月が綺麗ですね
いろんな”好き”のかたち
「月が綺麗ですね」
「…え?」
「って、夏目漱石が訳したんでしょう?“I love you.”を。」
「ああ、うん。そうだね」
「びっくりした?」
「…めっちゃびっくりした!」
「あはは、ごめんごめん!はやてくんを驚かせるつもりは…まあ、なかったとは言えないんだけどー」
「言えないんかい!」
「うん、いっつも笑顔のはやてくんがびっくりする顔はレアだし、たまには見てみたいじゃん?だからそれについては謝ります、ごめん」
「…許す」
「ありがと!で、話戻るんだけど」
「うん、夏目漱石の『月が綺麗ですね』がどうかしたの?」
「あれさあ、“I love you.”のどこをどうしたらそういう訳になるのかが分からなくて。はやてくんならなんて訳すのかなーって思って」
「あー…俺ならどう訳すのか、かー。…すぐに『月が綺麗ですね』が出てきて邪魔してくるんだよなぁ」
「だよねー、私も全然思いつかなくってさぁ。…でも、私だったらー…」
詩織が続きを言おうと口を開いたその時、丁度電車がホームに入ってきて声がかき消される。
「詩織、今なんて?」
「…秘密!もう電車も来ちゃって行かなきゃだから、答え合わせは次会った時にしない?その方が私、楽しみだな~?」
「詩織にそう言われたら俺が断れないの、分かってて言ってるでしょ。…いいよ、じゃ次会う時までに自分流の訳を考えておくから」
「ありがとう!それじゃ、またね、はやてくん」
「ん、気をつけて」
満足げに笑った詩織は電車に乗って遠ざかっていく。俺は詩織の姿が見えなくなるまで手を振っていた。
詩織が去って早一週間。俺はいつも通りの日々を送っていた。大学に進学して二年目になり、勝手が分かってくると俺は増々バイトに精を出すようになった。
高校で出会った詩織とは、付き合って三年ほどになる。大学は違えど、時間が合えば二人で遊びに行ったりと楽しく過ごしてきた。詩織は文学や語学といったことに興味があり、いよいよ今年海外への留学を決めたのだ。一刻とは言え、別れの時にあんな会話をするなんて俺たちは変わっているのかもしれない。…いや、話を振ってきたのは詩織だから変わってるのは詩織の方だな。にやにやしながら“月が綺麗ですね”なんて口にした彼女を思い出して、自然と笑みが零れた。
「おーい、はやてー?」
「わ、吉岡じゃん。なに?」
「はやて、なんか最近いつにも増してぼーっとしてない?」
「え、まじ?そんな自覚なかったんだけど。ってか“いつにも増して”は余計じゃ…」
「まじまじ。授業はかろうじて聞いてるみたいだけど、手があんま動いてなさそうだし。なんか考え事でもしてんの?」
吉岡に言われて広げっぱなしだったレジュメに目をやると、空欄こそ埋まってはいるがいつも取っているようなメモの形跡は見られない。習慣化していることが出来ていないなんて、自分で思っている以上に重症だったらしい。
「考え事っていうか、詩織に出された宿題?について考えてて」
「しゅくだいぃ?そんなんあるの?」
隣で爆笑しだした友人にじとりと視線を向ける。
「笑うなよ。聞いてきたの、そっちなんだから。」
「ごめんごめん!はぁー、面白かった。で、なんなの?宿題って」
「月が綺麗ですね」
「え!告白⁉…ごめんだけど僕、彼女持ちなんでー」
「違ぇよ!夏目漱石が“I love you.”をそういう風に訳したのは常識だろ?」
「ああ、そゆこと」
「“I love you.”のどこをどう訳したら『月が綺麗ですね』になるのか全然分からないよなって話になって」
「それは…確かにな。ぐうの音も出ないわ、俺も分かんないから」
「俺だったらどう訳すか考えてって詩織が」
「ふーん、相も変わらず変なことしてんだね、二人。」
「…否定はしないが肯定もしない」
「それってもう実質変って自覚があるってことじゃん。ま、いいや、はやてはずっとそれを考えてる、と」
「そう」
「へー、律儀だね。詩織ちゃんの答えってあんの?答え合わせ的なさ」
「や、そうじゃなくて次会った時にお互い披露するっぽい」
「いや、まじでなにやってんだこいつら…」
「吉岡、今なんて?」
「なんでもございませんすみません」
「ん」
「その宿題の期限っていつ?」
「確か詩織が帰ってくるのが二か月後ぐらいだから、まあそんなもんかな」
「そうなんだ、終わるといいね!」
「吉岡、おまえならなんて訳す?」
「“私はあなたを愛しています”かなー」
「吉岡!真面目なやつ!直訳は俺だって分かるから!」
「いやー僕これから彼女とデートだからー。羊ちゃんを待たせるわけにはいかないんでね」
じゃ、と颯爽と去っていく吉岡の足は軽快なステップを刻んでいる。そんな奴の背中を見送りながら、俺はまた詩織からの宿題に思いをはせていた。
「森本ーこれ八番テーブルな」
「はい」
「すいませーん、注文お願いしますー」
「はーい、今お伺いします!」
夜の居酒屋は会社帰りの大人たちでいっぱいで、実に忙しい。ホールを担当する俺は慣れてきたとはいえ、まだこの時間帯は訳が分からなくなりそうだった。料理を運ぶテーブルと勘定待ちのテーブルとを間違えそうになったりしながらも、なんとか切り抜ける。
「ありがとうございました!またのお越しをお待ちしております!」
最後のお客さんを見送ったのは深夜零時過ぎ。ミスなく終えられたことに安堵の溜息をついて、腰に巻いていたエプロンを外す。
「おつかれさん」
「店長、お疲れ様です!」
「森本、明日授業あったりするか?」
引き留められそうな気配に、何かやらかしただろうか冷や汗が背中を伝う。残念なことに今日は木曜日。授業を月曜から木曜に固めて金曜を全休にしている俺に、明日受ける授業は存在しない。
「…いや、何もないですけど…何かありましたか?」
「時間あるなら一杯飲んでいかないかと思ってな」
「俺、あまり強くないと思いますけど」
「いいんだ」
「分かりました、ご厚意に甘えさせていただきます」
カウンターに腰掛けると店長がジョッキに並々注いだビールを手渡してくれる。ありがとうございます、とだけ言って無言でグラスを合わせて口に運んだ。店長は元々寡黙な人なのであまり話した経験がない。それが俺の緊張に拍車をかける。
「森本、最近なんか悩んでるか?」
「え、何でですか?」
「最近、森本らしからぬミスがあったり、上の空な時があったりするような気がしたんだ」
「っすみません!俺のせいでご迷惑を!」
「ああ、いや、そうじゃなくて。何か悩みがあるなら聞く、っていう意味で言ったんだ」
考えてもみなかったことを言われて驚きが隠せない。その驚きのままに店長の顔を窺うと、確かに心配そうな表情を浮かべている。
「…ありがとうございます。…俺の彼女が今留学してるんですけど」
「うん」
「別れ際に“I love you.”を俺だったらなんて訳すかって訊かれたんです」
「“I love you.”を?」
「はい、それでそのことばっかり考えてしまって」
「…それで悩んでいるってことかな」
「いや、それもあるんですけど厳密には違う気がします。“I love you.”って『私はあなたを愛しています』ってことじゃないですか。それで、俺の詩織への気持ちってどんなものなんだろうって考え始めてしまったというか…」
「よく考えてるんだな」
「え?」
「いや、俺は森本ぐらいの年でそんなこと考えなかったから純粋にすごいな、と思って。森本に…っていうか彼氏にそんな難しい質問を残していく彼女さんもかなりの大物だと思うけどな」
ふっと笑みを漏らした店長の手に握られたグラスが傾けられて、氷がカランと涼やかな音を立てる。ウイスキーの琥珀色が少し落とした照明で照らされて何だか幻想的だった。
「答えはまだ出てない、って解釈でよかったか?」
「はい、まだ」
「その質問の答えと彼女さんのことを考えて、森本が思うことってなんだ?」
「思うこと…。」
目を伏せて、もう一度考え直してみる。駅のホームで楽しそうに笑う詩織、初めての喧嘩と仲直り、一緒に遊びに行った日々、告白したあの日…。“I love you.”の意味が欲しいのに脳裏を過るのは今までの思い出ばかり。
「あいたい」
ぽろり、と口から零れた言葉が静寂を揺らす。自分の言葉に自分で驚いて、慌てて手で口元を覆った。
「はは、いいじゃないか」
店長が楽しそうに目を細めた。
「い、いいって…でも」
「森本は彼女さんに会いたいんだろう?それも、紛れもない“好き”の一つなんじゃないか?」
思いがけない一言に内心で酷く動揺していた。詩織が欲しい答えは『月が綺麗ですね』みたいに詩的な言葉だと勝手に思っていたのだ。でも、自分の口から出た“会いたい”という言葉は今の自分にぴったりに思えた。
「なんの用事がなくても、会いたい」
「彼女さんにもそうやって伝えればいいんじゃないか?」
「…そうですね」
詩織に告白したのは俺からだ。告白しようと思ったのは確か、理由が欲しかったから。どこかへ一緒に出掛けるのにも、通話をするのにも、ただのクラスメイトで友人に過ぎない俺には理由が必要だった。今の自分がいる立場は、そんな理由がいらない。ただ詩織に会うためだけに詩織と会える権利があるのだ。
ジョッキのビールを全て飲み干して席を立つ。
「店長、ありがとうございました」
「ああ、明日からは通常運転で頼むぞ」
茶化すような店長の言葉に小さく笑って応え、店を後にする。やっとできた答えに満足しながら見上げた月は、とても綺麗だった。
読んでいただき誠にありがとうございました!!