その二
大学二年の夏休み目前の或日友人のS君が失踪した。
実家の彼の部屋はそのままで、当人ばかりが忽然と姿を消してしまったのだ。
私はお母さんからの連絡で彼の失踪を知った。
携帯電話も置いたまま、もう二日も帰ってこないのです。
電話口でもはっきり判る位に、S君のお母さんの声は不安に震えていた。
友人知人に行方を知らぬか問い合わせたくとも、大学の友人という携帯の電話帳のグループには、私の電話番号がポツンと一つあるきりで、後は両親の電話番号が記録されていただけだったという。
つまりS君のお母さんは、息子のあまりの交遊の乏しさに狼狽しながら、たった三件しか登録されていない電話帳の中から私に勇気を出して電話をかけてきたらしかった。
何処に行ったか、心当たりでもありませんか?
いやぁ一寸私には分からないですね。
正直私も大学にろくに通っていなかったので、自然人脈と呼べるようなものはなく、殆どS君一人が友人であった。S君も多分同じような境遇であっただろう。私はS君のお母さんの電話口で狼狽えている声を聞きながら、独りぼっちのS君の行方もそうだが、それよりも尚、私自身の唐突な孤立化に困惑していた。
とりあえず、今から伺いたいのですが、宜しいでしょうか?
行ってどうなるものでもなかろうが、私は無性に焦っていた。S君のお母さんも焦った声で、ええ是非に、と言ってくれた。
S君の家は大学に近く、私の下宿していたおんぼろアパートからも自転車で十分位の割りと古風かつ典雅にしてお庭の広い立派な家が多く立ち並ぶ城下町の旧武家屋敷だった住宅街の、その一角にある。
この辺では質素な部類に入ろうかと言えども、私の実家である、和風でも洋風でもなくどこかのっぺりとして中途半端に経年劣化をしている何処にでもあるような大量生産型の分譲住宅に比べれば、遥かに年季の入った渋い木造二階建ての家は比較にならぬ歴史の風格を漂わせていた。
ご立派な家の前までは以前に幾度か来たことがあったが、部屋が散らかっていて恥ずかしいからとの事で、未だS君のお宅にはお邪魔した経験はなかった。
息を切らしてS君の家に向かう途次、いつも二人で佇んでいた大きな川の岸が見えた。
この間まで、二人で土手にしゃがみこんで今の世を憂い儚んだり、下らない妄想を語り合ったり、小さな石など川面に放り投げてはぐったりと黄昏ていたのだ。今は誰一人おらぬ岸に生い茂った葦がゆらゆらと揺れている。
なんだかんだ頭のなかを駆け巡りつつ、全速力で自転車を漕ぎ、汗まみれになりながらS君の家にお邪魔した。
初めまして。S君の同級生のTです。
こちらこそ初めまして。Sの母です。お忙しいところに本当に済みません。さ、どうぞ上がってください。
私が息を切らしながら慇懃に挨拶をした際の、初見のS君のお母さんの隠しきれない大層な驚きようはなかった。
いや、私を眼前にして狼狽を隠せなかったというのがより正しいのかも知れない。
それはそうだろう。
S君と私とは、本当によく似ているのだ。
瓜二つとまではいかなくても、兄弟と言っても誰一人疑いを持つ者はおらぬであろう程によく似たモッサリとした陰気な容貌とダサい雰囲気とを持っていたのだから。
むっくりしたややメタボな体型ともっさりした真ん中分けのヘアースタイルに黒淵のなるべく目立たぬフレームの眼鏡と白か淡い色のやはり目立たぬような無地のシャツとチノパンかジーパンか。
人はその姿を、服装や容姿や髪形を見れば大体判るというが、まぁそうだろう。陰気かつ内向的な内面がそのまま露出したような外面と服装と。
つまり一言で言ってしまえば女の子にモテなさそうな雰囲気を全身に纏っていたのであった。
これがナンパ師とか陽気なはっちゃけた人間には見えないに決まっている。
そんな私の姿を目にして、S君のお母さんは、あらあらと言ったまま絶句してしまった。
口には出さねど、あからさまな狼狽ぶりに此方までしどろもどろになってしまった。
狼狽を隠しきれぬまま、尚冷静を保とうとする様が、唐突な息子の失踪を内心で認識しきれておらぬようで、いささか痛々しくもあった。
しかし、しっかりとしたお母さんであった。
すぐに表情から狼狽を隠して、努めて冷静な声を作って私を二階のS君の部屋へと招き入れた。
息子の失踪と、大学での唯一の友人らしきそっくりさんの登場とに狼狽は、S君の部屋へと続く二階へと登る古めかしい木目のご立派な階段を上がるその足元の覚束なさに隠しようもなかった。
私は狼狽えながらもS君のお家の特に内装の年季の入った調度品や階段の黒い艶々した手すりに、軽い居心地の悪さすら覚えていた。
私の下宿の汚い部屋とは違って、S君の部屋はきれいに整頓されていた。
机と書棚とテレビとパソコンとベッドと。
無駄なもののない部屋に彼の生真面目な性格の一端が表れていた。
散らかっているから家には上げられないとかいうS君のお言葉は一体何だったのだろうか?
ただの照れ隠しだったのか、潔癖な心ゆえに何人も自分の核心部であろう部屋へと立ち入らせたくなかったのだろうか?
S君のお母さんも、S君が失踪を遂げてから初めて彼の部屋に入ったらしく、入り口近くで立ち尽くしたまま十秒ほど動こうとはしなかった。
やがて我に返ったかのように私を振り返り、ここを一緒に探してくれませんか、と懇願するように呟いた。
面倒臭いなぁと少し感じつつも、嫌ですとは言い難く、私は黙って頷いた。