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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
最終章
30/39

燃えさかる炎に舞い踊る羽虫


 部屋に入り込んでいた日差しが、黒々とした陰に浸食されていく。その濃さに比例して、俺の鼓動は高鳴る。太陽はまるで腐りかけた木の実が枝から落下する様に、すぐさま姿を消していった。


 暗い室内に、俺の背後から寝起きの満月が淡い光を注ぎ込む。あいつの部屋に似合う埃がその光を反射させ、あいつの部屋には似つかわしくない、幻想を作り出す。足下に置いている着飾った毒キノコが、舞踏会と間違えて踊り出しそうだ。


 立て付けの悪い窓枠が、おそらく身を千切るほどの冷たさを持った風に、カタカタと震えた。隙間風が小さな体を切り刻んでいく。それでも、俺の殺意は貧相な尻尾の先程も揺るがない。役立たずな左後ろ足さえ、まるで革命への追走を決意して鍬を握る貧民の様に、今は全ての痛みに堪え忍び、その狼煙が上がる瞬間を待ちわびていた。


 不潔な足音が、不意に届く。まるで固形物になった埃すらも舞い立たせそうな、大量の虫が這い住まう腐った床板を引き剥がし続けている様な、そんな足音が近づいていくる。俺は乱れそうになる呼吸を落ち着けた。


 ドアが開く。不潔を体現した主人の登場に、埃達が忠誠を誓う舞いを見せた。廊下から差し込んだランプの灯りが淡い月光を部屋から追い出し、毒キノコが踊る幻想的な舞台は瞬く間に下品な寝室へと成り下がる。廊下のランプはそのまま、雄鳥の鶏冠の様に赤く、不気味な突起を張り巡らすあいつの顔面を、俺に見せつけた。


 不躾な里芋を思わせる体型のあいつは、右手に持った蝋燭で、壁に三カ所備え付けられたランプに明かりを灯し、蝋燭の火を吹き消す。部屋の壁際にある腰より低い椅子に腰掛けて、目の前にある丸机に短く太い足を乗せた。左手に持つ酒筒を口に運び、踏みつぶした里芋の様な笑みを浮かべている。胸内から数枚の紙幣を取り出し、机の上に散らかした。分かり易く、今日は勝ったのだろう。俺の鼓動が跳ねた。


「あのクソ女、何休んでんだよ」


 鼻息混じりの侮蔑した呟きに、左後ろ足が千切れる程に痛んだ。今はまだ、飛び出す訳にはいかない。その口元に、下水の隅に延々と放置されている黒ずんだ布切れから延びる粘り気が住み着くその口元に、無理矢理にでも毒キノコをねじ込みたい衝動に駆られたが、俺は年老いた特権を活用する。落ち着け。冷静に、待ち続けろ。時期は来る。確実に、殺すんだ。失敗は無い。


「抱いてやってんだから金ぐらい出せってんだ」


 痛みを伴うほど、前歯を食いしばった。あぁ、殺してやる。今のうちに笑ってろ。お前の命は、ドブネズミに奪われる。苦しみ藻掻き死に絶えたお前の死骸に、唾をまき散らしながら笑い声を浴びせてやる。あの世で、存分に馬鹿にされるだろう。俺は待ち続けられるぞ。お前を殺すまで、いつまででも。今の内に、笑ってろ。俺が殺してやるから。くそったれ。


「あぁ、腹減った。早く持ってこいよ。愚図が」


 あいつは腹を触りながらドアを睨みつけた。貧相な尻尾が珍しく暴れる。分かってる。落ち着け。機会が来るとは限らない。確かに、準備は整い始めた。だが、その舞台に上がるにはまだ不十分だ。俺は勇み立つ尻尾を落ち着かせた。


 あいつは不愉快な舌打ちを響かせる。続けざまに左手を握り込んで見つめた。その拳は、不自然に赤みがかっている。目眩を起こすほどの殺意が、俺の全身を支配した。その手で、少女を殴ったのか。


「馬鹿女がっ」


 その言葉に、体は動き出す。頭の中で、誰かが今だと叫んだ。全身の毛が逆立ち、体中がその憤怒を受け入れる。許せるはずがない。怒りに、支配された。今すぐ、殺してやる。


 不意に激痛が脳を揺らし、我に返る。あぁ、そうか、お前が止めてくれたのか。俺は役立たずだと蔑んでいた左後ろ足を、何度も撫でた。体中の隅々が、あいつを殺すために協力してくれている様な気がした。待ち続けろ。まだ、幕は開いてない。


 控えめな、ドアを叩く音が鳴る。まだらな赤い突起を纏う里芋が立ち上がった。その汚らしい顔面にお似合いの、へりくだった笑みを浮かべてドアを開ける。


「お食事のほう、お持ちいたしました」

 聞いたことの無い、まだ幼さの残る声が漏れる。あいつの背に邪魔されて、顔は見えない。


「あぁ、ありがとう。今日はシチューかな?」

 当たりの良さを被せた吐き気をもよおす声が、俺を苛立たせる。


「そ、そうだと思います」

 上擦った幼い声が、まだ仕事に慣れていない事を伝える。


「緊張しなくても大丈夫だよ。今日は忙しいのかい? もし良かったら――」


 別にお前が誰を口説こうと構わない。少女の愛を踏みにじったお前に、また少女を愛して貰いたいとも思わない。お前と少女は、切り離された。


「え、えっと、その、今日は忙しいので、その、家にも帰らなくちゃいけないので、ごめんなさい」

「いや、謝らなくても良いんだよ。忙しいところ悪かったね。また今度、もし良かったら」

「は、はい、ありがとうございます」

「じゃあ、がんばって」


 ドアの閉まる音が鳴った。あいつは振り返り、顔に張り付けていた笑みを汚れた上履きの様な無表情に切り替える。右手に持つ匙の差さった大皿が、湯気を上げていた。


「ブスが調子に乗ってんじゃねぇよ」


 椅子に腰掛け、丸机に大皿を置く。湯気を上げているのは、やはり聞こえた通り、俺の目的を後押しする様なシチューだった。この料理なら、毒キノコを混ぜ込んでも気づかれない。余程命を狙われる生活に身を置く大富豪でも無ければ、まるで雨上がりの水溜まりに行列を成して飛び込み続ける蟻の様に、暗闇の中燃えさかる炎に舞い踊る羽虫の様に、何の疑問も抱かず死へ向かうはずだ。


 後はこいつが、毒キノコをシチューに混ぜ込む、その時間を作ってくれるかだ。焦るな。いつかはやってくる。俺は貧相な見た目に似合わず暴れ出した尻尾を右後ろ足で押さえつけた。


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