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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

わたしはここにいる

作者: 七藤三樹

 わたしのいなくなった屋敷に、わたしの夫はあなたを迎え入れたのだった。

 新しいお母様だよと紹介され、わたしの娘は黙って目をしばたたいた。小さな両手を背中の後ろに回し、ペティコートの下に穿かされたタイツがごわつくのか居心地悪げに足踏みする。そして、気詰まりを隠さぬ上目遣いであなたを見上げた。

 そもそも、わたしの夫は再婚するつもりはなかった。気が進まないの一点張りで、どんな話にも取り合わなかった。しかし、お節介焼きの親族たちが鵞鳥の群れのように騒ぎたてた結果、あなたが田舎から呼ばれたのだった。わびしい身の上のあなた――日曜日の礼拝でさえ席の埋まりきらない古ぼけた教会で、つましいオルガン弾きをしていたあなたが。

 鵞鳥たちはガアガア鳴いた。望んでというより周囲に押し切られる形で、わたしの夫はあなたと結婚した。あなたは、教区の慈善市で値引きされていたくすんだトランク一つだけをたずさえて、わたしたちの屋敷にやってきた。

「……これから」

 貝のように黙りこくっていたわたしの娘が、出し抜けに口を開いた。

「これから、お葬式をするの」

 親子三人ばかりの内輪とはいえ、結婚相手を迎える場にふさわしい発言とはいえない。この子にはこういうところがある。思いも寄らぬときに的を外した突飛な言動をとるのだ。目を見開いた後、青ざめた夫はあわてて遮ろうとした。けれど、あなたは反対に先を促したのだった。

「お葬式って、誰のお葬式?」

 昨夜丹念にアイロンをあてた一張羅の晴れ着が皺になるのもかまわず、あなたはその場に膝をついて、わたしの娘の顔を柔らかく覗き込んだ。夫同様、あなたも内心呆気にとられたろうが、気を悪くした様子は見せなかった。

「エミリィ。エミリィのお葬式」

 わたしの娘は、行儀悪く上半身をぐらぐらさせながら答えた。あなたは小首をかしげてみせる。

「エミリィというのはどなた? わたし、まだこの辺りの人たちに詳しくないの。教えてちょうだい」

 わたしの娘は強情なキツツキのように唇を尖らせる。

「ずっと透明な氷のお城に住んでたの、エミリィは。でも外に出て壊れちゃったの。壊れちゃったから、お庭に埋めるの。お父様のお庭に。お花の下に」

 娘は背中に隠していた手をもったいつけながら前に回した。

「これが、エミリィ」

 娘の手は、無造作に人形の胴体を掴んで突き出した。ビスクドールは栗色のモヘアの髪を頬になびかせ、蕩けるような蜂蜜色のグラスアイであなたと見つめ合う。フリルのたっぷり重ねられた紅茶色のドレス、同じ布地のボンネット。

 完璧な少女、完璧な肢体、完璧な愛くるしさ――象牙色の細首があらぬ方向に折れ曲がってさえいなければ。

 わたしが実家から持参した嫁入り道具のなかでも、特に値の張った逸品だ。名のある職人にあつらえさせた特別製。子どものままごとに使うようなものではない、絶対に触るなと厳命しても、娘は執拗につけ狙った。

 興味がない物事にはこちらがいくら誘導しても無視を決め込むくせに、一旦執着するとどんなに阻止しても諦めない。こっそりガラスケースから持ち出そうとする頑是ない不潔な手を、赤く腫れ上がるまで何度叩いたことか。そのことでよく夫とも口論になった。

 案の定、わたしがいなくなるやいなや、断りもなく我が物にしたらしい。そして案の定、弄り回した挙げ句に壊してしまったわけだ。

「痛そうね、エミリィ」

 あなたはいたわるように指先で人形の冷たい頬をなでる。

「元通りに修理してあげられないの? そうしたら、また一緒に遊べるでしょう?」

「だめ、埋めなくちゃだめ。エミリィは壊れたんだもの。元通りになんかならない」

 妥協はしないといわんばかりに、娘はぎゅっと唇を結ぶ。見かねて叱ろうとするわたしの夫をあなたはさっと目顔でなだめ――野暮ったい見かけに寄らずすばやいことだ、もうわたしの夫の操縦方法を心得て――安心させるようにわたしの娘にほほ笑みかけた。

「分かったわ。なら、わたしもそのお弔いに参列してもいいかしら。この家にオルガンかピアノはある? わたし、エミリィのために葬送の曲を弾いてあげられるわ。音楽のないお葬式なんて味気ないものよ」

「ピアノ?」

 娘は虚を衝かれたように口を噤み、怯えた表情で夫を見上げた。視線を受けた夫が、ためらいがちに代言する。

「ピアノは、その――妻の持ち物が一台、ピアノ室にあったのですが、処分してしまったので今は」

 ピアノ――おお、わたしのピアノ。鍵盤の上で生き物のように跳ね踊るわたしの指。抑制と暴走のあわいに戯れる。かつて、ピアニストの夢は、渇望と呼んで差し支えないほど狂おしく、わたしの胸を焦がしたものだった。夢破れて後も、灰の中の熾火はくすぶったまま忘れがたく、わたしは嫁ぐ折にこの屋敷にもピアノを持ち込んだ。

 わたしが魅了されたものは、誰にとってもそうだと信じていた。わたしの血を引くならなおのこと……

「分かりました。平気よ、楽器なんてなくたって歌えばいいもの。わたし、聖歌隊にもいたことがあるのよ。お父様に聞いていて?」

 あなたはそつがない。何でもない顔で、自分に振り分けられた役割に徹する。わたしの存在をにおわされても自然体のままだ――少なくとも、表向きは。あなたは、わたしの娘に迎合するためにおどけてみせさえする。あなたはしたたかだ、油断ならぬほど。

「エミリィのために、わたしに鎮魂歌を歌わせてちょうだい。心を込めて歌うから」

 わたしの娘はすっかりあなたの提案にのせられてしまい、言われるがままこくんと頷く。そのアイデアに心惹かれたのだろう。善は急げとばかりに、こっちに来て、と慌ただしくあなたにせがむ。ばたばたと駆け足に先導する娘の背後で、取り残されたわたしの夫は苦くため息をついた。

「申し訳ない。あなたを歓迎する場だというのに、あの子ときたら」

「あら、ちっとも構いませんわ。無邪気で元気のいい、ほほ笑ましいお嬢様ではないですか」

 軽い調子であなたは首を振ってみせる。浮き足だった奇矯さは気にならないでもないが、甘やかされて育った裕福な家の子女なら、年相応なのではないだろうかとあなたは思う。

 だが、わたしの夫は浮かない顔のままだ。紫色の隈の浮いた下瞼を神経質に揉む。

「思い込みが激しく、言い出したら聞かない、正直に申し上げて周囲の手に余る子です。あの子にとっては、周囲に合わせることの方が手に余るのでしょうが。元からあまり落ち着きがあるとはいえませんでしたが、妻が失踪してからというもの、ますます不安定になってしまって――妄想を現実であるかのように触れ回ることも多くて。ですから、奇妙なことを口走っても聞き流してやってください。どうか深く気にとめずに」

「まあ」

 しばし言葉を切ってから、あなたは物思わしい眼差しを夫に向けた。羽根のように軽やかに、けれど慎ましげに計算された手つきで、さりげなく夫の肘に触れる。

「致し方ないことですわ。心の整理には時間が掛かるものです。お嬢様にとっても、あなたにとっても」

 そのとき、わたしの夫の瞳に揺れたものを、あなたは見ただろうか。見ただろうとも、わたしの夫とあなたは二人きりで臆面もなく見つめ合っていたのだから。あなたは確信しただろう、勝利を。快哉を。目の前の男の心から、さほど時を移さず前妻の影が薄れゆくことを。

「早く!」

 焦れたわたしの娘が声を張り上げ、騒々しくあなたがたを呼ばわる。何事もなかったかのように、あなたとわたしの夫は互いに視線を外す。

「ええ、今行くわ。待ってて」

 けれども、わたしの娘に答えるあなたの声は、いささか奇妙に弾んでいる。ぶしつけに見えぬよう、遠慮がちに夫にエスコートされながら、あなたは郷里に置き去りにしてきたものを思い返している。日の差さない安普請、どぶ板の下の腐った水の臭い、痩せ衰えて死んでいった妹。大声で怒鳴る酒浸りの父親、弟ばかり舐め回すように可愛がる母親。あなたは背を向けて教会に行き、唇から溢れそうになる呪詛を噛み殺してオルガンを弾いた。

 そして、あなたはここにいる。燦々と光の降り注ぐ古雅な屋敷、そこかしこに飾られた芳しいラベンダーの花束、物静かに品位を保つ調度品たち、わたしの夫、わたしの娘――かつてわたしが所有していたものたち。わたしの下女にさえ劣る出自のあなたが、時と運に恵まれたというだけで、まんまと手に入れようとしているもの。

 ああ――だが、わたしには何もできない。

 今のわたしには、あなたを追い出すすべがない。

 わたしの娘とわたしの夫に導かれ、あなたは屋敷の庭へ足を踏み出す。心地よく温もった黒土の発する湿気と、光を吸って青々と生い茂る草葉の吐息、蜜を含んだ花々のかぐわしさが、奥へ続く小道をくるんでいる。膝下に植え付けられた花苗や、こんもりとした灌木はいうまでもなく、道に沿ってもうけられた見上げるような鉄製のアーチにもにぎわしく蔦が絡み、中空に、頭上にさえ点々と、大小の星のように蕾がほころんでいる。

 あなたは、視界のあらゆる場所から次々と目に飛び込んでくる花の名前を知らない。そのような教養は持ち合わせていない。草花を愛でられるようなゆとりのある暮らしを知らないのだから当然のこと。

 けれど、春の女神のワードローブのようなそれらの景色に物怖じすることはない。これから学べばいいだけの話だと、今や自信を持ってあなたは考える。時間はたっぷりとある。ここはわたしのもの、わたしの庭になったのだから、と。ふてぶてしい簒奪者……

 道の途中で、あなたはふと足をとめる。庭の一角に、目のさめるようなトパーズ色の雲が浮かんでいたのだ。浅緑の葉の下で黄色い花房が無数に頭を垂れ、幾重にも折り重なりながら咲き誇っている。奥行きがあるので、金砂をなすりつけたかのように宙が煙って見えるほど。遠くからでも目の眩むような気がして、陶然とする。無性にあの下に立ってみたい。祝福された金色の雨を浴びているような気持ちになるはずだ。思わずふらりと足を踏み出す。

 と、あなたの腕に絡みつくものがある。あなたは、風に煽られた旗のように、くるりと巻き取られてしまう。不満げに眉を寄せ、あなたは振り返った。困ったような顔をして、しかし断固として、わたしの夫はよろめくあなたを引き寄せる。

「毒があるのです」

 キングサリという花の名前を、夫はあなたに教える。

「種にも花にも、死に至る猛毒が含まれているそうです。過って口に入れなければ問題ないのですが、娘には離れたところから眺めるだけにしておくようにきつく言っています。あなたにも、できればそうしていただきたい――僕の心の平穏のために」

 あなたは瞬きをして、間近にあるわたしの夫の顔を見つめる。耳ざといあなたは、彼の声音の裏に言葉にならない何かを聞き取ったかもしれない。でも、確信を持てるほどではない。

「すみません、過保護とお考えでしょうが。前の妻が行方知れずになってから、娘ばかりでなく僕も神経を尖らせてしまっているようです」

「いいえ、お気になさらないで。おっしゃる通りに致します」

 わたしに言及され、あなたは急いで首を振る。せっかく掴み取ったこの生活を自分のものにし続けるためなら、あなたは悪魔に魂を売ることも厭わない。這い上がり、捨て去ったはずの、みじめな暮らしに戻りたくはない、その一心で。

「娘は歌に興味を持ったようです。今回に限らず、いろいろな歌を歌って聞かせてやってください。うるさがる者などいませんから、どうか娘を楽しませてやってほしい――時には、僕も」

「ええ、もちろんですわ」

 話題を変える夫の腕にあなたは如才なく身をあずけ、満開のキングサリに背を向ける。さしたる未練もなく、忘れ去り、遠ざかっていく。この世ならぬ眺めを思わせる黄金の花の祝祭から――散り落ち、降り積もる花弁の下の、深く暗い土の中に人知れず埋められたわたしから。

 夢のような屋敷の暮らしに目が眩む余り、あなたの洞察力は肝心なところで曇っている。わたしの娘の、箍の外れたような言動が何に端を発しているのか気付かない。あなたに触れる夫の両手の、洗えども落ちない死臭の移り香に気付かない。



 ――しきりにレッスンを嫌がる娘を、わたしは捕らえて紐で椅子に縛り付けた。

 わたしの産んだ子なら、わたしと同じようにピアノに魅せられるはずだ。没頭し、熱狂し、寝食も忘れて身も心も捧げねばならない。それをおろそかにする娘は、いかなるあがないをもってしても赦されぬ背教者に等しい。

 お手洗いに行きたい、と拘束された娘は懇願した。わたしは、レッスンから逃げる口実と受け取り、紐の結び目を解かなかった。娘は身をよじり、泣きわめき、そしてドロワーズから浸みだし椅子の脚をつたい、床に水溜まりが広がった。

 何もかも滅茶苦茶だった。わたしの才能も、わたしの娘も、何もかもがわたしを裏切る。

 激高し、娘を椅子からむしり取って、わたしは手を振り上げた。騒ぎを聞きつけた夫がピアノ室のドアをこじ開け、その物音でわたしの注意がそれた。

 だから、下半身を汚した娘がしゃにむにわたしの腕を振りほどき、体当たりするようにわたしを突き飛ばしたときも、実のところ何が起きたのか分かっていなかった。悪臭を放つ水溜まりに足を滑らせ、重心を崩したときも――愛するピアノの、大理石のように硬い蓋の角が眼前に迫ってきたときも。

 額がぱっくりと割れて、信じられないくらいたくさんの血が溢れて、運悪く頭蓋骨が砕けて、わたしの身体は人形のように動かなくなったけれど、わたしはここにいる。重労働などしたことがない夫が息を荒げて、全身の筋肉を軋ませて、服を泥だらけにして、かつてわたしだったものを庭に埋め隠してから、ずっとここにいる。



 爛漫の春の庭に、あなたはわずかに足を開いて立つ。背筋を伸ばし、息を吸い込む。

 壊された人形のために歌うあなたの声が、庭を渡る風にリボンのようにまとわりつく。

 痩せっぽちのあなたのどこにそんな芯があったものか、独唱は思いのほか力強い。野外だというのに、鍛えられた歌声は裏返ることもなく、バターのようになめらかだ。

 荘厳な歌に身をゆだねるあなたは束の間、我欲を断ち、打算から離れる。貧困と辛苦に満ちた過去から解き放たれる。穢れを知らぬ天使そのもの。そんなはずはない、でも――歌っているのはあなたなのに、歌はあなたの輪郭を超越して響き渡る。死者を悼む歌、生者の罪の赦しを乞う歌。

 わたしの娘は落ち着かなくうろうろするのをやめ、薔薇色の唇を赤ん坊のように半開きにしながら、無心に聞いている。わたしの夫も目をつむり、耳を傾ける。ひっそりとうなだれ、言葉もなく、倦み疲れた奴隷がわずかな安らぎの時間にまどろむように。

 戦慄がわたしを襲う。考えるより先に、すでに骨となったわたしの指はおのずから伴奏を弾いている。あなたの歌に、わたしのピアノを。在らざるピアノの音色があなたの歌声に和す。あなたの耳には届かないけれど。

 土中深きわたしの骨には、太陽を嫌うコガネムシやミミズが這い回るばかりだけれど――朽ち崩れたわたしの肢体には草木の根が縦横に絡みつき、縛り付けられてどこにも行けないのだけれど――とうに眼球の蕩け消えた眼窩は何も映さないのだけれど、わたしはピアノの前に座り、鍵盤の上に指を広げ、一心に奏でている。我を忘れ、風と光に溶けていく。

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