幻影
テーマ:灯籠流し
「おじいちゃーん!待ってぇー」
「はいはい、ちゃんと待っているよ。」
今日は夏のお祭りの日。唯子は大好きな祖父とこのお祭りに来られるのを待ちわびていた。おばあちゃんも張り切って浴衣の着付けをしてくれた。
「唯ちゃんはひまわりが似合うわねえ。とってもかわいいわよ。この浴衣、おばあちゃんは似合わなくてあんまり着られなかったから、唯ちゃんが着てくれてとっても嬉しいわ。」
目を細めたおばあちゃんは口元を緩ませて帯を結んでいる。おばあちゃんはご近所でもよく知られたおしゃれさん。そんなおばあちゃんにたくさん褒めてもらって唯子は満足げに胸をはった。
「おじいちゃん、お待たせ!見て見て!似合うでしょ!」
「おお!ひまわり柄が唯子にぴったりだね。似合っているよ。それじゃあ、そろそろお祭りが始まる時間だから神社へ行こうか。」
「うん!唯子、たくさん食べたいものあるんだー!綿あめとねえ、りんご飴とねえ、たこ焼き、うーんと…あとは焼きそばと…」
「ふふふ、唯子は食いしん坊だねえ。久しぶりのお祭りだ、たくさん食べて楽しもうね。」
手をつないで境内を進んでいく。あちこちから美味しそうなソースの匂いが漂ってきて唯子ははらぺこだ。先ほど列挙した唯子の要望に応えておじいちゃんが買ってくれた食べ物たちを両手に持って唯子は腰を下ろした。
「そろそろだよ。」
おじいちゃんの一言を合図にするように空にきらきらの花が咲いた。ドーンという大きな音がお腹に響いて唯子の体を揺らした。
「ほあー、すごーい!大きいね!」
「うん、綺麗だねぇ。」
空を明るく照らす大輪の花を唯子は食い入るように眺めた。となりをちらりと見るとおじいちゃんも楽しそうで唯子は嬉しかった。花火が終わると、おじいちゃんが“綺麗なところ”に連れて行ってくれると言う。花火が一番の山場だと思っていた唯子は驚きながらも楽しみだった。しばらく歩くとさらさらと流れる水音がしてきた。この地域で清流と名高い曙川のそばまでやってきたようだった。
「川に何があるのー?」
「すぐにわかるよ。ほら、見てごらん。」
言われて視線を川の方へずらすと、真っ黒なはずの川がなんだかほんのりと明るくなっているのに気付いた。近づいてくと、淡い橙色の提灯のようなものが水面に揺れている。
「…きれい…。おじいちゃん、これ、何なの?」
「これはね、“灯籠流し”っていうんだよ。今はね、お盆の時期だろう?だから、亡くなったご先祖様を弔うために灯籠を流してお祈りするんだよ。」
「へえー…。そうなんだ。すごいねえ。これだったらお空のご先祖様たちもすぐにわかるもんね!」
「そうだろう?おじいちゃんもこの景色が好きなんだ。灯籠の光がまるで人の魂みたいでね。おじいちゃんも昔、ここに灯籠を流したことがあるんだ。おじいちゃんのお父さんが亡くなったときにね。その年もやっぱりとても綺麗だったよ。」
しばらくその幻想的な光景を眺めた後、唯子は言った。
「唯子もいつかここに灯籠流すよ。」
「そうかい、それは楽しみだねえ。」
物書きであるおじいちゃんはとても忙しくて、部屋にこもりがちだった。一緒に行きたいところがたくさんあるのに行けないと言われるとやっぱり寂しい。でも唯子はそんなおじいちゃんのことが大好きだった。
小学校三年生の運動会。秋口に行われるそれは子供にとっての一大イベントで、唯子は練習に精一杯取り組んでいた。
「お父さん、お母さん、もうすぐ運動会なの!私、頑張ってリレーの選手にも選ばれたから、見に来て!」
「ううん…そうねえ。その日はお母さん、お仕事があるから行けないわ。」
「お父さんも仕事だなあ…。ごめんな、唯子。」
小学校に入学してから両親の仕事はさらに忙しくなり、唯子を見に来てくれたことはまだ一度もなかったが、今度ばかりは来てくれると思っていた。一人置いてきぼりにされたような気持ちになってしまった唯子は、それからは居残り練習にも欠かさず参加して皆勤賞だった。
「たくさん頑張れば、お父さんもお母さんも行くって言ってくれるかもしれないし…」
そんな風に考えた唯子はがむしゃらに努力した。が…運動のし過ぎと睡眠不足が祟ったようで体調を崩してしまった。
「お父さんもお母さんも怒るかな…。結局迷惑かけて怒られちゃったらどうしよう。」
とたんに自分が情けなくなってきて涙が滲む。
「唯子。」
名前を呼ぶ声にのろのろと顔を上げると祖父がいた。
「頑張ったね、唯子は偉いよ。でも、おじいちゃんは唯子に笑っていてほしい。頑張るのと無理をするのは違うよ。頑張りすぎないでいい。でも大切なことに向かって頑張れるのは凄いことだ。」
そう言って頭をなでてくれる。その手が暖かくて余計に涙が出てきた。
「あり…がと、おじいちゃん。」
「うん、運動会、おじいちゃん見に行くからな。」
おじいちゃんだって忙しいはずなのに、何かにつけ時間を作っては唯子を見に来てくれたり、お気に入りの場所に連れて行ってくれたりした。頑張らないといけない、と思い続けてきた唯子に“頑張って”も“頑張らなくていい”も両方くれたのはおじいちゃんがはじめてだった。
懐かしい思い出をかみしめながら唯子はアルバムを閉じる。あれから二十五年。八十七歳で癌にかかった祖父は三年半の闘病生活の末に息を引き取った。
―「唯子、今まで本当にありがとう。おじいちゃんは物書きで部屋にこもることが多かったせいで、なかなか一緒に遊びに行くことが出来なかったけれど、あの夏祭りは忘れられない思い出だ。おじいちゃんの大好きな灯籠流しの風景を唯子も好きだと言ってくれて、嬉しかった。運動会の時もそうだったが、唯子は賢いから、いつも周りのことを考えてわがままをあまり言わなかった。だけど無理しなくていいんだよ。頑張りすぎなくていい。唯子の大好きなもののために頑張りなさい。」
祖父の残した手紙はあの日の言葉とおんなじ温度でじんわりと心を温めてくれる。その手紙はあの日の写真と一緒にアルバムに挟んだ。
夜、曙川の上流へと足を運ぶ。
「中のろうそくに火を灯して川にそっと置くように流してくださいね。」
「はい。ありがとうございます。」
「いい思い出になりますように。」
そう言って微笑むと巫女さんは去っていく。唯子は祈るように火を灯すとしゃがみこむ。
「ありがとう、おじいちゃん。」
おじいちゃんが亡くなったことはもちろん悲しい。それでも、おじいちゃんはそれ以上のものを唯子に残してくれたから。目を閉じておじいちゃんとの思い出を思い浮かべる。遊園地で一緒にソフトクリームを食べたこと、お気に入りの美術館に連れて行ってもらったこと、それから植物園に行って薔薇のアーチの下で写真を撮ったこと…。でも何といっても一番の思い出はやっぱりあの夏祭りの日だ。目を開けて川を神秘的に染め上げる灯籠を眺めていると、柔らかな祖父の声が耳を過ぎた気がして立ち上がる。
風に乗って、どこからか風鈴の音が聞こえてきた。
読んでいただき誠にありがとうございました!!