七夕色の幻想曲
テーマ:七夕、天体観測
「七瀬、早く!」
「はいはい、今行くってー」
真っ先に丘の頂上に到着した景は、のろのろと坂を上ってくる七瀬を三脚を広げながら待っていた。少し熱を孕んだ夜風がさわさわと芝生を揺らし、見上げれば満点の星が瞬いている。今日は七月七日。一般に“七夕”と呼ばれる今日、なぜ景たちがこんな場所にいるのかというと、景が「天体観測をしてみたい」と言い出したからだ。七瀬は最初、「え、何で?めんどいし、家で素麺でも食べてればよくない?」と渋ったのだが、景がどうしてもと押し切ったのだった。
「はぁ、はぁ…やっと着いた…」
「七瀬遅いよー!」
「しょうがないだろ、俺が体力ないって分かってて誘ったの、景なんだからな!」
「…じゃ、しょうがないか」
「そ」
息が少し乱れた七瀬は準備をする景の隣に腰を下ろした。
「景、前も聞いたけどさ、何で今日天体観測がしたいなんて言ったの」
「んー七夕ってさ、織姫と彦星が会う日らしいじゃん」
「まあ、そういう伝説?があるな」
「したら、天の川が見えやすかったりとかすんのかなって思ったから」
「ふーん。俺は変わんない気がするけど」
「いいじゃんいいじゃん!見てみないと分かんないんだし!」
いそいそと取り出すのは、お小遣いとお年玉を合わせてやっとのことで手に入れた望遠鏡。そぉっと三脚の上に乗せ、固定すれば完成だ。
「…合ってんの?それ?」
七瀬が何かをぼそりと呟いたが、景の耳にそんなことは届かない。
「できたー‼」
満足げに両手を挙げた景は早速望遠鏡を覗く。丘に登っただけで近いと感じた星がさらに近くなって、その輝きも何だか増したように見える。しばらくして、念願の天の川を見つけた景は歓声を上げ、後ろにいた七瀬をバシバシと叩いた。
「痛てぇよ」
そう言った七瀬の表情は、しかし、穏やかで優しいものだった。
これを機に天体観測にハマった景は時間が合えば七瀬を誘い、よく星を見に行った。
「ななせー」
「なんか言ったー?」
「バイクって最高だねー!」
「そうだなー!」
大学に入ればバイクの免許を取ったりもして、行ける場所が広くなった。夏休みなんかは最高の天体観測チャンスだ。
「七瀬、次どこ行く?」
「景が決めろよ。言い出しっぺだろー」
「ふは、うん」
ピ、ピ、と電子音が一定に鳴り響いている。無機質な白に包まれた部屋の主はベッドの中で、瞼は閉じている。
「景、置いとくぞ」
彼の手に握られていた向日葵の花束がベッドサイドの花瓶に飾られ、白だけの世界に夏を運ぶ。ベッドの傍には大きな笹が立てられていて、そこにはたくさんの短冊が吊るされていた。青年は鞄から短冊を取り出し、その笹に吊るす。
「景、待ってるから」
そう言うと青年はシャツの裾を翻して病室を後にした。
夏休みに入って早二週間。今回の旅は、景が前々から行ってみたかった北海道に行くことが決まった。天体観測の経験が浅かった時は遠出は憚られたが、慣れてきた今となっては海外でもどんと来いだ、と景は思っている。
「景、ほんとに行くのか?」
「え、なに?何か不安?」
「や、不安とかじゃないけどさバイクで北海道って結構遠くね?運転辛そう」
「それも含めて楽しいんじゃん!ほら、早く準備準備ー!」
「あー分かった分かった、やるから」
景に比べると慎重なタイプの七瀬はこういう時、一度は難色を示す。でも、なんだかんだ言って付いてきてくれるのだ。
「七瀬、日本の最北端とかって星綺麗かな?」
「んー?綺麗なんじゃない?だって明かり少ないだろうし」
「だよね!じゃ、そこ行こー」
「予定勝手に立てるなよ。宿取ったりもあるんだしさー」
「だって七瀬が取ってくれるじゃん?」
景がそう言えば、盛大な溜息が聞こえてきた。
高速道路で本州の最北端・青森まで辿り着くと、フェリーに乗って北海道へと渡る。
「本州初脱出ー!」
はしゃぐ景を目だけで見遣った七瀬は絶賛船酔い中である。実は乗り物酔いの酷い七瀬は、電車やバス、新幹線など乗り物に乗れば漏れなく乗り物酔いを発症する質だった。
「よかったな…」
いつもは「船の中でそんなに騒ぐな」等々の注意をしてくるであろう七瀬の気迫が削がれている。それが少し不憫で、景は七瀬を励ますことにした。
「七瀬、陸見えてるからもうすぐだよ!」
「…まじで?」
そう言って体を一瞬で起こした七瀬はすぐに顔を青くし、口元を抑えてトイレの方へ駆け出していった。
北海道に着き、七瀬の体調も回復すると二人は最北端の宗谷岬を目指した。
「北海道広ー!」
「いや、ほんとにな」
途中途中で休憩をはさみつつ進んできたが、宗谷岬まではまだまだ遠い。
「ね、北海道の広さ舐めてたー」
「舐めるな舐めるな」
近くにあったコンビニでアイスを買ってベンチに腰を下ろす。見渡す限り高い建物がなく、遠くには地平線を望む風景が何とも美しい。木漏れ日に緑が揺れて目に癒しをもたらしてくれた。
「景、そろそろ行くぞ」
「あ、もうそんな時間?」
「うん、今日はもう宗谷岬まで行けそうにないから宿取ってある」
「さっすが七瀬!」
「はいはい、いいから行くよ」
宿に着くと汗を流すべく大浴場へと向かう。露天風呂が有名な宿らしく、実際に入ってみると都会では見ることの叶わない、満点の星空が広がっていた。
「七瀬!風呂出たらさ、星見に行こう!」
そう言った景はすぐさま部屋から望遠鏡一式を取ってきて、七瀬を外へと引きずっていく。逸る思いのままに組み立てをしていると、七瀬の気配が遠くなったように感じて振り向いた。
「七瀬ー?」
返事がなく、景は急いで視線を巡らせるが先刻までいたはずの七瀬がいない。
「七瀬?七瀬!」
七瀬を探して歩いてみるが、人影は一向に見つからなかった。
「景!」
どこからか七瀬の声がして、安堵のままに振り返る。
「景、こっち!」
「七瀬!急にどっか行かないでよ、暗いからすぐ分かんなくなる」
「景、早くこっち戻ってこい」
「え、七瀬?どうした?俺、もういるじゃん」
目の前の七瀬はいつになく真剣な顔をしていて、纏う空気が何だか少し暗い。
「違う、そうじゃない」
と、視界がぐらりと揺らぎ、地面にへたり込んでしまった。
ピ、ピ、と聞き慣れない電子音が耳に響いて目を開ける。暗がりに目が慣れてくると、どうやらここが自分の部屋でないのだということが分かった。体を動かそうとするが、上手く動かない。
「…ななせ?っここどこ」
自分の声が変に掠れている。喉が酷く乾燥しているようで思わず咳き込んだ。辛うじて動く首を動かせば手にチューブが繋がっている。
「なにこれ」
反対側を見れば大きな笹らしきものが飾られている。たくさんの短冊が吊るされて、笹が幾分か垂れ下がっているようだった。笹が景より内側にあるせいで月明かりは届かず、その内容もよく見えない。
「景」
再び自分を呼ぶ声が聞こえた、と思えば、びゅう、と一陣の風が吹き抜けた。その風で笹が大きく揺れ、短冊が宙を舞う。淡い赤や黄色、緑色が一面に散っていく。その様はまるで紅葉した葉が散っていくようだった。ひらり、と風に運ばれて景の手元に落ちてきた短冊に目を遣ると、そこには“景が早く目を覚ましますように”と書かれている。見慣れたその筆跡は間違いなく七瀬のそれで。景はその短冊を思わず握り締めた。景には自分がどうしてこうなったのか分からない。でも、それでも七瀬が自分を待っていることだけは確かだった。
「起きろ、俺!」
この部屋で目覚めた時から変わらず掠れた声で自分を叱咤する。
「景」
七瀬の声が自分を引っ張ってくれるようで、その声のする方へ手を伸ばした。
ピ、ピ、と響く電子音は変わらない。ただ、目を開ければ明るくなっていて部屋は光に満ちた白色だった。手元に温もりを感じて力を込めてみる。景のではない方の手の指先がびくりと震えた。
「景、景…?」
「…ななせ…お、はよ」
今までもずっと一緒に旅をしていたはずなのに、何だか七瀬に久しぶりに会うような気がして口角が自然に上がる。
「…っ、おはよ、景。待ってた」
「ん、待たせてごめん」
「…いいよ、次どこに星見に行きたい?」
七瀬の方から天体観測の誘いをもらったのは初めてで目を見開く。笑みが零れると、七瀬は少し居心地が悪そうに、でも嬉しそうに笑顔を浮かべた。
読んでいただき誠にありがとうございました!!