その一
その日私は実家に帰り自身の住んでいた部屋の片付けをしていた。
遠い実家に住む両親は、年を取って家も古くなってしまったので、今の家を取り壊してなけなしのお金で平屋のバリアフリー住宅に建て直すつもりらしい。
二階にあった私の部屋は近く取り壊しにかかるそうな。
大事なものは取りに来なさい、という母のお言葉に従って、面倒くせぇなあと思いながらも折角の休日を潰して実家まで二時間半車を走らせて、荷物の片付けをしに来たのだった。
私の部屋はいささか埃っぽく古びていながらも、かつて高校卒業まで私が暮らしていたそのままになっていた。
小さな頃に遊んだミニカーやらプラモデルやらのつまったプラスチックの大きな玩具箱、日付の止まったままの壁のカレンダー、ベッドの木材の手触り、無理して煙草を吸った時のカーペットの焦げた痕、小さな十四インチのテレビ、机の上に置いたままの教科書や参考書。本棚の下に隠していたいやらしい本やビデオテープ。
ここにはあの頃の空気がそのままある。
今の現在に立ち尽くす私だけが、却って置き去りにされてしまったように年を取って変わってしまった。
まぁいい。
感傷に浸ってもいられない。
丁度よい機会である。
古い写真やら手帳やらノートやらとにかくこの部屋にあるものをこの際一気に処分してしまおうと思った。今風に言えば、断捨離というやつだろうか。
小学中学高校と、懐かしい写真も出てきたが、何時までも取って置くわけにもいかない。
あれも要らないこれも要らないと、大きなごみ袋があっという間に一杯になってしまって、口を縛られた大袋が瞬く間に二つ三つ出来ていた。
生きてきた思い出の量がそのまま燃えるごみの袋に詰め込まれていて、休憩のお茶を飲みながら、まるで自分の遺品整理をしているみたいな気持ちになって、いささか感傷にうちひしがれもした。
いつ実家に持ち帰ったのだろうか、大学時代の写真も数枚あった。ああ…、ハイハイと小さく一人ごちながら、一枚二枚と大きなごみ袋に放り込み、ある写真でふっと手が止まった。
その色褪せつつある写真には、私とS君とが肩を並べてにこにこ笑っている姿が写っていた。
私とS君の足元には、偉そうな顔をした茶虎の子猫が不機嫌そうにしかめっ面をして背筋を伸ばしてちょこんと座って写っている。
ああ…懐かしいなぁ。
遠い昔の日々の一コマである。
気だるい中年に成り果てた私の、初々しさを失って一切が麻痺しつつある胸にもあの頃の日々が、その空気が感覚が、およそ色鮮やかとはいかないが、ぼんやりとした脳裏にもやもや甦ってきた。
ああ…。そんな日々も有ったかねぇ…。
老人のように私は写真に見入っていて、気が付けば梅雨晴れの日が暮れつつあった。
自身の住んでいた部屋を出て、一階の居間に行くと薄暗い台所に、明かりも点けずにしょんぼり背を丸めて立つ母の小さくなった背中が見えた。
飯はいいよ、もうちょっとで片付くから。片付けたら帰るからね。
そう?食べていったら?
母はおぼつかない手付きで人参をゆっくり刻んでいる。
折角あんたの好きだった豚汁を作っているのに…。
作っているって今作り始めたところだろう。一時間位かかるんでしょ?
すぐに出来るからね。ご飯も沢山炊いたんだからね。
確かに炊飯器の赤い光が点灯していて、湯気がうっすらとたっていた。
母はここ数年でめっきり衰えた。体も一回り小さくなり、気力も声も張りが失われつつある。
本人は否定するが、多分軽い認知症も患っている。
まぁ、いいか。
急いで帰ってもどうせ独り暮らしのワンルーム。実家で飯を食って食費を節約し、なんなら酒の馳走にもなって、ゆっくり眠って明日帰ったってかまわないだろう。
それこそ却って親孝行というものかも知れない。
飯時まで寝室で横たわっていた父と、炊事に疲れはててしまったらしい母と、だらしない日々をぼんやり過ごしている末の息子である私と、やけに明るい蛍光灯の下で黙々と夕飯を共にした。
あれだけ酒飲みだった父は、母の注いだ小さなコップ一杯のビールを飲み干せなくなっていた。
私ばかりが手酌でガブガブ酒をのみ、卓の向かいに小さく座る顔色の優れぬ両親はボソボソと病気の話なぞを繰り返していて、いささか気持ちが重かった。
少しでも気分を盛り上げようと、一人ではしゃいだ振りをしていた。
私は敢えて笑いながら、この家とも遂におさらばか、残念だけど仕方ないよね。よく崩れないで持ったよね、等と話しかけたが両親はぐったりとしたまま、よくわからない返事をモゴモゴと私に送りまた二人で黙りこんでしまった。
懐かしい写真も沢山出てきてさ、そう言えば大学時代にS君て居たよなぁ、母さんには話さなかったっけ?
私の口調も流石に重たくなっていた。
ああ、どうだったっけ?そんな友達の話も聞いたかも知れないねぇ、みんな忘れちゃってねぇ…。
母がゆらゆらと震える手で注いでくれたビールを飲みながら、いくら老いたりとはいえども、まるで心通わぬ虚しさにひどく寂しくてまた侘しくて仕方がなかった。
自分の実家にいながらも遠い僻地の他人の家で一人隅っこに佇んでいるようで、少しも心が浮き立たない。悲しいかな、眼前の老いぼれて要領を得ない会話を延々と繰り返している二人は、本当にこの人達は私の、あの、はつらつとしていた両親なのだろうか。そんな疑念すらも片隅に微かに浮かべざるを得なかった。そうとも、間違いないと答えるだけの自信が今の私にはなかった。
両親が老いぼれたという事は、当然私もおっさんになってしまったという訳で、それは家だってなんだって老朽化するだろうが、それを普段は見て見ぬ振りをしていて、いざ眼前にしてみるとその事実はなかなか重たく虚しい殺風景な現実だった。
あまりの心細さに何だか薄気味悪くさえなって、箸を持つ手も重たく滞ってきた。
結局私は早めに夕食を切り上げて、居間で一人で酒の続きを飲んだ。テレビのニュースを見ながらサイドボードに入っていた父のお気に入りのウィスキーを勝手に拝借してちびちび飲んでいる内に、寂寥の故か心がひどく落ち込んでしまった。
まるで大学生の頃の焦りながらもやる気のスイッチが見当たらぬまま、無気力でひたすら憂鬱だった自分が現代のいい加減に生きている自分自身に憑依したかのようだった。
S君。あの頃いつも一緒にいた彼は今どうしているだろう?
酒のせいだろうか、夕方のS君と私との写った写真を見た時よりも、遥かに鮮明に、息苦しいほどにあの頃が甦ってきた。