憧れイコライザー
眼前できらきらと光りが舞っている。赤、青、黄と実に単純で信号のような配色のそれは、不思議なことに主役たちをよく引き立てている。耳から神経を通って伝わってくるのはまさしく轟音。日常の中ではなかなか出会えない大音量に鼓膜が悲鳴を上げていた。視線を上げると舞台とも言い難いお粗末な段差があり、そこには四人組がいる。一人はマイク、もう一人はギター、もう一人はドラムのようだ。そしてもう一人はギターではないが、それにそっくりな楽器を携えていた。ギターよりも持ち手のような棒状の部分が長く見え、張られている弦は太く数が少ない。あれは確か“ベース”と言うんだったか。思考を巡らせているとノイズが開始の合図かのように聞こえてきた。体を揺らして拍をとり自由自在に歌うボーカルの歌声は風のように。細く、それでいて大胆に鳴くギターは稲妻のように。破天荒に見えて安定してリズムを刻むドラムは山のように。低く低く、決して目立たずとも音の底を泳ぎ続けるベースは川のように。すべてが合わさった音はまるで火花が散るようにぶつかり合っているのに凪いでいた。皆の目線は自然とギターとボーカルに向く。丁度ソロパートが始まったようだった。でも俺はベースから目が離せない。演奏が始まってすぐに心惹かれた。他の楽器と違い、目立った感じはないが体の芯に重く深く刺さる。響きは芯に余韻を残し去りながら何かを残してゆく。知らず、体が揺れていた。芯まで届いた鳴き声は俺の心臓を脈打たせる。ベースのソロパートに入ると一層強くなった。それまで脇役に徹していたベーシストは堰を切ったように音数を増やした。ギターとはやはり違う。でも、確かな旋律があり、表現したいものが十分に伝わる演奏だった。月並みな言い方だが、「感動した」「心掴まれた」そういうよりどうしようもなかった。
地下の音の箱庭から地上へ上がると、もう息が白い雲を作るほど冷えた一日の終わりを告げる時だった。酒を飲んでもいないのに体中をえもいわれぬ酩酊感が包んでいて、夢心地で家へ帰る。
―上手くベースを弾けるようになる、という願いのような決意を胸にして。
実際練習しよう、とすると意外と費用が必要だった。楽器を購入したことがなかったからもっと安いものだと思っていたが現実はそう甘くはないらしい。ベース本体もそれなりのお値段で、音にこだわりたいのならアンプやエフェクターなどそれに付随するように購入するものがたくさん出てくる。何も知らない俺は値段を調べて恐れおののき、結局近所の古ぼけた楽器店で店員に勧められた初心者セットを購入した。ベースとピック、ミニアンプなどがセットで二万九千八百円。小さな達成感を胸に帰路につく。セットとともに、と言われ購入した教則本をぺらりとめくる。基本的には一本指で押さえれば押さえたところの音がなるらしい。法則性を覚えさえすればそれなりに音が出せて楽しかった。あのライブハウスで見たベーシストのように弾けないものかと思っていたので、試しに検索して弾こうとする。…が、全く歯が立たなかった。押さえれば音が出る、とはいえプロは音数が違うのだと思い知らされた。セットに付随していたピックを使用して練習していたのだが、他の弦を弾いてしまわないように動かすために、動きが非常にぎこちなく恰好悪い。左手を注視しすぎて右手がずれる。もともと飽き性で、なかなか「続ける」ということが得意でない俺だ。練習を始めてまだ日は浅いのに小さな苛立ちが積もって、投げ出したくなってきてしまう。ベースはギターと違って「コード」というものが使用されることが少ない。なのでそのまま弾くと単調でつまらない世界しかつくれない。だから、弾き方を工夫する。指で弦を弾いたり叩いたり、リズムを一定でなくしたり。その上、弦の押さえる場所や押さえ方にもバリエーションがあるのだ。完全にお手上げだった。
しばらく後になると大学の空きコマにはバイトのシフトを入れてしまい、忙しさを理由にベースに触れない、という日もしばしばだった。モチベーションが干上がってしまっていて、憧れはその印象を少し薄くして以前よりも遠いものとなった。そんな時、なんとはなしに見ていた音楽サイトでライブの告知が流れてきた。―あのバンドだ。もう自分には無理かもしれない、そんなことを考えて自分という現実と“あの”ベーシストがいる理想の狭間で宙ぶらりんだったのに、気づけば俺はチケットを手にライブハウスへと向かっていた。
「ペンディングですー、今日もよろしく!」
ボーカルが声を響かせ、開演した。俺は、こんな声だったっけ、と一人魂が出かかったようにぼんやりとその台詞を聞いていた。焦がれたその鳴き声を聴くのは実に半年ぶり。変わらず心臓を鷲掴みにされた。―ああ、やっぱり好きだ。この体の真ん中をまっすぐ貫く低音も、体を揺らしたくなる、ゆるるかな旋律も全部好きだ。続けるのが辛いだとか、難しいだとか、指が痛いだとか、そんなことばかり考えていた俺は馬鹿だ。どうでもよかった。そんなのどうだってよかったじゃないか。ただただこの胸を射抜かれて、近づくために何かしてみたくて、あの瞬間の俺はただそれだけだった。どうしようもなく惹かれて溢れた憧憬。熱はまだここに。他でもない彼女がまた灯してくれた。来てよかった、来られてよかった。これで続けられる。
ライブ後、外へ出る前に彼女に声を掛けた。今日という一日のエンドロールが終わり誰もいなくなった舞台に一人座る彼女を見つけたからだ。
「あ…っあの…今日のライブも最高でした…!」
「ん…ありがと。」
彼女は薄く笑う。
「俺、あなたのベース聴いてからどうしようもなく憧れてしまって。練習、始めたんです。えっと、あの、だからその…ありがとうございます!」
沈黙を突き破るように上ずった声で一人語りまがいのことをしてしまう。もう少しだけ“憧れ”に触れてみたかった。多分、もう二度とこんな機会はないと分かっていたから。
「“憧れ”か。ありがと。あたしはそんな大層なもんじゃないけどね。誰かに憧れだ、って言われるのはなんか恥ずいけど、こんな気持ちなんだー。ししょーに出会ったばっかの時のあたしにちょっと似てるね。」
「俺に似てる?そんな時があったんですか?」
「そりゃあそうでしょwあたしだって人間だし。誰でも“初めて”から始まるんだよ?あたしも憧れた人がいたの。ししょーって呼んでるんだけど。あたしなんてまだまだよ。ししょーの目でもない。ししょーはそれはもうかっこよくて、あたしはししょーになりたかった。」
「みたいにではなくて、ししょーに、ですか?」
「うん。だってあたしの憧れはそのものになりたいっていう憧れだったから。ししょーの二番煎じじゃなくてししょーになりたかった。もちろんそんなの無理よ?だってあたしは“あたし”っていう人間として生まれちゃったから。もう一回、ししょーとして生んでくださいなんて叶えられっこないわがまま。だから、あんたはすごいね。」
「…すごい、ですか?こんな下手で何も持ってないのに?」
「すごいよ。あんたは、あんたの“憧れ”はずっと綺麗なままじゃない。…ある程度練習してね、弾けるようになってくるともっと辛いのよ。違う種類の痛さ。自分もそれなりに弾けるようになったはずなのに届かない憧れの人。なんで自分はあの人になれないの?何が足りないの?持って生まれたものが違うから?って。時間が経っても経っても掴めない焦燥感とどろどろした羨望が混ざり合って憧れが汚れてくの。だからね、憧れが全く汚れないで綺麗なまんま持っていられるあんたはすごい。」
「そんなものを感じられるほど俺は練習してないですし…。俺は逆にそういう感情を持てる方がすごいと思いますけど。」
「んー、ありがと?ま、あたしは憧れを綺麗なまま追うことが出来るほうが素敵だと思うけど。…なんて、憧れてもらってるあたしが言うことじゃないか。」
彼女とはそれを最後に分かれた。ゆっくり頑張れば?、と微笑をたたえた彼女に見送られて。
自分の人生で初めて近づきたい、追いつきたいと思えるひとができた。ずっと遠かった。でも、憧れそのものに触れた俺はほんの少しだけ認めてもらえたような気がした。憧れだって生きている。その人自身を形作るものの中にも何らかの憧れがあるはずなのだ。
「ゆっくり、綺麗なままで。」
早く帰ってベースに触れたい。
ライブ前には想像できなかった清々しい気分で俺は帰路についた。
憧れって結局”なれない”から憧れなんですよね。
読んでいただき誠にありがとうございました!!