その三
気難しい悩める青年のS君である、他人もそうだが、ましてやお母さんによるプライベートな部屋漁り等は断じて許しがたい行為だったろう。
私もS君も、他人に秘蔵のいやらしい書物や画像が見つかって、いやぁ参ったな、ははは等と照れながらも笑える人間ではないのである。
下手すれば、そのまま世を儚んでさらばと自害しかねない人種なのである。
しかし、何か手がかりがあるとするならば、この部屋以外にないと思われる。
いやらしい何かが出てこなければ良いがとヒヤヒヤしながら、まぁいる訳はないだろうけれども、愛する彼女への書き置きの一枚もないだろうかと虚しく机の引き出しなどを漁っていた。
私の下宿の倍はあろうかという豊かな部屋だったので、二人手分けをして捜索しながら、S君のお母さんは私とS君の関係とか日々の様子等を頻りに尋ねてきた。
あの、息子は学校ではどんな感じだったのでしょうか?やはり馴染めなかったのでしょうか?中学も高校もあまりお友達の話を聞かなかったし、一年浪人して昵懇にしていた少ない方とも疎遠になってしまったみたいで、私も気にはかけていたのです…。
私はS君が一つ上だと初めて知った。
それでも毎日学校に行くし、アルバイトも時々していたみたいだし、きっと上手くやっているものだとばかり考えていました。
知っている限りで構いません、何かありませんでしたか?息子はどんな学校生活を送っていたんでしょうか?
S君のお母さんの淡々とした口調の内側にこもる切実さがひしひしと伝わってきた。
地味でモテなくてやる気のない私と同じ様なダメ学生でしたよ、わはは等と実も蓋もない一言で一笑に片付ける訳にもいかなくなり、作業の手を緩めながら、しばし沈黙して頭のなかを整理した。
それから私も呼吸を整えて、ザックリとしたS君との出会いから今日までの話をした。
あれは一年前の春、大学に入学したばかりの頃だった。
いつも隅の方に身を縮めるように座っている男がいた。
空いている教室の二三列目の隅に一人で座っちゃって、変わった奴がいるなぁ等と、私は自分の孤独な姿を省みる事もなく、入学直後の教室で斜め前の片隅にひっそり座るS君の後ろ姿を眺めて内心苦笑していた。
ある日、消しゴムを忘れてしまった。
丁度その時私の隣にいた奴に消しゴムを借りた。
それがS君だった。
彼も私も互いをみてハッと狼狽えていた。なんだヤバイな、よく似ているな。
それしか感想はなかった。
しかし、類は友を呼ぶとかいう言葉もあり、孤独な私とS君とはすぐにすんなりと友人らしき関係になった。
大学での日常が始まり、多くの学生が仲間を作りだしていく時期に、誰と関わることも出来なかった。また私もS君も、そんな男女の陽気なグループに混ざろうとする積極性を決定的に欠いていて、寧ろ彼等の浅はかにはしゃぐ姿を眺めながら羨望の内に軽い鬱陶しさを覚えてさえいたのだ。
しかし本当のところは互いに独りぼっちであり寂しかったのだ。大袈裟にいえば、俗にいう友情、例えそれが浅はかでかりそめであったとしても、そんな安定した他人との関係性に飢えていた。
誰か気の会う仲間と喜怒哀楽を共にしたいと願うのは木石ならぬ人間として当然の感情である。
いつの間にか私とS君は携帯電話の番号を交換し、授業で会えば一緒に帰る仲になっていた。
おかしなもので、二人ともざっくばらんなため口になる距離を縮めるタイミングを測れないまま、ついにずっとラフな敬語混じりの会話をしていた。
授業解ります?さっぱりです。パソコンは?買ったけどさっぱりです。僕もそうなんですよ…。良かったとか言いたくないけど、そうですよね、全くですよ、仲間がいると知って一寸安心しましたよ、ははは等と堅苦しくもまぁ共に笑ったり泣いたり憤ったり嘆いたり、まぁ同類相憐れんでいたのだった。
S君は弱いながらも酒好きだった。
私と気が合ったのも、その一点が大きかったかもしれない。
二人でしょっちゅう飲みに行ったものだ。
私は未成年だったが、大学生になれば酒の一つも飲むのが普通の時代だった。
時代といえば、丁度世紀末がどうのと騒がれていた時期であり、パソコンと携帯電話が随分安くなって学生にもかなり普及した頃だった。
あの頃、何もかもが変革の時期であり、私達無能者は狼狽え戸惑いながらも新時代の風を否応なく実感として日常にひしひしと感じていたのだった。
私もS君も、酒は飲みたいがあまり金にゆとりがなかった。
自然安い店を探して幾日も何軒も飲み歩きの放浪を繰返し、最終的にある一件の店に落ち着いた。
駅からいささか離れたその店は内装も外観もひどく古ぼけてはいたものの、お爺さんとお婆さんの二人でやっているからなのか、飲み物も食べ物もえらく安価であった。
確かサワーが各種百円で、日本酒二合が二百五十円、ビールの大瓶が三百五十円もしなかった。
お爺さんお婆さんの手作りの冷凍食品ではない唐揚げやらフライドポテトやらからお刺身、お浸し煮物等のおつまみも軒並み二百円位であり、締めにちょうどよいラーメンや炒飯、ジャージャー麺とかなんとかいった麺類も殆ど三百円もしなかった。
あの頃でも流石に安すぎて、しょっちゅう入り浸ってはたらふく飲み食いしていた当の私達ですら、時として経営の成り行きを懸念せざるを得ない程の、今にして思えば神の如く有り難いお店であった。
また、その店は二人で長く居座って金もなくろくに注文しなくても、本当は迷惑だったろうが文句一つ言う訳でもなく厨房で二人ほのぼの笑って、たまには私達のどうしようもない愚痴の聞き手にすらなってくれたのだった。
有名な偉い作家ならばこの場合、古いバーで友達と怠そうにジャズを聴きながらビールを飲んで、ピンボールに興じたりしながらやれやれと呟き、締めの御飯か朝御飯にはローストビーフのサンドイッチなどを食べちゃうのだろう。
私とS君には、そんな小洒落た芸当は逆立ちしても出来そうになかった。
せいぜい、汚いながらも安らげる狭い居酒屋で互いにうつ向いたまま安いチューハイを飲みながら鳥軟骨の唐揚げなんぞをつついて、ラジオの野球中継などを聴きながら虚しくやれやれと呟くのが関の山だった。
同じやれやれでも大層な違いである。
私もS君も授業になかなか着いていけない落第必至の落ちこぼれであり、またレポートをワープロ文書で提出しろといわれても、パソコンのワープロ機能のキーボードの使い方やら表計算の機能やらさっぱり解らぬ無能ぶりだった。
ようやく購入したパソコンも、やっとの思いで震える人指し指でポチポチキーボードを打っては画面と見比べて、間違っても今度は削除が解らないという体たらくである。
私もS君もうんざりして嫌になってしまった。
逆に皆がどこでそんなハイテクな技術を獲得したのか不思議に思い、なにも解らぬ居酒屋のお婆さんに愚痴をこぼす始末だった。
また私もS君もある大きな誤算が有ったのである。
それは今にして思い出すのも恥ずかしいが、大学生になれば毎日のように合コンとやらが開催されて、男女交際など当たり前の朝飯前であると勝手に思い込んでいたのである。
そんな話はドラマかお洒落そうな一部の天上人の世界であり、現実に中高とろくに女友達もいなかった野暮天にそんな甘い話がある訳もなかったのだ。
テレビや雑誌の影響もあったのだろうが、いささかうきうきした心で入学してからの虚しい現実との落差は世に疎い陰気な私達には理解の外であり、到底あっさりと受け入れられるものではなかった。
そんな情けない話も居酒屋の穏やかなお爺さんとお婆さんに甘えて散々わめき散らしていた。
元気だしなさい。大丈夫よ。まぁまぁその内いいこともあるよ…等と優しく慰められながら毎度酔っては二人揃って涙ながらに同じ様な愚痴をこぼしていたのだった。
渦巻く劣等感と羞恥と焦燥と渇望と羨望と失意と挫折と無気力と。
上手くいかない虚しく寂しい日々の記憶にも、この店で寛いだ暖かい思い出は私の奥に今もうっすらと生きている。