出発
シャワーを浴びる。誰もいない個室に響くお湯の音。毎日は入れてないけど、習慣の一つである入浴なのに何かおかしいと感じる。気が付けば浴室はお湯で満たされていた。なのにシャワーの水流を感じてる。
水圧の一つ一つを感じてるのに水の中を漂っている感覚もしっかり感じてる。変なの、と水の中で匂いの全くしないシャンプーを泡立たせてから頭を洗う。
あ、これシャンプーじゃなくてボディーソープだ。間違えて事に気づいて慌ててシャワーで洗い流そうとしたら髪の毛がごっそり抜けていた。目の前の鏡を見る。そこにはボロボロの体でみっともなく髪の毛がいくつかだけ残った頭の私が映ってた。あー、みっともない。どうしよう。考えていたら漂っていた赤い金魚が残った髪の毛を根元から切り取って食べてしまった。
あと30分でお風呂から出ないといけない。一時間、二時間と経って半日が過ぎた。体力が無いのに30分で終わらせろって言うのは流石に無茶苦茶だろう。修学旅行じゃあるまいし。風呂釜の栓を抜いて金魚と一緒に浴室のお湯が流れていく。風呂からあがって体を拭く。バスタオルが勝手に動いて私の体は動かなくなる。程よい力で濡れたタオルが体についた垢をぬぐっていく。
ふと歯がぐらついていることに気づく。ペッ、吐き出すと奥歯が床に転がった。ご飯どうしようと思って鏡を見ると口がなくなっていた。ご飯は腕から食べた。どうやって食べたのかはわからない。ただ食べた。目の前の配膳が無くなっているのだから食べたのだろう。
でも明日はなんか楽しいことがあったはず。横たわっていたベッドの上から動かずただ明日が来るのを待った。空が動かない明日がなかなか来ない。いつまで続くの? そんな声が聞こえた気がする。体が揺れる。でも地震じゃないな、あ、友達がいる。私は気づけば中学生になっていた。友達がいる。何してるのかわからなくて漠然と楽しいと感じる。クラスから出れない、空間が無い。体が揺れる。家族と一緒にフランスで冷たい塩漬け肉を食べていた。味は良くもなければ悪くない無い味。親友が見たいからと言ったからバチカンの大きな教会を見回ってスコーンと紅茶をいただく。体が揺れる。ペンギンがよちよち爆速で歩いてこっちに来ている。南極にいるはずなのに全く寒くない。多分着ている服のおかげかな、着ている服は動きやすく涼しい格好だ。洞窟に誘われたから入った。
コトブキー? コトブキ起きて。
少しずつなかった色が滲み出るような気がした。早く起きて手に入れた大事なものを何かに入れないと、そう思って私は――。
目が覚めた。まだ外は暗いがダンジョンに向かう予定の冒険者は既に起きて身支度している。向かいのアパートの窓にはいくつも明かりが付き人影が見えた。
「ん-、なんかすっごいカオスな夢見たなぁ……」
「へー、どんな?」
「ごちゃごちゃし過ぎて覚えてない……けど途中悪夢見た気がするし、目が覚める直前でなんかすごくいい夢になった気がする」
「まぁ夢ってそんなものよねぇ。あと、これからはタメでいいよ」
「髪の毛と歯が抜けたのは覚えてます」
「うーん悪夢」
「でも起きる直前で笑ってました、んふふ」
「よかったね、嫌な夢は話して獏に食わせるに限るぜ?」
そこで気づいた。これ夢だ、と。寝起きはこんなに口は回らない。
今度こそ意識の覚醒を感じ、重たい瞼をこじ開ける。部屋は既にライナが付けたらしく明るい。コトブキは今日何をする日なのか思い出し、急いでベッドから起き上がって身支度を済ませると三回ノックの音が響き、イラナが入ってきた。
「あぁ起きたね。身支度が終わったら廊下に出ておいで」
「え、もしかしてボクが最後です?」
「いや? さっきライカ必死に起こした所だからまだまだ余裕あるよ」
それを聞いて少し安心し、コトブキは荷物の最終チェックをする。と言ってもアイテムボックスの確認だ。とりあえず全部出すように念ずると大きなものから先にボトボトとベッドの上に落ちていく。
いくつか戻してアイテムボックスから欲しいものだけを出す練習をして、全て収納する。床やベッドの上に何もない事を確認し、そういえば時計を買い忘れた事を思い出し部屋を出る。
扱っていて気付いたがどうやらアイテムボックスの容量はそこまで多くないらしい。
昨晩シャワーの後にフィーネから二種類持っている事を知らされた。必需品を入れるモノにライカとカイはお土産用、イラナとフィーネは食材を運ぶボックスがあるらしい。コトブキに一つだけ持たせたのは、まだ扱いに慣れていないからという理由だった。
「おはようございます」
「お、結構早いんだな。おはよう」
カイが廊下に立ち、煙草を吸いながら待っていた。現代日本でやったら写真付きで晒されるよなぁ、と考えながら静かな廊下で伸びをする。
どうやらこの世界では喫煙に対してまだかなり緩い認識らしく、カイが吸っている煙草とは明らかに違うものがポイ捨てされている。廊下なんて明らかに木材でできているのに大丈夫なのかと不安になった。
「ボクがいた世界だと吸い殻のポイ捨てって犯罪なんですよ」
「あー? 別にこっちじゃ犯罪じゃねぇからいいだろ」
「うーん……やっぱり気になるので。というか火事になりません?」
「へーきへーき、耐火性上げる魔術が施されてるからな、故意じゃない限り燃えない。そっちの世界じゃそういうのねぇの?」
「無いですよ。冬の時期とか乾燥するんで漏電や昔は寝煙草が原因の火事とか多いんですよ」
火事という事故はあるらしいが漏電というものが分からず、カイは首をひねった。漏電とはケーブルなどが劣化し、流れている扱いやすい雷が外に漏れ火花が発生したりするもの、と説明した。こちらの世界に合わせた説明のつもりで、ややフワッとしたものだったが一応納得はしたらしい。説明も簡単ではないと感じた。
「お前んところの世界便利なのか不便なのかわかんねぇな」
「ボクからしたらスマホが無いんでどうやって暇つぶしてるんだろうって最初思いましたよ」
「スマホ……?」
「何でもできるすごい板、電気が必要。ちなみに昨日言っていたパチンコも電気が必要なんでこの世界では再現不可能かと思います。そもそも再現しないで欲しいですが」
「うっそだろ……一番楽しそうに説明してたぞアイツ」
そんな話をしていると質素なメイド服を着た女性が二人、箒とチリ取り、モップと霧吹きを持ってゴミや吸い殻を取り除き霧吹きを吹きかけた。どうやら高い消臭効果があるらしい。
カイは吸っていた短い煙草の火を消し、チリ取りを持つメイドに渡した。この世界は汚したらその分綺麗にすればいいじゃない、の精神らしい。メイドが通り過ぎたところでライカとイラナが部屋から出てきてコトブキは二人に挨拶をする。二人とも動きやすそうな冒険者らしい格好だ。
「最下位フィーネか。……おーい、フィーネまだかー?」
遠慮無しにドアを叩き、数秒置いて眉を寄せる。コトブキには聞こえなかったがカイの反応を見るにまだ時間が掛かるのだろう。
どうやらドアの前に立たないと部屋の中にいる人物の声が聞こえないらしい。昨日ライカを叩き起こす時に相当やかましくフライパンを叩いていたが、特に苦情はなかった事を思い出す。
「まだ掛かるんだと。アイツ毎回おっそいんだよな」
「じゃあ馬車代今回もフィーネだね。ウチら身支度が極端に遅い人には、ここからメンバー分の馬車代払う決まりになってるんだ~。フィーネお金持ってるから毎回平気で遅れるんだよねぇ」
「ちなみにカイはギャンブルに使いたいからこういう時早いよ」
しばらく待っているとフィーネが出てきた。体感時間15分。遅れた事よりフィーネの服に驚く。長い髪は纏めずスリットの入ったドレスにヒール。流石に街で歩いた時に比べたらシンプルだがそれでも冒険者には見えない格好だ。
「え、その服で行くんですか?」
「やっぱコトブキもそう思うよなぁ」
「私は昔からこうよ? 特に問題なく探索出来てるわ。ほら、行きましょう」
とは言えフィーネが冒険者らしい格好をしている所は想像つかない。
そもそもなぜ冒険者なんてやっているのだろうと疑問が浮かんだ。その見た目ならモデルの仕事なんかあるはずだろうと考えたが、まずモデルといった仕事が無いのだろう。昨日のレンもホストを始めたい、などと言っていた事を思い出す。ここにはない職業が多いのだろう。
空がほんのり明るくなった頃、大きな門の前には大きな馬車がありすでに数人知らない冒険者が乗り込んでいた。門の前にはロングを持った女性が立っている。
「あの人は遠距離攻撃をする門番だね」
支援魔法を使うわけではないらしい。ふと馬車の中や待っている冒険者を見るとロングを持った人物はいない。ロングをもった冒険者はコトブキと門番だけだった。ライカに質問する。
「そういえば遠距離魔法を使う冒険者って少ないんです?」
「少ないというか大体門番とか兵士として雇われるよ。遠距離は詠唱が必要なんだ~。冒険者って大体ダンジョン潜るじゃん? 入り組んでる場所で悠長に長い詠唱唱えてる暇ないんだよね。だから基本兵士として雇われるんだよ」
「あー、……だからボクなんか凄い見られるんですね」
「そそ、冒険者のロング持ちイコール支援魔法使いだしそもそもロングが珍しいんだよ」
説明を受けながら馬車に乗り込もうとした時イラナから止められた。
「コトブキは馬車乗れないよ。説明忘れてたけどロングって乗って空飛べるんだ。二人までなら乗れるから、もう一人誰乗せる? フィーネにする?」
「へっ!? えっと」
「駄目かしら?」
「いえ滅相もないです乗ってください!」
既に馬車に乗っていたカイがヒューヒューと茶化し、イラナとライカも便乗する。
「もー、からかわないで下さいよ。……ところで乗り方が分からないんですが」
「あぁ、そうね。少し待ってなさい」
フィーネが門番の女性に向かい手をひらひら振る。髪の長い女性が近寄り要件を訪ねる。そうしている間に待っている冒険者は少なくなり、馬車には人がある程度乗り込んでいる状態になった。あと一団体乗り込めば満員だろう。
「この子ロングの乗り方が分からないみたいなの」
「転生者ですか。とりあえずロングを横に倒せます?」
指示通りにロングが90度傾かせ、杖の先端が馬車の方を向く。
そして杖と馬車に魔力で繋げるよう指示され、試しに紐のような電流のような物で繋ぐイメージをするとふわりとロングが馬車に近づき動かなくなった。
「そうです。結構呑み込みが早いですね」
「でしょう。特に習ってないのに支援も回復も使えるみたいなのよね。前世でも器用だったのかしら」
「えー、どうだろう。でも結構器用とか呑み込みが早いって言われてましたね」
「そうですか。そうだ、帰ってこれたら空飛ぶ練習してみましょうか、多分あなたならすぐ覚えるかと思いますよ。……あぁ、そのまま杖に腰かければいいですよ。見た目よりかなり安定感あるので落ちることは無いです」
礼を述べるとでは、と短く挨拶し門番が離れていく。この細い杖に腰かけて長い距離移動するのは苦行では? と感じたが実際に腰かけると確かに安定感がある。細い棒の上ではなくしっかりとした椅子に座っている感覚だった。
すごい、と目を輝かせ足をパタパタ泳がせるとフィーネも腰かけた。少しだけ縦に揺れ、香水の香りが漂ってくる。距離が近いせいで緊張し、コトブキは杖の先端の鈴を触り転がし手遊びし誤魔化す。
「楽しみね」
「そ、そうですね」
目線は杖の飾りに向いてるせいでフィーネがどんな表情をしているのか見ることが出来なかったが、やはりいつもの柔らかい笑顔なのだろうとコトブキは想像がついた。馬車から顔を出してきたカイとライカがニヤニヤ笑いながらコトブキを茶化す。
「ひゅーひゅー、青春だねぇ」
「ひゅーひゅー、お熱いねぇ」
「うるさい!」
馬車が満員になり、門を開く合図を出す。重たく開く門の向こう側はただただ広い草原に走らせやすい道が伸びている。馬車が動き出し、二人が乗った杖も引っ張られ街から出て行った。