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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
最終章
32/39

雪降る月夜に



 俺は不潔な死骸の横たわる、埃と共に陰気が踊る不愉快な部屋を出て、受付のある一階へと向かった。その天井に張り巡らす柱を伝い、排水の管が通る壁の隙間から外に出る。遠回りにはなるが、この忙しい時間帯にいつもの出入り口である階段の踊り場へ向かう訳にはいかない。


 外に出て、宿場の裏側へ回る。周囲を確認して、ひと先ずと腰を落ち着けた。気づけば、これ見よがしの光を放つ満月が、地上を照らしている。まるで少女の幸せを告げる様な月明かりで、胸に居残る罪悪感は僅かにでも薄らいだ。


 澄み切った夜空に冷徹を添える風が通り抜け、小さな体を切り刻む。それでも、その冷徹な風に含まれる、今はまだ顔を見せない雪の気配が、俺を震い立たせた。満月も雪も、少女の好きなモノだ。あぁ、いつもの窓際で、空を眺める少女の横顔を、眺めていたい。どれほどに、綺麗だろう。


 俺は甘美な妄想に勇んで、腰を上げた。帰ろう、少女の元に。これで最後だ。別れの言葉を、悲しみで綴る訳にはいかない。出来ることなら、少女の笑顔を見たいが、そんな願いすら、もう俺は求めない。ただ少女の幸せを願い、感謝を伝えよう。   


 排水溝に潜り下水に入ると、数匹の年老いた、それでも俺よりは若いと思われるドブネズミが居るだけだった。人間の飯時に合わせた食材探しに、体の動くドブネズミは出払った様だ。


 それにしても、と俺は自虐を込めた鼻息を吹かせる。下水に残る年老いたドブネズミの外見は、お世辞を込めても汚らしい。それが我が身を写す鏡だと思うと、やるせなさに笑みまで溢れる。まぁ、笑うしかないってヤツだ。


 三本足の老ドブネズミが歩いていても、さすがにあっちも老ドブネズミだ。欠片ほどの興味すら向けられず、俺はまるで馬車に乗り城下町を進む貴族の様に、些細な煩わしさに出会うことも無く、下水を進んだ。

 休憩を繰り返し、若いドブネズミが下水に戻る前には、何とか町の端に、森の側にある排水溝に到着した。俺は最後の休憩を終えて、地上に這い出た。


 あぁ、なんて綺麗なんだろう。不意に目の前を覆った景色に、すぐさま足が止まった。夜に瞬く星々が、少女の為に泣いている。そう思った。金色に輝く涙が、空を覆っている。それほどに、綺麗な光景だった。


 夜を支配する満月が、揺りかごの様に穏やかな風に舞う生まれたての雪達に光を与え、闇の中を淡い金色で埋め尽くしていた。あぁ、奇跡でも起こりそうな夜だ。もし少女が寝ているのなら、今も涙を流しているのなら、いつもの窓際へ誘おう。一緒に、輝く夜空を眺めよう。きっと、喜んでくれる。俺の吐いた感嘆は白い靄となり、星の涙と解け合っていく。帰ろう、少女の元に。


 凍えるような寒さの中、未だに痛み続ける片足を引きずりながら歩いていても、自然と笑みが溢れた。前歯がせり上がる、不格好なヤツじゃない。胸の内に希望が灯る、体が熱を帯びる、まるで春先の昼過ぎ、少女と共に穏やかな風に安らいだうたた寝の様な、夏の朝、少女と共に聞いた川のせせらぎの様な、そんな希望が、そんな笑みが、俺の内から溢れ出した。


 出会ってくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。優しさをくれて、笑いかけてくれて、話しかけてくれて、名をくれて、一緒にいてくれて、幸せを与えてくれて、希望を教えてくれて、ありがとう。共に過ごした時間は、幸せだった。君との別れは、尽きることの無い感謝で綴ろう。あぁ、幸せになってくれ。


 俺はボロ小屋まで、あの頃少女と共に歩いた道を進んだ。星の涙は、未だ空から舞い降りている。煌めいて、輝いて、まるで俺をボロ小屋へ導くように、少女の悲しみを包み込む様に、暗い森の道に降り注ぐ。


 不意に、少女の健気な笑みが浮かんだ。辛い日々の中、少女はいつも笑っていた。俺は愚痴ばかりだったな。誰かを蔑んでばかりだった。少女は、婆さんを想っていた。今なら、その理由を理解出来る気がする。家族を、信じていたんだろう。俺が、少女の幸せ願うように、いつまでも、信じていたかったんだろう。


 少女は最後まで、姿を消すまで、母親を信じていた。俺は、疑うばかりだった。俺も少女と共に、信じ抜くべきだった。それならばもう少し、君とその痛みを分かち合えたかもしれない。


 少女が愛を知った日は、本当に幸せだった。偽りだったかもしれない、それでも、少女は輝いていた。俺も信じられないほど、嬉しかったんだ。見慣れた薄暗いボロ小屋の室内が、恋に彩られていた。愛を飾っていた。忘れられない、光景だった。


 空を見上げると、雪を生み出している厚い雲が、まるで奇跡を覆い尽くす現実の様に、少女の幸せを照らす満月に近寄っていた。


 あぁ、早く帰ろう。せめて最後は、最後ぐらいは、雪降る月夜を、まるで奇跡の様な光景を知らせに現れた、幸せを運ぶドブネズミで有りたい。俺は強い痛みを放つ左後ろ足を引っ張って、森の道を急いだ。


 いくら急いだところで、小さな体は中々進まない。それでも、俺は急いだ。生まれたての雪達は、いつの間にか大粒の雪に変わり、地上に微かな足踏みを鳴らし始める。もう少しだけ、待ってくれ。俺は空を見上げ、夜を彩る星の涙に、少女の笑みを張り付ける。あぁ、なんて綺麗なんだろう。まるで、なんて言葉も出ない。君の笑顔は、何よりも、美しい。


 息も絶え絶えに森を歩き抜け、俺はボロ小屋の前に到着した。間に合った安堵に、胸をなで下ろす。星の涙は、不幸を生み出すボロ小屋にも、全てを包み込む様に、降り注いでいた。


 空を見上げれば、今も満月は地上を照らし、媚びへつらい頬を合わせるかのように近づく厚い現実にすら、淡い光を与えている。少女を窓際へ誘う時間ぐらいは、月明かりに照らされて微笑む少女の横顔を眺める時間ぐらいは、残されていそうだ。


 俺は息を整えて、無駄に跳ね続ける鼓動と、笑みさえかき消そうとする寂しさを胸の奥に押しとどめて、ボロ小屋の軒下から、元婆さんの部屋へ向かった。


 タンスの裏に空いた壁の穴から、室内に入った。いつもの窓際に目を向けたが、少女の姿は無い。微かな吐息が、耳に届く。ベッドの上で寝ているのか、もしかしたら今も、泣いているのか。もしそうなら、優しく起こして、窓際へ誘おう。目を輝かせるはずだ。並んで奇跡を眺めながら、俺は、君に別れの言葉を、感謝を、伝えよう。


 ゆっくりと、ベッドの脇にある棚に上った。もし幸せそうな寝顔をしていたら、どうしようか。声を掛けて起きなければ、朝まで待とう。泣いているのなら、無理矢理にでも、窓際へ誘おう。きっと、今よりは、幸せになってくれる。


 俺は棚の上から、少女を眺めた。目の前が、眩む。視点は、定まる事を拒否した。小さな体は、震えることすら忘れた。呼吸はすぐさま、気が狂った様に取り乱した。少女は、目を瞑っている。絶望が降り注いだような血溜まりの中で、全てに、目を塞いでいた。


 歯車の壊れた現実が、目の前でクルクルと廻っている。破裂した奇跡が、溜め込んでいた不幸をまき散らし、少女の姿を歪ませる。口元に張り付く血の色だけが、やけに鮮明な赤を放っていた。


 理解など、出来るはずがなかった。したくなかった。それでも、ベッドの上で眠る少女の姿は、まるで血沼の底から浮かび上がるかのように、ゆっくりと胸に刺し込まれる刃物の様に、俺の視界を、明確な絶望へと導いていく。

 ダメだ、どうして、何が、あぁ、苦しい、目を、開けてくれ、誰が、あぁ、笑ってくれ、泣いてもいい、お願いだから、窓際へ、違う、俺はまた、過ちを、君の幸せを、最後の別れを、感謝を、待ってくれ、星の涙が、降っているんだ、今は、そんな事、あぁ、酷すぎる。


 どれほど口を開いても、息を吐き出しても、声は出なかった。思考は定まらない。絶望に、捕らえられた。少女が、なぜ、少女が、何をした。優しかった。誰も傷つけなかった。なぜ少女だけが。健気に、支え続けた。辛辣な婆さんも、醜悪な母親も、不潔な恋人も、汚らしいドブネズミも、少女は全部を背負った。不幸な現実を、全て包み込んで、微笑んでいたんだ。それが、この仕打ちなのか。小さな幸せを、ちっぽけな平凡を、望んでいた。それがこの、結果なのか。頼むよ。目を、開けてくれ。俺を残して、俺より先に、眠り続けるのは止めてくれ。君は、誰よりも、君に出会った俺よりも、世界で一番、幸せになるべきなんだ。


「チューっ(起きろっ)」

 くそったれ。

「チューチューっ(起きてくれっ)」

 くそったれ。

「チューチューっ(幸せにっ)」

 くそったれ。

「チューっ(なるんだろっ)」

 くそったれ。

「チューチューっ(じゃあ目を)」

 くそったれ。

「チューチューっ(開けてくれっ)

 くそったれ。

「チューチュー(君は誰よりも)」

 頼むよ。

「チュー……(幸せに……)」

 頼むよ。

「チュー(なるべきなんだ)」 

 目を開けてくれ。あぁ、頼むよ。


 絞り出した震える鳴き声に、少女は微かに目を開いた。血の張り付いた口元に、俺の胸を裂く、俺の望みを打ち砕く、笑みを浮かべた。あぁ、なんて悲しい笑みを。


 少女の細い腕が、矛盾する重さを伴って浮かび上がり、近づいてくる。細い、細い指が、小さな体を包み込んだ。柔らかな親指が、俺の頬を撫でる。あぁ、言葉も出ない。狂おしいほど、苦おしい。


 目の前に映し出される光景は、まるで枯れ葉に張り付く凍った霜よりも、炎が舞い上がられた燃え滓よりも、色彩豊かな奇跡で溢れた幼子の夢よりも、触れればすぐに朽ち果ててしまいそうな儚さを、俺に見せつけた。怖かった。俺が少しでも動けば、口を開けば、全てが壊れてしまう気がした。


 少女の親指が、俺の耳を撫でる。何度も何度も、俺の耳を、頬を、体を、撫でる。あぁ、止めてくれ。どうして俺は、君を助けられない。どうして俺は、君を抱きしめられない。君の幸せを、守れない。俺は、どうして。あぁ、俺は。


「ねぇ、ピーター」

 あぁ、どうして、そんな笑みを。


「ごめんね、ピーター」

 君を、幸せに。


「私、あたなに酷い事を言ったわ」

 君の言葉は、声は、仕草は、全ては。


「昨日、あたなが居なくなって、とても後悔したの」

 側に、居るべきだった。


「いつも一緒にいてくれたのに」

 泣かないでくれ。


「あんなに、幸せをくれたのに」

 それは俺の、言葉なんだ。俺は。俺は。


「私は、酷いことを言ったわ」

 君の声を、聞けるだけで。


「最低で、我が儘なのは分かってるの」

 あぁ、お願いだ。


「でもね、一人は嫌なの」

 幸せを。


「だから、ピーター」

 生きることを。


「私が……眠るまで、側に居て欲しい。お願い、ピーター……お願い」

 あぁ、君は、君は。


「ピーター」


「君は死なないっ。死なないんだっ」 


「ごめんなさい、ピーター。一人は、嫌なの」

「君は……絶対に死なない」


「夢を見ていたの。幸せな夢だった」

「叶えればいい。俺が――」


「お婆さんがいて、お母さんがいて、私がいて、ピーター、あたながいたわ」

「生きていれば、もっと幸せな夢も、叶えられる」


「みんな、あなたの膨らんだ頬を見て、笑ってるの」

「いくらでも、膨らませる。だから――」


「幸せな、夢だった。ありがとう、ピーター」

「君の感謝なんて、聞きたくない」


「ごめんなさい、ピーター」

「君の謝罪なんて、聞きたくない」


「もう、私にはあなたしかいないの、ピーター」

「別れの言葉なんて」


「お願い、ピーター。最後まで」

「願いなんて」


「側に、居て欲しい」

「聞きたくないんだっ」


 俺は小さな体を包み込む細い指から、そっと抜け出した。少女の目が、寂しさに、悲しみに、儚く、脆く、切なく、歪んだ。あぁ、これで最後だ。君を傷つけるのは。許してくれないくていい。だから、生きてくれ。幸せに、なってくれ。


「ピーター……お願い」


 俺は、諦めない。俺は君を、君の幸せを、諦めない。世界中の誰もが、森の木々が、葉の一枚一枚が、砂粒一つまでもが、霧の一滴までもが、冬の晴天すら、夏の木陰すら、春の花々すら、秋の満月すら、君自身すらも諦めようと、俺は諦めない。希望を打ち砕かれて未来に目を閉じようと、不幸すらも抱え込んで暗闇に浮かぶ幻想に身を委ねようと、俺は――


「ピーターっ、待ってっ、おねがっ――」


 俺の背後で、少女の悲痛な叫びが、追い打ちを掛けるような咳込みに、打ち消された。左後ろ足が、釘を打ち抜かれたように痛み、小さな体を止めようとする。絶望に狂わされた呼吸と鼓動は、俺を引き留めようと体を押さえつける。それでも、俺は足を止めなかった。


 振り返れば、少女の悲しみに潤んだ眼差しを、俺を求める細い指を、暗闇に飲み込まれたその姿を、もう一度見てしまえば、俺自身も、その暗闇に身を委ねてしまう気がした。大丈夫だ。君は、絶対に死なない。俺が。俺が。そう、言い聞かせ続けた。


 ボロ小屋の軒下から外に出る。森へ向かった。星の涙は、まるで不老不死を手に入れた蓑虫の様な、死後に絶大な評価を受ける芸術家の様な、人間の言葉を解するドブネズミの様な、そんな奇跡を、無意味で残酷な奇跡を見せつけるように、未だ降り注いでいる。


 俺は夜空を睨みつけた。雪を生み出す厚い現実と、奇跡を生み出す満月が、俺を見下して、少女の不幸を嘲り、肩を並べて笑っている。あぁ、くそったれ。まるで、まるで。


 俺にとって、少女こそが、奇跡だった。少女にとって、俺は。あぁ、すまない。俺は君に、ずっと不幸を与えていた。すまない。すまない。俺は、汚らしい現実だったんだ。不幸を振りまく、平凡すらも遮断する、現実だった。


 君は、そんな俺を救おうと現れた、奇跡だったんだ。俺を照らし、俺を導き、身を削ってまでも、幸せを与えてくれた。そんな奇跡を汚していることにも気づかず、俺は、君の側に居座り続けた。俺すらも、奇跡であると、勘違いして、君を汚し続けていたんだ。


 何が、幸せを運ぶドブネズミだ。何が、少女に唯一訪れた奇跡だ。俺は紛れもなく、雪降る月夜に現れた、不幸を運ぶドブネズミだ。奇跡さえ、君さえも覆い尽くす、ただの、現実だったんだ。


 森を進んだ。小さな体は、痛みすら感じない。少女を想う苦しみは、どれほどの老いよりも、どれほどの寒さよりも、俺の身を蝕んでいく。頼む。すまない。頼む。すまない。頼む。すまない。君は、死なない。俺は、俺は。あぁ、くそったれ。


 月明かりが消えた。真っ黒な固まりが、森の道を塞いでいく。絶望の壁が、目の前を覆った。意識は何度も途切れた。時間の経過すら、分からなかった。それでも俺は、俺の体は、森の中を歩き続けていた。


 頭の中には、少女の姿が目眩く浮かび続ける。泣いている。悲しんでいる。笑みを、浮かべた。裂けた胸の痛みが、叫び声となって暗闇に飲み込まれていく。


 俺は、奇跡を起こせない。俺は、少女を救えない。まるで燃えさかる家屋を見つめながら、雨を願う家主。干からびた小猿を背負い続ける母猿。神に近づこうと我が身を切り刻む盲信の信者。俺の望みなど、願いなど、祈りなど、まるで無意味だ。


 それならば、奇跡を、見つけだすしかない。俺ではない何かに、頼るしかない。一つだけ、頭の中に浮かんだ。仕様もない、奇跡。耳を広げ空を飛ぶ象や、火を吐き吹く巨大な蛇、山すらも踏みつぶす怪物や、地位も名誉も捨て去り貧民の娘と永久の契りを結ぶ王子、そんな下らない奇跡と、何も変わらない。それでも俺は、頼るしかなかった。


 この町で、そんな下らない奇跡と結びつく言葉が、一つだけあった。少女に読み聞かせて貰った絵本にも、ドブネズミの噂話にも、その言葉は存在していた。


 森の暗闇が終わる。町の入り口が見えた。幻想の少女が、あの頃の日常が、手を振りながら離れていく。恐怖など、欠片も感じなかった。ただ少女を助けたい。頭の中は、それだけで埋め尽くされる。俺は少女の陰を、小さな背中を追いかけて、魔女通りへと足を踏み入れた。

 



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