夜の蜘蛛に
周囲に魔物の気配が感じられなくなったのは明け方にも近い時間だった。
魔力が枯渇して意識を失っていた雌黄の剣のメンバーも一人、二人と意識を回復し、クロームとクレイだけが一晩中シアーの結界の維持とエンバーの戦闘の様子を見守っていた。
途中水を求め、しくじった怪我の治療に何度か戻ってきたエンバーだったが、魔物の数が減るごとにその足は遠のくのをほっとして見守るのだった。
山の嶺線がほんのりと浮かび上がるそんな時刻にエンバーは戻ってきて黄金の魔力をおさめて水を求めた。
「後一匹向こうの奥にデカい奴がいる。
そいつを仕留めて仕上げだ」
「だったらこの結界はもういらないね。
薄いけど広範囲の物に変更するよ。
だけどエンバーはまず体力の回復」
何やら繊細な洒落た作りの瓶をエンバーに差し出せば、少し眉間を細めながらも一気にその中身を飲み干したのだ。
「それは?」
クレイは空になっても美しい青を含む緑色の瓶をエンバーから貰い受けて、微かに明るくなった空に向かって翳し眺める。
「いわゆる回復薬。
ウィスタリアやハウオルティア辺りでよく売ってる怪我や体力不足からの回復薬ね。
正直私やエンバーあたりだとあまり効果ないけど、ないよりはましって程度には効くのよ」
「効果は覿面なんだが死ぬほど甘ったるいのが欠点だ」
「あと馬鹿高いって所よね」
ホイホイと買いたくないものらしい。
「初見さんだと金貨十枚ぐらい軽くふっかけてくるけど、あるかないかで命が左右されるなら金貨十枚ぐらい安いって考えるんだけどね」
「ちなみに純粋に素材の値段なら銀貨一枚程度。
腕の確かな作り手の回復薬を手に入れるとなると金貨一枚は必要だ」
「材料と作り方さえ知っていれば子供でも簡単にできるんだよー」
さらりと言うシアーにクロームは目を点にするが
「悪いけど材料はこの国では全部手に入らないし、これに込める魔力はあたしたちクラスじゃないと魔力が枯渇するよ?
しかもそれで出来た失敗の代物はただの葉っぱくさくて甘ったるい水だしほんと魔力の無駄遣いよねー。
ちょっと怪我ぐらいなら回復魔法使った方が早い位なのよ」
「だから回復薬なんて流行らないし、ありがたがるのは魔法の使えない国位よ」
そう言いながらエンバーはもう一本飲み干して、何とも言えない甘ったるい味に顔を歪めながら
「じゃあ、ラスト一匹行ってくる」
「どんな奴か判ってるの?」
心配気な顔を見せない様に瓶を回収して鞄に片づけるシアーから視線を反らせて山奥を眺め
「最初焼いた蜘蛛の親玉だ。
奥に逃げるって言うより自分のテリトリーがあるんだろうな。
こっちに来いって言われたから挑発に乗ってくる」
「うーん、おっとこ前な発言だねぇ」
水をコップに入れれば口の中の甘ったるさを消すように口を洗い
「夜の蜘蛛だからな。
これ以上奪われない様に退治してくる」
「夜の蜘蛛って?」
どんな意味だと言う様に思わずクレイは口を挟んでしまえば
「ガーネットが言ってたぞ?
朝の蜘蛛は神様の使い。昼の蜘蛛はお客様って」
「あー……おばあちゃんも確かそんな事言ってたな」
シアーがとっくに死んだひぃばあちゃんがそんなこと言ってたと言えば私は初耳だとクロームが聞き覚えがないか記憶を辿る中
「そして夜の蜘蛛は泥棒だ。
これ以上ここから葉っぱ一枚でも持ち出す事を俺は許さない」
決意にも似た言葉にクレイははっと息をのむ。
目を瞠るクレイにエンバーは気づかずにまた黄金の魔力を纏い森の奥へと駆け出すのを見送ってから
「わかった?
エンバーは常に守ろうとしているのよ」
人だけでなく、彼を取り巻く環境だけでなく、思い出さえも守ろうとしている。
過去に囚われる事無く今を、そして未来も守ろうとしているその姿が森の奥に消えて行くのを見守るしか出来ないクレイは悔しそうに口を歪めて体の横で握りこぶしを作ったまま立ち尽くすしか出来ないでいた。
「さて、そろそろみんなを起こして結界を解くよ。
エンバーの狼状態だと魔物の素材は期待できないから、肉ぐらいはご飯位に集めようか。
悪いけど、みんなが起きたら魔物の卵がないか近場でいいから見回りに行ってくれる?」
探検を取り出して蛇の肉を切り分けようと剣を突き刺すシアーに今日の朝ごはんは蛇の肉か。
蛇だけにヘビー……
ぼそりと呟くおっさんからクレイはそっと視線を反らす。
まさか叔父がそんな事を言うなんてと言うか、誰が教えたんだよと心の中で盛大に突っ込んでいれば、やがて目を覚ました仲間と共に卵探しに向かい、見つけた卵をまさか料理に使いだすとはさすがにこの時はまだ気が付いてなかった。
足を進めればどんどん鼻に付く臭いがきつくなっていく。
深い森を進めば戦闘で焼け焦げた場所とは違い、鬱蒼とした高い木々の伸ばす枝葉の屋根が蜘蛛の糸に絡め取られて巨大な巣が出来上がっていた。
魔力を一定以上高めると金色に輝きだす俺の魔力は蜘蛛の糸みたいな粘着性のトラップに嵌る事もない。毒によって靴が腐食する事もなくなる。
感覚だけじゃなくいろいろ耐性が上がり運動能力も爆発的に跳ね上がる。
シアーでさえお手上げと言ったが、それでもガーネットにはデコピン一発でノックアウトされた記憶はまだ新しい方だ。と言うかガーネットの必殺デコピンに勝てる人っているのかよと言うのが俺達の見解だが……
そんな奴とガーネットと戦いになった時の被害を想像するだけで身震いして途中で思考が俺達には想像できんと逃げ出してしまう。
腐敗の臭いが更にキツクなってきた。
周囲の糸も段々と厚くなってきた。
その際奥に禍々しいまでに赤く輝く八つの瞳が俺を待ち構えていた。
「またせたな」
カチカチと大きな顎を鳴ら、ギッギッと威嚇しながら最奥からその巨大な体躯を現した。
言葉は理解できないが、大変お怒りな様子は理解できる。
この魔物の歪な楽園を壊されたのだ。
どれだけ共食いを重ねればあんなおぞましい姿に変化するのだろうか想像は追いつかない。
獣暴の乱以降の積み重ねを無駄にされたのだ。
赤い瞳は怒りに呼応するかのように点滅をすればいきなり俺に向かって糸を吐き出した。
『来たれ炎帝の焔、風帝の旋風』
先ほどの炎の狼よりも一回り大きくなった狼と同サイズの新たに呼んだ風を孕む狼が俺の前に立ち、敵となる蜘蛛に向かって牙をむき出しにして低い声で唸りだしていた。
戦闘の準備は万端だ。