勢いで男はカノエの元に駆け寄ると、息を切らせながら尋ねてきた。


「ええ、はい」


 カノエが、そのあまりの勢いに狼狽えながら答えると、男は急に重力に全てを委ねたように脱力し、


「良かったあ……」


とカノエに縋りつくように両肩を持って言った。


「あの、これマツカゼさんに頼まれた忘れ物です」


 そう言いながらカノエは懐から、薄い金属でできた手のひら大の板を取り出した。


「ああ、ありがとう! 本当に! 助かったよ。これから関所に行こうと思っていたところだったんだ!」


 男はカノエが差し出した小さな板を大事そうに握り締めながら、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。持ち主の手の中で、金属の板はつやつやと朝の光を反射している。


「あの、それって何なんですか?」


 聞いて良いものか迷ったが、男の喜びように、そんなに大事なものなのかとカノエは訊かずにはいられなかった。


「あ? 兄ちゃんこれを知らないのかい?」


 男は少し驚いたようにカノエを見たが、


「これは通行証だよ。これがないと俺たちは関所を通れねえ。いや、俺たちだけじゃねえな。外界に出るやつは皆そうさ。普通は都度、関所で発行して貰うもんだが、俺たちはしょっちゅう出入りするから特別なもんを発行して貰ってるのさ。俺たちにとってこれを失くすってことは職を失くすのと同義だよ」


「そうなんだ……。とても大事なものだったんですね」


「ああ、だからこれを届けてくれたお前さんには感謝してるよ。マツカゼにもお礼を言っといてくれ」


「わかりました。伝えます」


 親切に教えてくれた上、お礼にと茶菓子まで持たせてくれた男に、カノエは言いようのない暖かさが身体を巡っていき、自然と口元が柔らかく弧を描いていくのを感じた。


「では、失礼します。お菓子も、ありがとうございます」


 そう言って、カノエが頭を下げて店を後にしようとした時、そうだ、と男は思い出したようにカノエを呼び止めた。


「お前さんの名前を聞いてなかった。関所の新人ならまた会うこともあるだろうし。名前を聞いてもいいかい?」


 カノエは、振り返ると小さく笑って答えた。


「カノエです」



◇◇◇



 一面の闇。

 戸が閉め切られていて空気の入れ替わらない座敷には、湿った匂いが染みついていた。

 首も、腕も、足も重たい鎖で繋がれて、これでは犬畜生の方がまだましではないか、と苦笑していたのはいつの話だっただろうか。

 ああ、あの戸が開け放たれればいくらか気分もましなのに。

 いや、あの戸が開いた時にはもっと惨めな思いをすることに決まっている。

 もう、開かなければいい。

 皆、忘れてしまえばいい。

 身体に残った醜い痣も、服を着てしまえば誰にも気づかれない。

 そう、衣を纏ってしまえばいい。



◇◇◇



「……シノ……ヨシノ!」


 ヨシノが目を覚ますと目の前にカノエの顔があった。


「……どうしたの?」


「どうしたの? って……。もう、お昼だよ? マツカゼさんが呼んでます」


 カノエが呆れたように息を吐きながら立ち上がると、窓から差し込む陽の光がヨシノの目を焼いた。もう日が高いのは本当らしい。


「マツカゼが?」


「うん。詳しいことは聞いてないけど、受付に来いって」


 ヨシノが欠伸を押し殺しながら体を起こすと、カノエはヨシノの着替えと煙管を手にしながら答えた。そして部屋を出ていく前に、


「早く着替えてくださいよ」


と小言を言うのも忘れない。

 カノエがここへ来てからもう二か月が経とうとしているが、関所の生活にもすっかり慣れ、今ではヨシノの世話係が板についている。あの、部屋の隅でおどおどしていたカノエが懐かしくすら感じることもあるが、カノエは本来ああいう子なのだろう。

 ヨシノは緩慢な動作で立ち上がると、姿見の前に立ち、寝間着を脱ぎ始めた。寝間着が肩を滑り落ち、ヨシノの白い肩が露わになる。ヨシノは暫しの間、感情の籠らない瞳で鏡に映った己の身体を見つめていたが、苛立ったように視線を逸らした。老いを知らない「(カンジ)」の身体はあの頃からさほど変わっていない。


「くだらない」


 ヨシノは、カノエに渡されたいつもの着物に手早く着替えると、煙管を持って姿見に背を向け部屋を出た。もう、ヨシノの顔には苛立ちの気配はなく、いつもの微笑が浮かんでいた。



◇◇◇



 階段を下りて、ヨシノが受付けに顔を出すとマツカゼが


「やっとかい」


と呆れたように振り返った。


「まったく、いつまで寝てるんだい」


 とうに皆働いてるよ、と言いながら、受付けの机の引き出しから一枚の紙を取り出すとヨシノに渡した。


「まあ、とりあえず、何か食べて。カノエと出かけてきておくれ」


そう言うと、マツカゼはヨシノの答えも聞かずに仕事に戻って行ってしまった。


「……外、ね」


 ヨシノはそのやけに質の良い紙に視線を落としながら煙管を回した。

 その紙とは、許可証発行のための書類であった。許可証とは、商人たちの持つ通行証と同じような役割を果たす勘合符である。普段関所を使わないような庶民でも、この許可証があればそれぞれの関所を行き来できるようになる。しかし、この許可証は外界側で発行されているために、許可証が足りなくなったり損じたりした時には書類を持って願い出なければならないのだ。

 ヨシノは短く息を吐くと、傍で本棚の整理をしていたイトに、


「カノエがどこにいるか知ってる?」


と訊いた。


「カノエはねえ、奥のお座敷のお掃除してるよ!」


 アタシ、呼んで来ようか? と持ち前の人懐っこい笑顔を向けるイトに、ヨシノはイトの髪を優しく梳くように撫でながら、


「それじゃあ、お願いしようかな」


と微笑んだ。するとイトは笑顔をより一層深く煌めかせて、待っててね! と、ヨシノに背を向けて駆けだした。

 「ヒト(カタカナ)」の成長は早いものだ、とヨシノは思う。ヨシノが彼女らを拾ってきた時はもっと幼くて、弱くて、握った手を離そうとしなかったのに、今では一人でも平気で離れて行ってしまう。マツカゼは、あの子たちが手伝いをできるようになってくれて助かると、成長を喜んでいたが、ヨシノはあまりその気持ちが分からなかった。手を離さずにいてくれる方が良いに決まっている。


「それは、正しくはないのだろうけれど」


 香が絶えて灰だけになった煙管からは白檀の薄い香りが僅かに燻っていた。



◇◇◇



「ヨシノ、外ってどんなところ?」


 カノエは少し浮き足立つような、緊張しているような足取りでヨシノの隣を歩いていた。


「そうだな。内とは全く別の世界だよ」


 ヨシノも、はじめはカノエの歩幅に上手く合わせることができず、よくカノエを道端に置き去りにしてマツカゼに怒られたものだが、最近ではそのようなことも滅多になくなった。


「そうなの? 内よりも、外は良いところ?」


 カランカランとヨシノの三枚歯の高下駄がゆったりとしたリズムを刻む。


「どうだろう。カノエにとっては良いところに見えるかもしれないね」


 その含みのある物言いに、カノエはちらりとヨシノの表情を盗み見た。ヨシノは相変わらず煙管を弄んでいる。


「ヨシノにとっては?」


 少し、意地の悪い聞き方だっただろうか、とカノエは身構えたが、ヨシノは特に気にした様子もなく、


「私から見れば、内も外も同じだよ」


と、いつもより機嫌良く笑った。彼はたまに微笑を崩して自然な笑顔を見せることがある。この笑顔を引き出せた時、カノエはこの上ない喜びが底から湧いてくるような心地がするのだが、このツボがどこにあるのか、見極めるのがなかなか難しい。


「外界はね、神様が住んでいるところだよ」


 ヨシノはひとしきり楽しそうに笑うと、真面目なような、揶揄うような、どちらともつかない声音でそう付け足した。


「神様?」


「そう、神様」


 カノエは、何と返して良いか分からず、ただ「ふーん」とだけ相槌を打つと、今度はヨシノの整った横顔をじっと見つめた。


「なあに?」


 またお香なくなっちゃった、と呟きながらヨシノはカノエを見ると微笑んだ。そして、


「ほら、そこを抜けたら外界だ」


と視線でカノエを促した。

 ふと、内界からの風が背中から二人を押し出すように吹いて、ざあっという木々の擦れあう音がヨシノの声を遠ざけた。

 ヨシノの香りが風に流され、一瞬カノエの鼻先をかすめたが、すぐにどこかへ消えてしまった。



◇◇◇



 ヨシノは外界へ足を踏み入れてからめっきり口数が少なくなった。あまり外界が好きではないのかもしれない。そんなことを考えながらカノエはただ黙して、木漏れ日がヨシノの朱い羽織をちらちらと照らしているのを見つめていた。そして、つい二か月前、ヨシノに連れられて歩いた関所までの道のりをぼんやりと思い出していた。

 あの時も、ヨシノは微笑みを湛えて言葉少なに高下駄を鳴らしていた。あれから時間が過ぎて、ヨシノとの仲も少しは深まったと感じている。でも、ヨシノは変わらず美しいままだった。ヨシノと生活をともにしているはずなのに、ヨシノの生活というものがカノエには見えないのだった。それは、どこか水槽の中の魚を思い出させる。近いはずなのに、決して触れることはできない。


「ヨシノは、」


 ヨシノはなんで俺のことを助けてくれたの? と訊きたかった。今更理由なんて、とはぐらかされるかもしれない。それでも答えが知りたかった。この世で「ヒト(カタカナ)」を買って野放しにしている理由は? 納得できる理由が欲しかった。贅沢な悩みかもしれない。いや、本当は真実なんてどうでも良くて、カノエだったから買ったのだと、あそこにいたのがカノエだったから助けたのだと、ヨシノに言って欲しいだけなのかもしれない。


「ん?」


 カノエが言葉の途中で黙り込んでしまったために、ヨシノはカノエの顔を覗き込むようにして首を傾げた。その顔はやっぱり優しい。


「ヨシノは、よく外に来るの?」


 カノエは慌てて気を取り直すように努めて明るく笑って言った。ヨシノを慕う気持ちが大きくなればなるほどに、同じく膨らんでいく疑問と、雲を掴むような虚しさが酷く煩わしかった。


「そうだね。たまに来るよ」


 大抵の場合は仕事だけどね。そう言いながらヨシノは煙管の中の灰を土に落とした。


「……カノエは、関所での生活をどう思ってる?」


 暫しの沈黙のあと、ヨシノは吐息のような声で静かにそう尋ねた。何の脈略もなく、突然それだけを真っすぐ正面を見つめたまま言った。


「どう? 楽しいですよ。皆、良くしてくれるし」


 ヨシノの声音が僅かに幼さを含んでいるような気がして、カノエは飾らない素直な気持ちを口にした。ヨシノがあのとき拾ってくれなければ、今頃どうなっていたことだろう。


「そう、それなら良かった。タカオが心配してたんだ」


 ヨシノは少しだけ、満足そうに笑みを深めて笑った。もう声に不安定な幼さは感じられず、いつも通りのヨシノの声にカノエがほっと息を吐きながら周囲を見渡すと、転々と外界の建物が見え始めていて、カノエの胸の中心を高揚が駆け巡っていった。




◇◇◇



 見たこともないほど背の高く四角い建物が建ち並ぶ光景にカノエが圧倒される中、ヨシノはいつもより些か早足にその大通りを通り抜けた。そして一際大きな建物の前まで差し掛かったとき、カノエに


「入るよ」


とだけ短く告げ、そのまま一人中へと入っていく。


「……ここが?」


「そう、外界のお役所だよ」


 独特な堅い雰囲気が漂う建物内で、カノエはこそこそとヨシノに話しかけた。外界の人間が皆洋服を見に纏っているせいか、和服の自分たちが酷く浮いた存在のように感じられて落ち着かない。


「お待たせしました。こちらが許可証になります」


「ありがとう」


 それと、カノエが落ち着かない理由がもう一つ。許可証の発行をしてもらっている窓口の職員の男の視線が、ちらちらとカノエに向いているのだ。その視線には、好奇のような、同情のような、複雑な感情が込められていた。


「あの、その子は人間ですよね?」


 職員からの視線に居心地の悪さを感じながらも手続きは順調に進み、では帰ろうか、と二人が踵を返しかけたとき、職員は我慢ならないといった様子で口火を切った。


「……」


 その問いにヨシノはただ微笑を浮かべるだけで何故か答えない。


「……いえ、貴方たちの言葉でいう『カタカナ』ですよね?」


 職員はヨシノを睨みつけるような目で見つめ、敵意や恐れを綯交ぜにしたような固い口調で言い直した。


「そうだけど」


 ヨシノは動じた様子もなく、短く答えた。一方カノエは困惑を隠せずにヨシノと職員を交互に見つめていた。彼らの無言の攻防の中心に何故か自分がいる。


「それじゃあ」


「待ってください。貴方、分かっているんでしょう?」


「何のことだか」


 ヨシノが再び背を向けて歩き出そうとしたのを、また職員は呼び止めた。それでもヨシノは表情を微塵も崩さず、煙管に長い髪を絡ませながら笑っている。その笑顔は不敵にすら見えた。


「言葉にしなければ分かりませんか。貴方はその子を不幸にしている」


 その言葉に目を見開いたのはカノエの方だった。何故、自分たちのことを何も知らない彼にそんなことが言い切れるのか。カノエは答えを探すようにヨシノの顔を見上げたが、ヨシノはもう職員に背を向けて歩き出しており、真意を探ることはできなかった。


「君! 君の生きる道はこちら側にある。私たちが君の味方であることをどうか覚えておいて!」


 行くよ、とヨシノに促されてカノエが足を踏み出したとき、今度はカノエに向かって真っすぐ声が飛んできた。思わず足を止めてカノエが振り返ると、その職員と目が合った。声と同じく真っすぐな目でカノエを見つめていた。たった数分の間に交わされた言葉たちが、痛いほどに頭の中を巡っていた。


「カノエ、行こう」


 振り返らずにそう告げて建物を出ていこうとするヨシノの背は、場違いだけれど今までで一番美しかった。


「うん」


 カノエの返事はきっとヨシノには届いていないだろう。そしてふと、ヨシノから香の香りが消えていることに気が付いた。外では香は使わないことにしているのだろうか。ヨシノから白檀の香りがしない。ただそれだけでヨシノが知らない人間になってしまったかのような不安が一滴、カノエの胸の内に落ちていった。



◇◇◇



「それで?アイツはどうしたんだ?」


 次の日、カノエは花街の一室にいた。花街はもう近寄ることはあるまいと誓った場所でもあるのだが、今回の場合は特別だ。なぜならこの店は、目の前の派手な男、タカオがよく油を売っている店だからである。カノエはタカオを訪ねてここへ来たのだった。


「それが……」


 ヨシノが帰って来ないのだ、とカノエは短くタカオに告げた。あの日から二日はヨシノと顔を合わせていない。マツカゼには、そう珍しいことでもないしすぐに帰ってくるよ、と笑われたが、ヨシノが帰らない理由に心当たりがあるカノエには、どうにもそうは思えないのだった。


「ふーん。何? 喧嘩でもしたか?」


 マツカゼの言うように、特別珍しいことでもないのかタカオも驚いた様子はなく、カノエが訪ねてくる前から嗜んでいた酒に口をつける。


「まあ、その。多分」


「多分って何だよ。自分らのことなんじゃねーの?」


 カノエの煮え切らない答えに、タカオは吹き出すと、彼持ち前の嫌味のないからからとした笑いを響かせながら言った。


「まあ、話してみ?」


 ひとしきり笑った後、はーあ、と大きく息を吐いてからタカオは少し真面目な顔をしてカノエをその紅い三白眼で見返した。その目に促されるように、カノエは一つひとつ確かめるような口調で話し始めた。



◇◇◇



 それは、外界へ行った日の夜のことであった。


「ヨシノ。お役所の人が言ってたことって、どういう意味?」


 そうカノエから話題を振ったのだ。本当は、もっと落ち着いてからその話題に触れるべきだったのかもしれない。しかし、いつも以上に早足なヨシノを追いかけて関所に帰って来てから、カノエとの会話を避けるようなそぶりを見せるヨシノに我慢がならなかった。いつものように何も気にしていないようなふりをして、訊かずにいるのが吉だと分かっているのに止められなかった。


「何か言っていたっけ?」


 ヨシノはあくまでいつも通りで、微笑を張り付けたまま煙を燻らせている。その煙に誘われるように、カノエの中でずっと募らせていたヨシノへの疑問が不信感に変わっていく感覚がした。喉の奥がすっと冷えていくのを感じる。


「とぼけないで。答えてよ。ヨシノはいつもそう」


 そこまで言葉にして、ああ、自分は思っているより動揺しているのかもしれない、と他人事のようにカノエは思った。纏まりきらない感情が、苛立ちとしてカノエの手の届かないところまで行ってしまっている。そんなつもりはなかったのに、酷く鋭い声が出た。


「……」


「ねえ、また何も言ってくれないの?」


 突発的な怒りの中に、縋るような気持ちが含まれていることにヨシノは気づいているのだろうか。あの時、ヨシノの手を取ったことは間違いではなかったのだと確信が欲しい。


「……カノエは、知らなくても良いことだよ」


「え?」


 長い沈黙のあと、ヨシノはゆっくりと文机に煙管を置いて、そう言った。


「あれは、あの男と私との問題であって、カノエは何も気にしなくて良いことだ」


 これまでカノエの前で崩れたことのなかったヨシノの微笑が引きつっていた。


「そんなことっ」


「あるんだよ。カノエには関係ない」


 ヨシノがそう言った瞬間、カノエは喉の奥がかっと熱くなるのを感じた。冷静さを失いつつある。言葉を重ねれば重ねるほど、二人の溝は大きく広がっていくようだった。


「そんな筈ない! ヨシノたちは俺のことについて話してた。あの人は俺を見て言ってた。ねえ、何でヨシノは何も言ってくれないの? 本当のことを教えてよ。俺、ヨシノのこと信じてるのに、ヨシノのことわからないよ」


 まくし立てるように一息に言ってしまってから、カノエは何て恩知らずな言い草なんだと、僅かに残った心の冷静な部分で自嘲した。しかし、言ってしまった言葉を今更引っ込めることもできずに、ただ罰が悪そうにヨシノから目を逸らした。そんなカノエの胸中には早くも言い過ぎたという後悔が形を持ちつつある。ヨシノの顔は見ることができなかった。暫しの沈黙。やはり、体裁など気にしていないで早く謝ってしまった方が良いのではないか、とカノエが顔を上げかけた時、ヨシノは短く息を吐いて、


「……もう、寝ようか。夜も更けてきたしね」


と言った。そう言われてカノエは、ああ、自分は期待していたのだ、と悟り、その滑稽さに全身の力が抜けていくような心地がした。


「うん」


 なぜか笑いが込み上げてくる。それをどうにか押し留めながら、カノエは短く返事をした。

 いつもと同じように、二つ並べて布団を敷く。ここの布団は、ヨシノの香りがする。布団を動かす度に白檀の香り。でも、今はその香りが酷く煩わしくカノエには感じられた。こんなことを思うのは今日が初めてだった。


「……ヨシノ。一つだけ訊かせて」


 布団に横になって少ししてから、カノエは天井を見つめたまま口を開いた。余計なことだと分かっていても、これだけは聞いておきたかった。月明りだけが照らす部屋は藍色に染まっていて、こういう色を青藍というのだとヨシノが教えてくれたことを、なぜか今思い出した。


「あの時、店にいたのが俺じゃなくても……。誰でも、良かった?」


 長い沈黙に耐えかねてカノエがヨシノを盗み見ると、ヨシノは無表情で虚空を見つめていた。月が、色素の薄いヨシノの肌や髪の輪郭をぼやけさせて、その酷く美しく冷たい横顔に、息をするのも躊躇われた。


「……そうだね」


 小さく掠れた声だった。自分から訊いたくせに、いざ言葉にされると何と答えて良いのかわからなかった。カノエが何も言えないでいると、形の良い薄い唇は


「……誰でも良かったんだ。私は」


 と続けた。


「そっか」


 カノエはどうにかそれだけを絞り出すと、ヨシノに背を向けて目を閉じた。皮肉のように、あの日、ヨシノに買われた日に、


「よろしくね」


と笑ったヨシノの笑顔が頭から離れなかった。



◇◇◇



「それで、朝目を覚ましたらヨシノはいなくなっていて。俺が、感情任せにあんなことを言ったから……」


 カノエはそう言うと、ヨシノが文机に置いて行った煙管を握りしめた。タカオは、カノエが話す間、たまに相槌を返す以外は何も言わず黙っていたが、酷く落ち込んだ様子のカノエに苦笑しながら、


「別に、お前のせいじゃねーよ。アイツが悪いんだ」


と言った。そして、


「あーあ、だからアイツは臆病者なんだよ」


 と呆れたような声を出しながら、残りの酒を一気に流し込み、今度は困ったような、おどけたような調子になってこう言った。


「カノエ、アイツのこと憎んでるか?」


「え? いえ、そんな! 憎むなんて! ヨシノは俺の恩人ですよ。例え、ヨシノにとってはなんてことない気まぐれで、誰でも良かったんだとしても、それで俺が救われたのは事実です」


 俺が、身の丈に合わないものまで望み過ぎただけなんです、とは言わなかった。タカオにそう言ったとしても困らせてしまうだけだろうから。カノエの答えに、タカオはどこか嬉しそうにそうか、と笑って手元の杯に目をやった。


「俺もアイツとは長い付き合いだからな。アイツが悪いやつじゃないってことは良く知ってる」


 そう言うタカオの表情は、過去を懐かしむように穏やかだった。しかし一変、


「けどな」


と続けるタカオの顔つきは徐々に真剣なものへと変わっていく。


「良いやつってのは見る人間によって変わるもんだ。俺にとっての良いやつが、お前にとっての良いやつだとは限らねー」


 タカオは一度言葉を切ると、緊張した面持ちで頷くカノエに向かって、彼にしては珍しく躊躇いがちな声音で続けた。


「カノエ。俺は役所での会話の意味を大方知ってる。けど、それを聞けばお前の気持ちは揺らぐかもしれねー」


 気持ち、とはカノエのヨシノに対する気持ちのことを言っているのだとカノエは直感した。聞けばもう元には戻れないような何かが隠されている。


「それでも構わねー、知りてーって言うんなら、教えてやるよ」


 まあ、無理にとは言わねーけどな! とタカオは真剣な顔を崩していつものからっとした笑顔を見せた。


「……俺、聞きます」


 カノエは、しばらく考え込んでいたが、決心したように顔を上げて、タカオの三白眼を見つめた。その曇りのない眼差しに、タカオは


「わかった」


 と、言うと


「ちょーっと難しい話になるからな」


 と言いながら立ち上がってカノエの隣に座り直した。自然とカノエの肩にも力がこもる。


「そんなに緊張すんなよ。ヨシノんとこにいたくなくなった時は俺がどうにかしてやるからさ」


 カノエの様子にタカオは明るく笑い飛ばすように言うと、


「じゃあ本題な」


とゆっくり話し始めた。



◇◇◇



 屈辱を、覆い隠すように微笑を張り付けた。

 奥に宿る恐怖を、誤魔化すために誘惑するような目つきを身につけた。

 おのれ諸共丸め込むために、他人を惑わす術は片っ端から頭に叩き込んだ。

 こんな生き方は酷く醜いだろう。

 それでも、生きるためだと言い聞かせて、ただひたすらに人形を演じた。



◇◇◇



 伸ばされた手を拒んだことはただの一度もなかった。ある時は男性として、ある時は女性として、望まれるままにお客の相手をした。十三の年に母が死んで、それからすぐに商品にされたから、男娼になって五年目の冬だっただろうか。その頃の私は、花街ではそこそこ名の通った男娼であった。花街に溢れるほどいる妓女や男娼の中でも群を抜いて高い男娼だと噂されていたほどだ。しかし、どれだけ売れようとも私が幸せを手に入れたことはなかった。月日が経つ毎に、張り付けた微笑は剥がすことが困難になり、生きるためにお客をとっているのか、お客をとるために生きているのか、わからなくなった。

 私は、なぜ生きているのか。

 生きたいのか。生きて、それで、どうしたいのか。わからなくなった。

 その冬、私は店を逃げ出した。逃げて、どうなるというわけではないのだけれど、それでも自分の意思で駆ける早朝の路地裏は、重たい装飾で着飾った花街の大通りよりよっぽど輝いて見えた。でも、そんな時間もそう長くは続かない。私は笑えるほど簡単に、あっけなく捕まって、店に連れ戻された。入れられた折檻小屋はそれ以降、私の部屋になった。昼も夜もなく欲望と暴力の元に晒されて、ああ、ここがこの世の底か、と知った。こんな時でさえ、笑顔が張り付いて剥がれない自分の顔が、とてつもなく憎く思えた。

 それから何百年も経って、瞬く間に時代も、私を取り巻く環境も移ろいでいった。この数百年で、(カンジ)や人外は外界で崇め奉られる存在から、人を虐げる憎むべき存在へと変化し、外界の人間がかつて極楽と呼んだ内界は、煉獄と呼ばれるようになった。煉獄に囚われた哀れで可哀そうな善良なヒト(カタカナ)を救い出して、悪い人間は内界に隔離してしまおう。そんな流れさえ現れ始めた。



◇◇◇



 カノエを買ったのは、本当に気まぐれだった。

 陰間として店にいながらお客もとらずにお茶汲みばかりさせられている。お客をとれないほど何か問題があるようには見えなかったし、彼のような外見はむしろ好まれるだろうに、何故。そんな、ただの好奇心だった。

 いや、誤魔化さずに言えば、彼の無垢さに惹き付けられたのだと思う。怯えの中に確かに光る、世間知らずな期待と希望に。


「カノエは、どうしたい?」


 そう尋ねながら、自嘲した。ヒト(カタカナ)である彼が本当に救われる道を知りながら、私はそのことを彼に伝えずにいる。タカオは偽善だと言って怒っていたけれど、本当にそうだ。身勝手で、無責任で、白々しい。これが偽善でなくて何と言えよう。私は、初めから自分のことしか考えていなかったのだ。

 関所に来てから日に日に明るくなっていくカノエの表情とは対照的に、私の心には薄暗い靄がかかっていった。この子が本当のことを知った時、どんな表情をするのだろうか。軽蔑するだろうか。怒るだろうか。タカオの言うように、早くカノエを解放してあげた方が良いのだろう。わかっていても、弱い私はどうしても、偽物でも、その場しのぎの幻想でも、カノエを繋ぎとめていたかった。せめて、カノエが真実に気づくまでは。



◇◇◇



「お前は、ここから出て幸せに暮らすことができる」


 今よりもっと自由に、だ。とタカオは言った。


「むしろ、俺はそうした方が良いと思ってる」


 タカオはここまで説明している間、努めて淡々と持論を交えないように話していた。しかし、最後にゆっくりと目線を上げ、カノエの目をしっかり見つめながらそう言った。それだけタカオは真剣にカノエを思って言っているのだろう。


「……えっと」


「もう、俺らが外界で神同然の扱いをされてたのも昔の話だ。今じゃ信仰心どころか嫌悪の目で見られてるくらいにはな。外界には余程の物好き以外ほとんど人外も(カンジ)もいねーし、外界の人間が内界のヒト(カタカナ)を受け入れようとしてんなら、お前にとっては外界も住みやすいところだと思う」


 役所の奴が言ってたのはそんなとこだろ、とタカオは言うと


「ま、決めるのはお前だ。ゆっくりヨシノと話して考えたらいい」


 と笑った。タカオの含みのない笑い方はカノエの背中を力強く、そして優しく押した。


「帰って来るでしょうか。ヨシノは」


「あ? 当たり前だろ。あいつに行くとこなんかねーよ。もうじき帰って来る。そしたらとっ捕まえて、言いたいことも訊きたいことも全部言葉にしちまえ。お前らは、訊きもしねーで勝手に答えを決めちまうからいけねーんだよ」


 そう言ったタカオの手がカノエの背をバシバシと勢い良く叩いた。


「うん。そうだね」


 そう呟くように答えたカノエの表情は、店に来た時同様に不安げであったが、もう迷いや戸惑いは消えていた。



◇◇◇



 タカオが言った通り、その日の夜遅くにヨシノは帰ってきた。関所の部屋で


「おかえり」


と迎えた俺を見て、ヨシノは少し驚いたような様子だったけれど、


「うん。ただいま」


と微笑んでくれた。数日ぶりだなんて忘れてしまいそうなほどいつも通りに。タカオにはああ言われたけれど、このままうやむやにしてしまおうか。あの日のことは忘れて、今まで通り暮らしていくので良いんじゃないか。カノエの弱い心が、また逃げ腰になり始めたとき、机の上に置いた煙管を見つめながら、ヨシノが徐に口を開いた。


「この煙管はね、ずっと昔に私が働いていたお店の物なんだ」


 カノエは、ヨシノの言葉の意味を図りかねたような顔で、曖昧に頷いた。その様子に、この子のこういうところが好きなんだ、と改めてヨシノは思う。この、素直で、汚れのない心が好きだ。


「憎らしくて仕様がないところだけれどね。私の全てが今も、そこにある」


 ああ、こんなことを話しても、この子を困らせてしまうだけだろうに。そう思っても、ヨシノの口は止まらない。


「変わっていないんだ。あの頃から」


 誰もがヨシノの容姿に惹き付けられる。周囲には常に人間がいて、放っては置かない。けれど、


「愛されたくて仕方ない。美しくない私でも、それでも構わないと言って欲しい」


 滑稽でしょう? 他人を愛する勇気もないくせに、自分は愛してほしいだなんて。そう言って自嘲気味にヨシノは笑うと、カノエは大きくかぶりを振った。


「そんなことない! 俺もそうです。誰かの一番になって、死ぬまで一緒にいられたら……。そう約束してくれる人がいたらどんなに良いだろうって思います。きっと皆も、言わないだけで心のどこかでは思っているはずです」


 カノエは真剣に、一生懸命にそう伝えてくれるけれど、


「それでも、皆一人だ。いつかは離れて行ってしまう。カノエもそうでしょう? 死ぬまで一緒なんてこと、あり得ない」


 こんなことをカノエに言いたいわけじゃないのに、一度溢れ出したヨシノの気持ちはそう簡単には止まらない。


ヒト(カタカナ)は脆くて賢いよ。すぐに遠くに行ってしまう」


だから、カノエも。


「……ヨシノが言う通り、人間は皆一人だよ。将来を誓っても、いつかはお別れをしなくちゃいけない。俺も、いつかヨシノにお別れを言う時が来るんだと思います」


 カノエも、きっと。


「でも、俺はヨシノのことを忘れません。いつか、お別れを言うときが来ても、俺はここに居たことを、ヨシノと、皆と過ごした時間を忘れません」


 それでは、いけませんか?

 気後れしてしまいそうなほど真っ直ぐなカノエの言葉に、ヨシノは、自分が今どんな顔をしているのかわからなくなった。驚いている? 戸惑っている? わからない。でも、笑っていないことだけは分かった。ああ、こんなに心が動くのはいつぶりだろう、とヨシノは思う。心のままを言葉にするのはいつぶりだろう。


「……ううん。十分だ。嬉しい」


 カノエは、きっとあっという間に大人になる。(カンジ)である私にとっては瞬きをするような時間の中に生きているから。


「私も、カノエのことを忘れないでいたい」


 そう言ってヨシノが顔を上げると、カノエは小さく息を吸い込んで、そして、嬉しそうに笑った。


「ヨシノの、綺麗じゃない顔初めて見た」


「……見ないで」


「ううん。ずっと見たかったんだ」


 綺麗なままじゃないヨシノ。

 綺麗じゃないなんて、一番恐れていた言葉だったはずなのに。


「……カノエ、明日出かけようか」


「ん? いいですよ。何するんです?」


「煙管を、売りに行こうと思って」


 多分、結構良い値が付くと思うんだよね、とヨシノは言いながら、机の上の煙管を見た。


「え? 良いんですか? あんなに大事にしてたのに」


「うん。なんとなく、手放せなかっただけで、別に大事なものだったわけじゃないしね」


 もう、自分を覆う煙は必要ないから。

 カノエが私を覚えていてくれる、それだけで十分だから。

 色は(たが)えど、私たちは出会えたのだから。



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