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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第0章
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プロローグ虚言癖のある奇跡


「まるで美脚の象みたいだな」


 俺は顔なじみの言葉に、口に含んだ水を吹き出した。目の前で水を飲む、足だけが細い太った雌ネズミを揶揄したのだとしたら、あまりにも的確だったからだ。


「止めろ、喉が乾いているんだ。水を飲ませろよ」

「じゃあ、飛べないフラミンゴだ」

「体を支えきれないってのか」


 太った雌ネズミは、同時に笑ってしまった俺たちを睨みつけながら、水を飲み続けていた。


「飲むなっ」


 不意に銃声の様な叫び声が、ドブネズミ御用達の水飲み場に鳴り響いた。俺はその音先に目線を向ける。おそらく叫び声の主と思われる精悍な顔立ちのドブネズミは、急にケタタマシい程の笑い声を、細かく吹き鳴らされたラッパの様な笑い声を上げながら、下水に飛び込んだ。同時に、楽隊でも現れたのかと思うほど、甲高い叫び声が至る所から上がり始めた。数匹のドブネズミが、笑いながら、怒りながら、小言を呟きながら、俺を睨みつけながら、下水に飛び込んだり、倒れ込んでいった。


「いったい何なんだ?」

 俺は顔なじみに目線向けた。


「デブネズミが、見てんじゃねぇよっ」


 顔なじみは大声で悪態を叫び、口から泡を吹きだして倒れた。同時に、俺の頭に激痛が走る。味わった事の無い、まるで猫の爪が頭の中に埋められたような、耳から入った小蠅が暴れ回っているような、味わった事の無い、おそらく生涯最後の痛みとなりそうな程の痛みが、頭の中で破裂した。


 何をしているのか、何を叫んでいるのか、自分でも分からなかった。ただ、暴れ回った。全身を刺激する強い痛みは、藪蚊に囲まれて弄ばれているような全身の痛みは、やはり頭の中で破裂し続ける激痛が、覆い尽くしていく。


「人間だ」

「やりやがった」

「くそったれ」

「下水に毒を」

「流している。水を飲むな」


 場違いに鳴り響く楽しげで盛大な歓声に混じって、断片的な言葉が耳に届く。揺れる視界の中で、大量のドブネズミが、まるで冬の訪れを知らせる枯れ葉の様に、下水を流れていった。


 俺の視界は、下水の底から空を見上げるかのように、歪んで淀む。走り回った。走り回るしか無かった。いつかこの激痛が体から剥がれ落ちると願い続けて、走り続けた。


 どれだけ走ったのか、どこに向かっているのかも、分からなかった。道筋には、至る所でドブネズミの死骸が、まるで朽ち果てた墓石の様に、違和感も無く並んでいる。俺は、死ぬのか。こんな無様に。くそったれ。殺してやる。人間め、くそったれ。


 俺は走り続けた。激痛は熱を持ち始める。夏の日差しを凝縮した固まりが、頭の真ん中に居座っている。全身の力が抜けていく。あぁ、死ぬのか。嫌だ。嫌だ。死にたくない。殺してやる。殺してやる。


 足が止まった。酷く喉が乾く。水を飲む力すら奪われた。体中が熱い。俺は、下水に飛び込んだ。頭の痛みと熱は、まるで全てを飲み込み終えた津波のように、ゆっくりと引いていく。俺の視界に、空が映り込んだ。どこまで流れるのか。俺はこのまま死ぬのか。あぁ、笑っちまう。


 死んでいったあいつらの様に、俺が精一杯の笑い声を上げていると、不意に何かが空を覆った。あぁ、殺してやる。幼い人間の女が、全てが歪んだ醜い顔をして、俺を持ち上げた。


「くそったれ、殺してやる」

 いくら叫ぼうとも、体は動かなかった。殺してやる、殺してやる。


「$%#’%#$&(大丈夫? ネズミさん?)」


 五月蠅いっ、話しかけるな。ちきしょう。殺してやる、殺してやる。


「%$##&%&=(どこか病気なの? 怪我もしてるわ)」


「触るなっ、くそったれ、お前等人間なんて、全部殺しやる」


「=&%#=%$$#%&(私がお家で、手当をして上げるわ)」


「離せっ、くそったれ、殺して……殺して……やる」

 俺の視界は、暗闇に飲み込まれた。あぁ、殺して……やる。





 耳に這う気持ちの良さで、俺は目を覚ました。頭は母ネズミの母乳に吸いついていた時程に冴えているような気がしたが、目を開いても視界は霞掛かっていて、体は酷く重い。


「ああっ、起きたのねっ。おはよう、ピーター」


 目の前で、大きな何かが動いている。俺は目を凝らして、視界の焦点を徐々に合わせていった。ドブネズミにしては、大きすぎる。


「心配したのよ、ピーター。だってずっと眠ってるんだもの」


 どこからか入り込んでいる日差しが、やけに眩しかった。俺の目の前にある大きな何かが、その光に照らされて、鮮明になっていく。


「そうね、目を覚ましたらご飯を食べなきゃ。ちょっと待っててね、ピーター。今ご飯を持ってくるわ」


 遠ざかっていく何かに、俺は目を見開いた。小さな背中が、ドアの向こうに消えた。完全に、最悪に、目が覚めた。あの出来事が、悪夢が、蘇る。人間だ。くそったれ。どれほどに暴れたくても、逃げだそうとしても、体は縛られたように動かない。


「さぁさぁ、ご飯の時間よ、ピーター」

 幼い人間が、姿を現した。小さな手に小さな器を持って、俺に近づいてくる。


「チューチューチューチュー(くそったれ、近寄るなっ、また殺すつもりかっ、なんであんな事を。なんの恨みがあるっ、くそったれ、殺してやる」


「元気ねっ、良かったっ。やっぱりお婆さんのお薬が効いたのね。だって凄く辛そうだったもの」


 俺はそこで、違和感に気づいた。なぜこの女、ネズミの言葉を話している。


「でもあんまり鳴いたら駄目よ。お婆さんに見つかったらきっと怒られるわ」


 幼い女はネズミの言葉を話しながら、色味の薄いスープに入った豆を一粒、指で摘んで俺に差し向けた。


「チューチュー(要るかっ、クソ女っ、何の為に俺をここに連れてきたっ、答えろ)」


「好き嫌いは駄目よ、ピーター。病気が良くならないわ」


「チューチュー(なぜ俺をここに連れてきたっ? 答えろ、人間)」


「ほら、口を開けて。私が食べさせて上げるわ」


 会話が成り立たない。まるで肉屋の真下に住む屈強な父ネズミの威を纏う小ネズミと話してる気分だ。何だこの馬鹿女は。


「せっかく良くなったのに、ご飯を食べないとまた倒れちゃうわ」


 余りに外れた会話を続ける人間のおかげで若干冷静になった俺は、再び気づいた事実に、また混乱に巻き込まれた。こいつがネズミ語を話しているんじゃない。俺が、人間の言葉を聞けている。なんだそれは? なんて無意味だ。


「まだ体調が悪いのかな。もう一回だけお婆さんのお薬飲んでみる? ピーター。でもこれで最後よ。だってお婆さんのお薬は高いの」


 女は不細工な笑みを浮かべた。余りの空腹と共に、吐き気がする。俺はどうにか動き出した前足で豆を奪い取った。この人間が何を考えて、どんな理由があるのか、俺に何をしようとしているのかは知らないが、ここで死ぬわけにはいかない。


俺は香しい匂いを発する豆の匂いを嗅ぎに嗅ぎまくって、僅かにかじり付いた。あぁ、なんて美味いんだ。コオロギの死骸よりは何倍も美味い。ちきしょう。


「食べてくれるのね。どう、美味しい?」


 五月蠅い、黙れ、話しかけるな。体が動くようになれば、手始めに、まずはお前の喉元にこの鋭く尖った自慢の前歯をお見舞いしてくれる。俺はそういって自分を奮い立たせながら、あまりに美味すぎる煮豆を、貪り喰った。俺がどれほど悪態を付こうとも、少女は不細工な笑みを浮かべ続け、俺の耳を、撫で続けていた。





 朝、心地良さに目を覚ます。まただ。少女が、俺の耳を、頬を、撫でている。止めてくれ、と口にしたところで、伝わらない。昨日の夜、寝る時もだ。まったく、気色が悪い。体が動くようになれば、殺してやる。


「ピーター、起きたのねっ、おはよう」


 返事をすると思うのか、人間は、敵だ。


「体の調子はいかがかしら、ネズミさん?」


 気色の悪い、その、まるでカブトムシの羽裏の様な笑みを、俺に向けるな。


「じゃあご飯を食べましょう。そうね、今日はご飯を食べたら、お外でお散歩はどうかしら? ピーター」


 勝手に行ってこい。


「そうね、外の空気を吸った方が、早く良くなるわ。じゃあご飯を持ってくるから、ちょっと待っててね」


 部屋を出ていった少女は、すぐに器を持って戻ってきた。まぁ、飯ぐらいは、食ってやる。このまま空腹で死ぬわけにはいかないからな。


「今日はキノコ炒めよ、ピーター。どうぞ」


 少女は細切れにされたキノコを俺の目の前に持ってくる。信頼する訳がない。お前は、人間だ。俺はすぐさま細切れキノコを前足で奪い取り、香しい匂いを嗅ぎに嗅ぎまくった。よし、大丈夫そうだ、と貪り食う。あぁ、地に落ちた死にかけの蝉よりは何倍も美味い。少女はこれまた不細工な笑みを浮かべて、俺を見つめていた。




 朝、心地良さに目を覚ます。しかし俺は、目を開けなかった。もう少しだけ、この心地よさに浸っていたかったからだ。


 昨日の夜、少女が泣いていた。ドブネズミの俺には、何故だか分からないし、当たり前に、気にもならない。俺は人間に恨みを持つ、ドブネズミなんだから。そんな事をずっと考えていたら、少女の指が耳から離れて、俺は目を開けた。


「おはよう、ピーター」


「チューチュー(昨日は、どうして泣いていたんだ?)」

 別に気にもならないが、どうせ伝わらないが、俺は訊いてみた。


「昨日、夜遅くにね、お母さんが来てお金を置いていってくれたの。今日はお魚よ。小さいけれど。じゃあ私はお買い物に行ってくるから、お留守番よろしくね、ピーター」


 どうして母親に会えて悲しむのか、やはりドブネズミの俺には理解できなかったが、ほんの少しだけ、昨日の夜、暗闇の中で泣いていた少女を見て、俺の心はほんの少しだけ、震えていた。




 朝、少女が起きる前に、まだ陽が昇る前に、俺は意識して目を覚ました。どうやらドブネズミらしい感覚が戻ってきた様だ。体も、何とか動かせる。町がどの方角にあるのかも、頭の中に道筋を描ける。帰ろう、元の居場所へ。俺はゆっくりと床に降りて、ボロ小屋の、ボロたる所以を、探し歩いた。


 分かり易く、目的の穴はすぐに見つかった。それこそボロボロのタンスの裏に、俺の為に準備されたかの様な穴が空いている。さぁ、帰ろう。少女は、命を助けてくれた礼に、殺さないでおいてやる。俺は最後に、少女の眠る小さなベッドに、視線を向けた。


「ピーター……どこに行くの?」


 くそっ、起きてやがる。俺は急いでタンスの裏に入り込み、壁の穴から外に出た。


「ピーターっ、どこに行くのっ」


 少女の声が、俺の貧相な尻尾を、引っ張り続ける。そんなわけ、あるはずない。そう言い聞かせ続けて、俺は軒下に入り込んだ。


「ピーターっ、待ってっ、帰ってきて、ピーターっ」


 そんな事、あるはずない。まるで馬鹿げてる。止めろ、俺の名を呼ぶなっ。ドブネズミに、名前なんか付けるなっ。俺は、町に戻るんだ。


「ピーターっ、お願いっ、一人にしないでっ」


 ふざけてる。止めろっ。あり得ない。下らない。まるで虚言癖のある奇跡だ。ドブネズミの俺が、人間の少女に、いや、あり得ない。


「ピーターっ」  


 分かった。分かったさ。認めよう。なんて馬鹿な話だ。俺は、人間に恋をしている。あぁ、そんな悲しそうな声で俺の名を呼ぶな。分かった。認めよう。俺は君の側に行てやる。君が、俺の名を呼ばなくなるまで、見守ってやるさ。あぁ、まるで下らない、下らない奇跡だ、くそったれ。


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