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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第2章
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殴られ続けても母親に頼りる幼児


「ただいま」


 少女は微笑んで、冷え切った両手で俺を抱え込み鞄の中に入れた。鞄の中は未だ微かな暖かさを保ってはいたが、俺の心は冷えていた。なんと声を掛ければいいか分からず、分かった所で伝える事も出来ず、ネズミの体で有ることを、初めて恨めしく思った。


 あのね、と少女は話を始める。勉強会や町で買い物をした帰り、饒舌になった少女の話を聞く。それに俺は適当に相づちを入れるだけ。いつもは楽しい帰り道のはずだった。


 今日の出来事を、少女はなんと伝えてくるのだろう。どんな顔をして話すのだろう。正直聞きたく無かったが、聞かない方が傷つけるような気がした。


 俺は意を決して、鞄から顔を出した。耳を広げる。少女は不安そうな、そして何故か少し興奮したような表情をしていた。


「あのね、グリーンハンデ先生がお願いしてくれてたみたいで、明日から町の宿屋さんで働く事になったの。不安だけど、とても楽しみだわ。ピーター」


 少女は楽しそうに話している。無理をして自分自身を奮い立たせているのかもしれない。少女を買うのはあの肥えた中年男でもないらしい。そういう宿場には見えなかったが、外観で全てが決まる訳じゃない事は、ドブネズミ時代に身を持って知っている。


「大変だと思うけど、頑張るわピーター」


 俺は口を開けなかった。なんと声を掛ける。健気な少女に。頑張れなんていえない。俺はそれを認めたくなかった。何故かは分からない。立派な職業だとは思っている。ただ、平凡では無くなるだろう。それは俺の願いであって、少女の願いではないのだから。


「お客さんのご案内、お部屋のお掃除、お料理の支度、受付のお仕事、まだまだ覚える事はたくさんあるわ、ピーター。でも宿屋さんのご主人もとても優しいそうで良かったわ」


 少女の言葉を聞いて、俺の体は今までに無いほど熱を帯びていた。もしかしてこれは、普通に宿場で働くだけなのか? もしかして、あれ、勘違い?


「明日からはまずお部屋のお掃除を教えてくれるみたいなの。私お掃除大好きだから、すぐに覚えられると思うわ」


「チュチュ、チューチュー(そそそ、それは良かったじゃないか。頑張るんだぞ)」


 もし俺がネズミでなければ、全身を灰色の毛に覆われてなければ、体中が真っ赤に染まっていただろう。なんてことは無い。優しい丸眼鏡は少女に仕事を紹介してくれただけだ。それも宿場の客室係なんていう、少女に打って付けの仕事を。


 そうさ、俺は勝手に誇大妄想をさらに膨らましていた。しかし本当に良かった。人間の言葉を話せなくて。もし話せていたら、どうなっていただろう。俺は宿場に怒鳴り込み、丸眼鏡と肥えた中年男に罵詈雑言を浴びせていたかもしれない。俺はネズミで有ることを、初めて喜ばしいと思った。


「でもねピーター、お仕事は来週の初めからなんだけど、一日中働くことになると思うの」


「チューチュー(良かったじゃないか。どうせなら住み込みで働けば良い。あのボロ小屋には婆さんだけを残してな)」


「お婆さんは大丈夫かしら。心配だわ」


「チューチュー(そんなに心配なら、今すぐ俺が息の根を止めてやるさ。それなら君も仕事に集中できる)」


「そうよねピーター。まずはお婆さんの事を考えないといけないわ。宿屋さんのご主人にも、ちゃんと話さなくちゃ」


「チューチュー(好きにすればいいさ)」


 噛み合わない会話を続けていると、なんとか体の熱も治まってきて、俺と少女はボロ小屋の前に到着した。俺はすぐさま鞄から飛び出して、軒下から少女の部屋へ向かう。


 町からの帰り、少女はまず婆さんに声を掛ける。婆さんは起きてようが寝てようが、少女の声を無視する。死ねば良いと思ってしまうから、俺は婆さんの部屋には行かない。


「お婆さんっ、お婆さんっ」

 病弱で陰気な婆さんに掛けるには大きな声が、俺の待つ部屋まで届いた。胸騒ぎに、俺は久しぶりに婆さんの部屋へ向かった。


「起きてっ、お婆さん、起きて。どうして」


 俺は屋根裏を伝って婆さんの部屋に降りた。少女は泣き声を響かせながら、身動き一つしない枯れ枝のような体を揺すっている。


「いやっ、お婆さん、お願い。一人にしないで。お婆さんっ」


 少女の悲痛な叫び声とは裏腹に、俺の胸は歓喜で満ち溢れた。婆さんが、死んだらしい。憎たらしい婆さんが。餌場を独占しようとするドブネズミの様に陰気で、死期の迫った老ドブネズミの様に悪態を付く、まさしくドブネズミの様な婆さんが、死んでくれた。少女の仕事が決まったその日に。俺は踊り出しそうな四本の足を押さえ込む。


「どうして、お婆さん。お魚を買ってきたの。お婆さんが大好きな。お願い、目を覚まして」


 絶対に目を覚ますなよ、と俺は祈った。少女の気持ちは痛い程分かっているつもりだ。少女には、婆さんしか居なかった。良い意味なんて微塵も無く、悪い意味に限るが。それでも、婆さんしか居なかった。少女を必要とする人間は。ただそれは元ドブネズミから見ても、歪んだ関係だ。


 殴られ続けても母親に頼る幼児の様に、叶わぬと理解したまま肉体関係を続ける娼婦の様に、部屋から出てこない成人した息子に食事を運び続ける母親の様に、歪んだ関係だ。


 少女には婆さんしか居なかった。そして婆さんにも。お互いに唯一の繋がりだった。だからそれがいくら歪んでいても、手放すわけにはいかなかったのだろう。ただ少女にとって、それは来週までのはずだった。なにせ仕事が決まったんだ。宿場の客室係なんていう、天職の様な仕事が。新しい繋がりも出来るだろう。元々母親との繋がりなんて切れている。後腐れは婆さんだけだった。それも今日、死んでくれたらしい。最高じゃないか。


「お婆さん、いつもみたいに怒ってもいいから、私にモノを投げつけてもいいから、お願い、目を覚まして。私にはお婆さんしか居ないの」

 絶対に目を覚ますなよ、と俺は再び強く祈った。そんな奇跡はいらない。このまま死んでしまえ、クソババァ。


 部屋中に響く少女の泣き声を聞きながら、俺は沸き上がる喜びを必死に押さえ込んでいた。   




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