Ava
とある港町。エルシーはエブリン川沿いの道を一人歩いていた。
「はあ、次で最後ね。」
溜息とともに短くつぶやくとエルシーはかごの中身をもう一度確認した。
エルシーは花屋の娘だった。七年前に結婚した夫のアレキシスとのあいだにはもうすぐ四歳になる息子のエドと生後八か月の娘、リュシーがいる。アレキシスは実家である花屋のはす向かいの大工の家の次男坊だった。
「アレキシスもエドの時は世話を手伝ってくれていたけれど、リュシーは二人目だからもう大丈夫だとでも思ったのか全く手伝ってくれなくなってしまったし…。リュシーは大丈夫かしら。」
アレキシスとは親が懇意にしていたからという理由もあったが、しっかり思いを伝えあって成立した恋愛結婚である。が、少し頭が弱くて鈍感なためにエルシーをあてにしている面があった。エルシーも長女という生まれのせいもあってか、頼られることに喜びを感じるタイプだったために素直にアレキシスを頼ることが難しく、一人で様々なことを背負い込んでいた。
「こんにちは、お花のお届けに参りました。」
「ああ、エルシーさん。いつもありがとう。飾らせてもらいますね。」
訪問先のお客さんたちは、エルシーの両親が若い時から利用してくれている人ばかりで、いつもエルシーを歓迎してくれる。
「コーヒーでも飲んでいってちょうだい。」
嬉しい申し出にエルシーは素直にうなずくことにした。
「段々寒くなってきたわね。配達はありがたいけれど体に気を付けるのよ。まだリュシーちゃんも小さいんだし。」
「そうですね。ありがとうございます、気を付けます。」
そう微笑むと手を振って来た道を戻っていく。秋風が吹き、ストールを羽織りなおす。そろそろ冬が来そうだと思った。
「ただいま。エド、リュシー、元気に過ごしていたかしら?」
家の奥へ声をかけるとバタバタと足音が近づいてくる。
「お母さん、おかえりなさい!元気だったよ!今日はね、リュシーと一緒に絵本を読んだんだ!」
「あらそう!それはよかったわ、リュシーもお兄ちゃんに絵本を読んでもらえてよかったわね!」
まだ話せないリュシーは返事をする代わりに満面の笑みを浮かべてエドに抱き着く。家に帰ればこんなにも可愛らしい子供たちがいて、とても幸せなのだろう。しかし、最近アレキシスは帰りが遅く、帰ってからも口数が少なくなった。
―「ねえ、アレク。私何かしてしまったかしら。何か嫌なことがあったのなら正直に話してほしいのだけれど。」
「…いや、エルは何も悪くないよ。最近は仕事が少し立て込んでいて疲れているだけなんだ。変に誤解を生んでしまったようで悪かった。」
「…そう…。」
なんてやり取りをつい最近したばかりだ。理由ははっきりとわからないけれど、避けられている。お義母さんもよそよそしくなった気がしていたのでそれが関わっているのかもしれない。悲しい事実だけが浮き彫りになり、エルシーは考えるのをやめた。
一か月後、学生時代から親しくしていた友人が結婚することになり、エルシーは結婚式に招待された。久しぶりの再会に珍しく胸を躍らせて会場へと向かった。
「久しぶりね、エルシー!会えて嬉しいわ!」
「久しぶりね、エマ。あなたが幸せそうでなによりだわ。」
エマは心底幸せそうに笑うと隣に立っていた男性を紹介してくれた。
「こちらが私の夫のレイよ。職場で出会ったの。」
「初めまして、レイと申します。エルシーさんのことは兼ねがねお聞きしていました。よろしくお願いします。」
はにかみながらも丁寧なあいさつをされ、レイが誠実で真摯な人物であることが分かる。いい人を見つけた友人を誇らしく思う反面、心から祝福しきれない自分に嫌気がさした。
「お式も終わったし、そろそろお暇させてもらうわね。リュシーとエドも待っているから。」
そう言い残すともう一度おめでとうを告げて会場を後にした。積もる話もあるのだから、と引き留められたがエルシーの心は乾ききった荒野のようでこれ以上ここにいられないと思った。
一人になると寂しさに耐えていた心の糸が切れてしまったように涙が出てきた。
「駄目よ、エルシー。泣いたってどうにもならないんだからせめて笑顔でいなさい。」
そう自分を鼓舞して必死に抵抗していた時だった。道沿いにこじんまりと建った画廊を見つけた。いつもは絵を見るなんて機会はほとんどない。この気持ちを紛らわせるものが欲しかったエルシーは導かれるように画廊の中へと進んでいった。
「いらっしゃい。」
銀縁眼鏡をかけた白髪の男性が声をかけてくる。
「こんにちは。あの…ここは…?」
「ああ、ここは画廊アルメリア。絵が好きなだけの老爺の道楽ですわ。若いころから集めてきた絵画を折角だから見てもらおうと思ってね。お嬢さん、初めてだろう?ぜひ見ていってくれ。」
老紳士はエルシーに微笑みかけて、画廊の奥を指し示した。花屋の手伝いをして生きてきたエルシーにとって画廊というのは未知の場所で、自分には教養がないのでと断ろうかと迷ったが、不思議と惹かれるものがあったので言われるままに進んでいった。奥へと伸びた長方形の部屋は老紳士のコレクションで埋め尽くされており、両側に風景画がかかっている。どれも美しかったが、ひときわ目を引くのは一番奥の壁に飾られた女性の肖像画だった。
「…綺麗…」
思わず、ほぅと息を吐く。十六世紀頃のものと思しき黒のドレスを纏った女性だ。豊かな金髪はウェーブがかかり、波打っている。海の底を連想させる深い青の瞳を先がカールした睫毛が縁取り、胡乱げな表情を浮かべていた。すぐそばのサイドテーブルに肘をつき、体は横を向きながらも顔だけはこちらを向いていた。目元の涙ぼくろが彼女をより蠱惑的に見せている。同性でも見惚れてしまう絶世の美女、と形容するのがぴったりだった。
「その絵が気に入りましたかな?その絵は私の絵画の中で唯一の肖像画なんです。綺麗でしょう?かくいうわしも一目惚れしましてねえ。」
「はい、とても綺麗です。この女性は何という方なんですか?」
「この絵は“Ava”、エヴァと言います。なんでも当時、彼女を凌ぐ美貌の持ち主はいないとまで言わしめたお方だそうだ。その見た目もあってか求婚する男が後を絶たず、血で血を洗う取り合いが起こったとも言われている。彼女は結婚を望んではいなかった。彼女は争いが苛烈さを増す前に自ら命を絶ったそうだよ。そんな彼女の生き様は悲惨ではあれど、潔く美しいものだったと聞いている。”Ava“はね、人生、生きるものという意味なんだそうだよ。」
説明を受けた後、もう一度彼女を眺める。深い青の瞳に映されたのは諦観に近い受容か、はたまた窮屈な世界への憎悪か。微笑みを浮かべるでもなく不満を滲ませるでもなく。ただその瞳は口先よりも雄弁で。彼女が世界に苦しめられたこと、それでも世界を諦められなくて、愛したくて許したことが伝わってくる。その瞳はすべてを許す慈愛の心にも思えた。
「彼女のように受け入れられるかはわからないわ…。でも、少しわかった気がする。」
エルシーは独り言ちた。何とも言えない疎外感も寂しさも孤独も、全部自分の独りよがりかもしれないと何度も思ったし、これを手放せる日が来るのだろうかと不安になる日だってあった。それでもAvaに出会えたことは自分にとって大きなことだとエルシーは思った。
I love you,girl. I love you,world. 愛してるわ、世界。
Avaの祈りは永遠に。
読んでいただき誠にありがとうございました!!